韓非子 / 解老第二十
所謂廉者,必生死之命也,輕恬資財也。所謂直者,義必公正,公心不偏黨也。所謂光者,官爵尊貴,衣裘壯麗也。今有道之士,雖中外信順,不以誹謗窮墮;雖死節輕財,不以侮罷羞貪;雖義端不黨,不以去邪罪私;雖勢尊衣美,不以夸賤欺貧。其故何也?使失路者而肯聽習問知,即不成迷也。
新字:所謂廉者,必生死之命也,軽恬資財也。所謂直者,義必公正,公心不偏党也。所謂光者,官爵尊貴,衣裘壮麗也。今有道之士,雖中外信順,不以誹謗窮堕;雖死節軽財,不以侮罷羞貪;雖義端不党,不以去邪罪私;雖勢尊衣美,不以夸賤欺貧。其故何也?使失路者而肯聴習問知,即不成迷也。
書き下し
所謂廉とは、必ず生死の命ありて、資財に軽恬なるなり。所謂直とは、義必ず公正にして、公心偏党せざるなり。所謂光とは、官爵尊貴にして、衣裘壮麗なるなり。今有道の士は、中外信順なりと雖も、誹謗を以て窮堕せず。節に死し財を軽んずと雖も、以て罷を侮り貪を羞めず。義端にして党せずと雖も、以て邪を去り私を罪せず。勢尊く衣美なりと雖も、以て賤に夸り貧を欺かず。其の故何ぞや。失路の者をして肯へて聴習問知せしむれば、即ち迷を成さざるなり。
現代語訳
いわゆる「廉」とは、生死には天命があると心得て、財産に淡泊であることである。いわゆる「直」とは、義が必ず公正であり、公の心で偏らず徒党を組まないことである。いわゆる「光」とは、官爵が尊く、衣服が立派であることである。いま道を心得た士は、内も外も誠実で従順であっても、(そうでない者を)そしって追い詰めることはしない。節義のために死に財を軽んじても、それによって弱い者を侮り、貪る者を辱めることはしない。義が正しく徒党を組まなくても、それによって邪な者を退け私心ある者を罰することはしない。地位が尊く衣服が立派であっても、それによって賤しい者に誇り貧しい者を侮ることはしない。それはなぜか。道に迷った者に、進んで人の話を聞き、学び、問うて知るようにさせれば、迷うことはなくなるからである。
解説
関連する章句
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『韓非子』解老第二十衆人は多くして聖人は寡し。寡の衆に勝たざるは、数なり。今挙動して天下と之れ讎を為すは、全身長生の道に非ざるなり。是を以て軌節を行ひて之を挙ぐるなり。故に曰く、「方にして割かず、廉にして穢さず、直にして肆ならず、光りて耀かず」と。聡明睿智は、天なり。動静思慮は、人なり。人なる者は、天明に乗じて以て視、天聡に寄りて以て聴き、天智に託して以て思慮す。故に視ること強ければ、則ち目明らかならず。聴くこと甚だしければ、則ち耳聡からず。思慮度を過ぐれば、則ち智識乱る。目明らかならざれば、則ち黒白の分を決すること能はず。耳聡からざれば、則ち清濁の声を別つこと能はず。智識乱るれば、則ち得失の地を審らかにすること能はず。目黒白の色を決すること能はざる、則ち之を盲と謂ふ。耳清濁の声を別つこと能はざる、則ち之を聾と謂ふ。心得失の地を審らかにすること能はざる、則ち之を狂と謂ふ。盲なれば則ち昼日の険を避くること能はず。聾なれば則ち雷霆の害を知ること能はず。狂なれば則ち人間の法令の禍を免るること能はず。書の所謂「人を治む」とは、動静の節に適ひ、思慮の費を省くなり。所謂「天に事ふ」とは、聡明の力を極めず、智識の任を尽くさざるなり。苟も極め尽くせば、則ち神を費やすこと多し。神を費やすこと多ければ、則ち盲聾悖狂の禍至る。是を以て之を嗇しむ。之を嗇しむとは、其の精神を愛しみ、其の智識を嗇しむなり。故に曰く、「人を治め天に事ふるは嗇に如くは莫し」と。衆人の神を用ゐるや躁なり。躁なれば則ち費やすこと多し。費やすこと多き、之を侈と謂ふ。聖人の神を用ゐるや静なり。静なれば則ち費やすこと少なし。費やすこと少なき、之を嗇と謂ふ。嗇の謂ひは術なり、道理に生ず。夫れ能く嗇しむは、是れ道に従ひて理に服する者なり。衆人は患ひに離り、禍に陥りて、猶未だ退くことを知らずして、道理に服従せず。聖人は未だ禍患の形を見ずと雖も、虚無にして道理に服従す。以て蚤服と称す。故に曰く、「夫れ謂ふ嗇、是を以て蚤服す」と。
