十善法語 / 巻第七・不兩舌戒
有人カ至於用力之久而一旦豁然貫通焉則衆物之表裏精粗無不到。而吾心之全體大用無不明矣ト云。此等ハ妄想ノ差排シヤ。佛教一切智智ノ言句ヲ聞テ摸擬セルデアラウケレトモ。ソレハ別途ノコトシヤ。此身限アリ。其智限アリテ。一人衆能ヲ該ルコトナラヌ處ニ。天道人理モ備ルコトシヤ。我一人ノ智ヲ以テ衆事ヲ統ラルルト思フハ。理ニ味キコトシヤ。要ヲ取テ云ハ。一家ノ主ハ一家ノ大體ヲ心トスヘシ。薪水鹽酢ノ營ハ奴婢ニ命シテ可ナリ。一郡一國ノ主ハ一郡一國ヲ我心トスヘシ。細末ノ事ハ知ラサルモ可ナリシヤ。一天四海ノ主ハ一天四海ヲ我心トスヘシ。諸ノ學才文物等ハ其人ヲ用テ可ナリシヤ。此ヲ十善ノ法ト云。此ニ至テハ甚深ノ理窟モ末ガ末シヤ。後世ノ儒生ガ先聖未發ノ論ナドト云コトヲ珍重スルハ。愚ノ甚シキシヤ。
新字:有人カ至於用力之久而一旦豁然貫通焉則衆物之表裏精粗無不到。而吾心之全体大用無不明矣ト云。此等ハ妄想ノ差排シヤ。仏教一切智智ノ言句ヲ聞テ摸擬セルデアラウケレトモ。ソレハ別途ノコトシヤ。此身限アリ。其智限アリテ。一人衆能ヲ該ルコトナラヌ処ニ。天道人理モ備ルコトシヤ。我一人ノ智ヲ以テ衆事ヲ統ラルルト思フハ。理ニ味キコトシヤ。要ヲ取テ云ハ。一家ノ主ハ一家ノ大体ヲ心トスヘシ。薪水塩酢ノ営ハ奴婢ニ命シテ可ナリ。一郡一国ノ主ハ一郡一国ヲ我心トスヘシ。細末ノ事ハ知ラサルモ可ナリシヤ。一天四海ノ主ハ一天四海ヲ我心トスヘシ。諸ノ学才文物等ハ其人ヲ用テ可ナリシヤ。此ヲ十善ノ法ト云。此ニ至テハ甚深ノ理窟モ末ガ末シヤ。後世ノ儒生ガ先聖未発ノ論ナドト云コトヲ珍重スルハ。愚ノ甚シキシヤ。
書き下し
有人カ至於用力之久而一旦豁然貫通焉則衆物之表裏精粗無不到。而吾心之全体大用無不明矣ト云。此等ハ妄想ノ差排シヤ。仏教一切智智ノ言句ヲ聞テ摸擬セルデアラウケレトモ。ソレハ別途ノコトシヤ。此身限アリ。其智限アリテ。一人衆能ヲ該ルコトナラヌ処ニ。天道人理モ備ルコトシヤ。我一人ノ智ヲ以テ衆事ヲ統ラルルト思フハ。理ニ味キコトシヤ。要ヲ取テ云ハ。一家ノ主ハ一家ノ大体ヲ心トスヘシ。薪水塩酢ノ営ハ奴婢ニ命シテ可ナリ。一郡一国ノ主ハ一郡一国ヲ我心トスヘシ。細末ノ事ハ知ラサルモ可ナリシヤ。一天四海ノ主ハ一天四海ヲ我心トスヘシ。諸ノ学才文物等ハ其人ヲ用テ可ナリシヤ。此ヲ十善ノ法ト云。此ニ至テハ甚深ノ理窟モ末ガ末シヤ。後世ノ儒生ガ先聖未発ノ論ナドト云コトヲ珍重スルハ。愚ノ甚シキシヤ。
現代語訳
ある人が、力を用いることが久しくなって、ある日からりと貫き通るに至れば、万物の表裏精粗に到らないところはなく、わが心の全体と大いなる働きは明らかでないところはない、と言った。これらは妄想の配置である。仏教の一切智智の言葉を聞いて模倣したのであろうけれども、それは別のことである。この身には限りがあり、その智には限りがあって、一人で多くの能力を兼ねることができないところに、天の道も人の理も備わるのである。自分一人の智で多くの事を統べられると思うのは、理に暗いことである。要点をつかんで言えば、一家の主は一家の大体を心とすべきである。薪や水や塩や酢の営みは下男下女に命じてよい。一郡一国の主は一郡一国を自分の心とすべきである。細かな事は知らなくてもよいのである。天下四海の主は天下四海を自分の心とすべきである。諸々の学才や文物などは、その人を用いてよいのである。これを十善の法という。ここに至っては、甚だ深い理屈も末の末である。後世の儒者が、先の聖人がまだ発しなかった論などということを珍重するのは、愚の甚だしいものである。
解説
この章句が説くこと
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『後世への最大遺物』第二回・誰でも文学者になれるわけではないそう申しますと、またこういう問題が出てきます。われわれは金を溜めることができず、また事業をなすことができない。それからまた、それならばといって、あなたがたがみな文学者になったらば、たぶん活版屋では喜ぶかもしれませぬけれども、社会では喜ばない。文学者の世の中にふえるということは、ただ活版屋と紙製造所を喜ばすだけで、あまり社会に益をなさないかも知れない。ゆえに、もしわれわれが文学者となることができず、またなる考えもなし、バンヤンのような思想を持っておっても、バンヤンのように綴ることができないときには、別に後世への遺物はないかという問題が起る。それは私にもたびたび起った問題であります。なるほど文学者になることは、私が前に述べましたとおりやさしいこととは思いますけれども、しかし誰でも文学者になるということは、実は望むべからざることであります。
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