韓非子 / 喻老第二十一
勾踐入宦於吳,身執干戈爲吴王洗馬,故能殺夫差於姑蘇。文王見詈於王門,顔色不變,而武王擒紂於牧野。故曰:「守柔曰強。」越王之霸也不病宦,武王之王也不病詈。故曰:「聖人之不病也,以其不病,是以無病也。」宋之鄙人得璞玉而獻之子罕,子罕不受。鄙人曰:「此寶也,宜爲君子器,不宜爲細人用。」子罕曰:「爾以玉爲寶,我以不受子玉爲寶。」是鄙人欲玉,而子罕不欲玉。故曰:「欲不欲,而不貴難得之貨。」王壽負書而行,見徐馮於周塗。馮曰:「事者,爲也。爲生於時,知者無常事。書者,言也。言生於知,知者不藏書。今子何獨負之而行?」於是王壽因焚其書而儛之。故知者不以言談教,而慧者不以藏書篋。此世之所過也,而王壽復之,是學不學也。故曰:「學不學,復歸衆人之所過也。」夫物有常容,因乘以導之。因隨物之容,故静則建乎德,動則順乎道。宋人有爲其君以象爲楮葉者,三年而成。豐殺莖柯,毫芒繁澤,亂之楮葉之中而不可别也。此人遂以功食禄於宋邦。列子聞之曰:「使天地三年而成一葉,則物之有葉者寡矣。」故不乘天地之資而載一人之身,不隨道理之數而學一人之智,此皆一葉之行也。
新字:勾践入宦於呉,身執干戈為呉王洗馬,故能殺夫差於姑蘇。文王見詈於王門,顔色不変,而武王擒紂於牧野。故曰:「守柔曰強。」越王之覇也不病宦,武王之王也不病詈。故曰:「聖人之不病也,以其不病,是以無病也。」宋之鄙人得璞玉而献之子罕,子罕不受。鄙人曰:「此宝也,宜為君子器,不宜為細人用。」子罕曰:「爾以玉為宝,我以不受子玉為宝。」是鄙人欲玉,而子罕不欲玉。故曰:「欲不欲,而不貴難得之貨。」王寿負書而行,見徐馮於周塗。馮曰:「事者,為也。為生於時,知者無常事。書者,言也。言生於知,知者不蔵書。今子何独負之而行?」於是王寿因焚其書而儛之。故知者不以言談教,而慧者不以蔵書篋。此世之所過也,而王寿復之,是学不学也。故曰:「学不学,復帰衆人之所過也。」夫物有常容,因乗以導之。因随物之容,故静則建乎徳,動則順乎道。宋人有為其君以象為楮葉者,三年而成。豊殺茎柯,毫芒繁沢,乱之楮葉之中而不可別也。此人遂以功食禄於宋邦。列子聞之曰:「使天地三年而成一葉,則物之有葉者寡矣。」故不乗天地之資而載一人之身,不随道理之数而学一人之智,此皆一葉之行也。
書き下し
勾践、呉に入宦し、身づから干戈を執りて呉王の為に洗馬す、故に能く夫差を姑蘇に殺す。文王、王門に詈られて、顔色変ぜず、而して武王、紂を牧野に擒にす。故に曰く、「柔を守るを強と曰ふ」と。越王の霸たるや宦を病まず、武王の王たるや詈を病まず。故に曰く、「聖人の病まざるや、其の病まざるを以て、是を以て病無きなり」と。宋の鄙人、璞玉を得て之を子罕に献ず。子罕受けず。鄙人曰く、「此れ宝なり、宜しく君子の器と為すべし、宜しく細人の用と為すべからず」と。子罕曰く、「爾は玉を以て宝と為し、我は子の玉を受けざるを以て宝と為す」と。是れ鄙人は玉を欲して、子罕は玉を欲せず。故に曰く、「不欲を欲して、得難きの貨を貴ばず」と。王寿、書を負ひて行き、徐馮に周の塗に見ゆ。馮曰く、「事は為なり。為は時に生じ、知者は常事無し。書は言なり。言は知に生じ、知者は書を蔵せず。今子何ぞ独り之を負ひて行く」と。是に於て王寿因りて其の書を焚きて之に舞ふ。故に知者は言談を以て教へず、慧者は書を以て篋に蔵せず。此れ世の過る所なり、而るに王寿之に復る、是れ学ばざるを学ぶなり。故に曰く、「学ばざるを学び、衆人の過る所に復帰す」と。夫れ物には常容有り、因りて乗じて以て之を導く。物の容に因随す、故に静なれば則ち徳に建ち、動けば則ち道に順ふ。宋人に其の君の為に象を以て楮葉を為る者有り、三年にして成る。豊殺茎柯、毫芒繁沢、之を楮葉の中に乱して別つべからざるなり。此の人遂に功を以て宋邦に食禄す。列子之を聞きて曰く、「天地をして三年にして一葉を成さしめば、則ち物の葉有る者寡なからん」と。故に天地の資に乗ぜずして一人の身に載せ、道理の数に随はずして一人の智を学ぶ、此れ皆一葉の行なり。
現代語訳
