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韓非子 / 喻老第二十一

故冬耕之稼,后稷不能羡也;豐年大禾,臧獲不能惡也。以一人力,則后稷不足;隨自然,則臧獲有餘。故曰:「恃萬物之自然而不敢爲也。」空竅者,神明之户牗也。耳目竭於聲色,精神竭于外貌,故中無主。中無主,則禍福雖如丘山,無從識之。故曰:「不出於户,可以知天下;不闚於牗,可以知天道。」此言神明之不離其實也。趙襄王學御於王子於期,俄而與於期逐,三易馬而三後。

新字:故冬耕之稼,后稷不能羡也;豊年大禾,臧獲不能悪也。以一人力,則后稷不足;随自然,則臧獲有余。故曰:「恃万物之自然而不敢為也。」空竅者,神明之戸牗也。耳目竭於声色,精神竭于外貌,故中無主。中無主,則禍福雖如丘山,無従識之。故曰:「不出於戸,可以知天下;不闚於牗,可以知天道。」此言神明之不離其実也。趙襄王学御於王子於期,俄而与於期逐,三易馬而三後。

書き下し

故に冬耕の稼は、后稷も羨すこと能はず、豊年の大禾は、臧獲も悪しくすること能はず。一人の力を以てすれば、則ち后稷も足らず、自然に随へば、則ち臧獲も余り有り。故に曰く、「万物の自然を恃みて敢へて為さず」と。空竅は神明の戸牖なり。耳目声色に竭き、精神外貌に竭く、故に中に主無し。中に主無ければ、則ち禍福丘山の如しと雖も、従りて之を識る無し。故に曰く、「戸を出でずして、以て天下を知るべく、牖を闚はずして、以て天道を知るべし」と。此れ神明の其の実を離れざるを言ふなり。趙の襄王、御を王子於期に学び、俄にして於期と逐ひ、三たび馬を易へて三たび後る。

現代語訳

だから、冬に耕した作物は、農業の祖である后稷でも豊かに実らせることはできず、豊作の年の大きな稲は、下働きの奴婢でも悪くすることはできない。一人の力に頼れば后稷でさえ足りず、自然に従えば下働きの者でも余りが出る。だから(老子は)「万物の自然に頼って、あえて作為しない」と言うのである。目や耳などの穴は、精神の出入りする戸や窓である。耳や目が音や色に使い尽くされ、精神が外見の飾りに使い尽くされれば、心の中に主がいなくなる。心の中に主がいなければ、禍や福が山のように積み上がっても、それを見分けるすべがない。だから「戸口を出なくても天下のことを知ることができ、窓から外をのぞかなくても天の道を知ることができる」と言うのである。これは精神がその本来の拠りどころを離れないことを言っているのである。趙の襄王(襄子)が王子於期に馬車の御し方を学び、まもなく於期と競走したが、三度馬を替えても三度とも遅れた。

解説

前半は「自然に随ふ」ことの力を説きます。季節外れの冬に耕せば農業の祖の后稷でも実らせられず、豊年には誰がやっても実るという対比は、個人の力より時機と条件の方が結果を左右するという指摘です。中ほどは「戸を出でずして天下を知る」を、感覚を外に使い果たさず心に主を保つことと解きます。末尾は趙襄子が御者の王子於期に負ける話の始まりで、次の単位で於期が理由を明かします。韓非は老子の無為を、条件と仕組みに乗る技術として読みます。仕事でも、努力の量より、市場の季節に合っているかの方が大きいことが多く、情報を浴びすぎて判断の軸を失うのも同じ危うさです。

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