越王の勾践は呉に下って臣として仕え、自ら武器を手にして呉王の馬前の先導役まで務めた。だからこそ、のちに夫差を姑蘇で殺すことができた。周の文王は(殷の)王の門で罵られても顔色ひとつ変えなかった。だからこそ、(子の)武王は紂を牧野で捕らえることができた。だから(老子は)「柔らかさを守ることを強いという」と言うのである。越王が覇者となれたのは臣として仕えることを苦にしなかったからであり、武王が王者となれたのは(父が)罵られることを苦にしなかったからである。だから「聖人が苦しまないのは、それを苦としないからであり、だから苦がないのである」と言うのである。宋の田舎者が掘り出した玉の原石を子罕(宋の執政)に献上したが、子罕は受け取らなかった。田舎者が「これは宝です。立派なお方の器にこそふさわしく、つまらぬ者が使うべきものではありません」と言うと、子罕は「あなたは玉を宝とし、わたしはあなたの玉を受け取らないことを宝とする」と言った。これは、田舎者は玉を欲し、子罕は玉を欲しなかったのである。だから(老子は)「欲しないことを欲して、手に入りにくい財宝を貴ばない」と言うのである。王寿が書物を背負って旅をし、周の道で徐馮に会った。徐馮は言った。「事とは行うことである。行いは時に応じて生まれるから、知者には決まりきった事はない。書物とは言葉である。言葉は知から生まれるから、知者は書物をしまいこまない。いま君はどうしてひとりそれを背負って歩いているのか」。そこで王寿はその書物を焼き、その前で舞った。だから知者は言葉で教えず、賢い者は書物を箱にしまいこまない。これ(書物に頼ること)は世の人が誤るところであるが、王寿はそこから立ち返った。これが学ばないことを学ぶということである。だから「学ばないことを学び、衆人の誤るところから立ち返る」と言うのである。物には本来の姿があり、それに乗じて導いていく。物の姿に従うから、静かにしているときは徳に立ち、動くときは道に従う。宋の人で、主君のために象牙で楮(こうぞ)の葉を彫った者があり、三年かかって完成した。葉脈の太さ細さ、茎や枝、細かな産毛やつやまで、本物の楮の葉の中に混ぜると見分けがつかなかった。この人はその功で宋の国に禄を受けて仕えた。列子はこれを聞いて、「天地が三年かかって一枚の葉を作るのなら、葉をつける物はほとんどなくなってしまうだろう」と言った。だから、天地の力に乗らずに一人の身に背負わせ、道理の筋道に従わずに一人の知恵を学ぶのは、みなこの一枚の葉を彫るような行いである。
解説
関連する章句
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『淮南子』道應訓越王勾踐 呉と戰いて勝たず、國 破れ身 亡び、會稽に困しむ。忿心 膽を張り、氣は湧泉の如く、甲卒を選練し、火に赴くこと滅するが若し。然れども身は臣爲り、妻は妾爲らんことを請い、親ら戈を執りて、呉兵の爲に先馬して走る。果たして之を幹遂に禽にす。故に老子曰く、「柔の剛に勝つや、弱の強に勝つや、天下 知らざる莫くして、之を能く行う莫し」と。越王 之に親しむ、故に中國に霸たり。
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『韓非子』喻老第二十一今君、後るれば則ち臣に逮ばんと欲し、先んずれば則ち臣に逮ばるるを恐る。夫れ誘道して遠きを争ふは、先んずるに非ざれば則ち後るるなり。而して先後の心皆臣に在り、上何を以てか馬に調はん。此れ君の後るる所以なり」と。白公勝、乱を慮り、朝を罷め、杖を倒にして策の鋭、顊を貫き、血流れて地に至るも知らず。鄭人之を聞きて曰く、「顊をすら之れ忘る、将た何をか忘れざらんや」と。故に曰く、「其の出づること弥々遠ければ、其の知ること弥々少なし」と。此れ智、遠きに周ければ、則ち遺す所近きに在るを言ふなり。是を以て聖人は常行無きなり。能く智を並す、故に曰く、「行かずして知る」と。能く視を並す、故に曰く、「見ずして明らかなり」と。時に随ひて以て事を挙げ、資に因りて功を立て、万物の能を用ひて利を其の上に獲る、故に曰く、「為さずして成る」と。楚の荘王、政に莅むこと三年、令の発する無く、政の為す無きなり。
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『韓非子』喻老第二十一故に曰く、「将に之を翕めんと欲すれば、必ず固く之を張る。将に之を弱めんと欲すれば、必ず固く之を強くす」と。晋の献公、将に虞を襲はんと欲し、之に遺るに璧馬を以てす。知伯、将に仇由を襲はんとし、之に遺るに広車を以てす。故に曰く、「将に之を取らんと欲すれば、必ず固く之に与ふ」と。事を無形に起こして、大功を天下に要む、「是を微明と謂ふ」。小弱に処りて重く自ら卑損す、「弱は強に勝つ」と謂ふなり。
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『淮南子』繆稱訓義 宜に載る、之を君子と謂う。宜 義を遺る、之を小人と謂う。通智は得て勞せず、其の次は勞して病まず、其の下は病みて勞せず。古人は味わいて貪らず、今人は貪りて味わわず。歌の其の音を修むるは、音の其の美に足らざる者なり。金石絲竹、助けて之を奏するも、猶お未だ以て極に至るに足らざるなり。人 能く道を尊び義を行い、喜怒取予、草の風に從うが如くならんことを欲す。召公は桑蠶耕種の時、獄を馳せ拘を出だし、百姓をして皆な業に反り職を修むるを得しむ。文王は千里の地を辭して、炮烙の刑を去らんことを請う。故に聖人の事を舉ぐるや、進退 時を失わず。夏に絺綌に就き、車に上りて綏を授くるが若きの謂いなり。老子は商容に學び、舌を見て柔を守るを知れり。列子は壺子に學び、景柱を觀て後を持するを知れり。故に聖人は物に先んぜずして、常に之を制す。其の類 薪樵を積むが若く、後なる者 上に在り。
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『韓非子』喻老第二十一周に玉版有り、紂、膠鬲をして之を索めしむるも、文王予へず。費仲来り求むれば、因りて之を予ふ。是れ膠鬲は賢にして費仲は無道なればなり。周、賢者の志を得るを悪む、故に費仲に予ふ。文王の太公を渭浜に挙ぐるは、之を貴ぶなり。而して費仲に玉版を資するは、是れ之を愛するなり。故に曰く、「其の師を貴ばず、其の資を愛せずんば、知ると雖も大いに迷ふ、是を要妙と謂ふ」と。
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『韓非子』說林下二十三恵子曰く、「羿、決を執り扞を持し、弓を操り機を関けば、越人も争ひて為に的を持つ。弱子弓を扜けば、慈母も室に入りて戸を閉づ」と。故に曰く、「必とすべくんば、則ち越人も羿を疑はず。必とすべからずんば、則ち慈母も弱子を逃る」と。桓公、管仲に問ふ、「富に涯有るか」と。答へて曰く、「水の涯を以てするは、其の水無き者なり。富の涯を以てするは、其の富已に足る者なり。人自ら足るに止まること能はずして、其の富の涯を亡ふか」と。宋の富賈に監止子なる者有り、人と百金の璞玉を争ひ買ふ。因りて佯りて失ひて之を毀ち、其の百金を負ひて、其の毀瑕を理め、千溢を得たり。事には之を挙げて敗有るも、其の之を挙ぐること毋きに賢る者有り、之を負ふの時なり。御を以て荊王に見えんと欲する者有り、衆騶之を妬む。因りて曰く、「臣能く鹿を撽つ」と。王に見ゆ。王、御を為して鹿に及ばず、自ら御して之に及ぶ。王其の御を善しとし、乃ち衆騶の之を妬むを言ふ。荊、公子をして将として陳を伐たしむ。丈人之を送りて曰く、「晋は彊し、慎まざるべからざるなり」と。公子曰く、「丈人奚ぞ憂へん。吾丈人の為に晋を破らん」と。丈人曰く、「可なり。吾方に陳の南門の外に廬せん」と。公子曰く、「是れ何ぞや」と。曰く、「我は勾践を笑ふなり。人の為すこと是の如く其れ易きに、己独り何為れぞ密密として十年難めるや」と。堯、天下を以て許由に譲る。許由之を逃れ、家人に舎る。家人其の皮冠を蔵す。夫れ天下を棄つるに、家人其の皮冠を蔵するは、是れ許由を知らざる者なり。三虱相与に訟ふ。一虱之に過りて曰く、「訟ふる者奚をか説く」と。三虱曰く、「肥饒の地を争ふ」と。一虱曰く、「若も亦臘の至りて茅の燥くを患へざるのみ。若又奚ぞ是を患へん」と。乃ち相与に聚まりて其の母を嘬ひて之を食ふ。彘臞せて、人乃ち殺さず。虫に螝なる者有り、一身両口、食を争ひて相齕む。遂に相殺し、因りて自ら殺す。人臣の事を争ひて其の国を亡ぼす者は、皆螝の類なり。