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『韓非子』解老第二十慈母の弱子に於けるや、務めて其の福を致す。務めて其の福を致せば、則ち事其の禍を除く。事其の禍を除けば、則ち思慮熟す。思慮熟すれば、則ち事理を得。事理を得れば、則ち必ず功を成す。必ず功を成せば、則ち其の之を行ふや疑はず。疑はざる、之を勇と謂ふ。聖人の万事に於けるや、尽く慈母の弱子の為に慮るが如し。故に必行の道を見る。必行の道を見れば則ち明らかなり。其の事に従ふも亦疑はず。疑はざる、之を勇と謂ふ。疑はざるは慈に生ず。故に曰く、「慈なり、故に能く勇なり」と。周公曰く、「冬日の閉凍や固からざれば、則ち春夏の草木を長ずるや茂らず」と。天地も常に侈り常に費やすこと能はず、而るを況んや人に於てをや。故に万物は必ず盛衰有り、万事は必ず弛張有り、国家は必ず文武有り、官治は必ず賞罰有り。是を以て智士は倹しく其の財を用ゐれば則ち家富み、聖人は愛しみて其の神を宝とすれば則ち精盛んなり、人君は重んじて其の卒を戦はしむれば則ち民衆し。民衆ければ則ち国広し。是を以て之を挙げて曰く、「倹なり、故に能く広し」と。凡そ物の形有る者は裁ち易く、割き易し。何を以て之を論ずる。形有れば則ち短長有り、短長有れば則ち小大有り、小大有れば則ち方円有り、方円有れば則ち堅脆有り、堅脆有れば則ち軽重有り、軽重有れば則ち白黒有り。短長・大小・方円・堅脆・軽重・白黒、之を理と謂ふ。理定まりて物割き易し。故に大庭に議して而る後に言へば則ち立つ。権議の士は之を知る。故に方円を成さんと欲して其の規矩に随へば、則ち万事の功形はる。而して万物は規矩有らざるは莫し。議言の士は、規矩を計会するなり。聖人は尽く万物の規矩に随ふ。故に曰く、「敢へて天下の先と為らず」と。敢へて天下の先と為らざれば、則ち事として事とせざる無く、功として功とせざる無くして、議必ず世を蓋ふ。大官に処ること無からんと欲するも、其れ得べけんや。
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『韓非子』解老第二十子に慈なる者は敢へて衣食を絶たず。身に慈なる者は敢へて法度を離れず。方円に慈なる者は敢へて規矩を舎てず。故に兵に臨みて士吏に慈なれば則ち戦ひて敵に勝ち、器械に慈なれば則ち城堅固なり。故に曰く、「慈なれば、戦ふに於ては則ち勝ち、以て守れば則ち固し」と。夫れ能く自ら全くして尽く万物の理に随ふ者は、必ず且に天生有らんとす。天生なる者は、生心なり。故に天下の道は尽く之れ生なり。若し慈を以て之を衛れば、事必ず万全にして、挙げて当たらざる無し、則ち之を宝と謂ふ。故に曰く、「吾に三宝有り、持して之を宝とす」と。書の所謂「大道」なる者は、端道なり。所謂貌「施」なる者は、邪道なり。所謂「径」大なる者は、佳麗なり。佳麗なる者は、邪道の分なり。「朝甚だ除す」とは、獄訟繁きなり。獄訟繁ければ則ち田荒る。田荒るれば則ち府倉虚し。府倉虚しければ則ち国貧し。国貧しくして民俗淫侈なり。民俗淫侈なれば則ち衣食の業絶ゆ。衣食の業絶ゆれば則ち民巧詐を飾ること無きを得ず。巧詐を飾れば則ち采文を知る。采文を知る、之を「文采を服す」と謂ふ。獄訟繁く、倉廩虚しくして、淫侈を以て俗と為す有れば、則ち国の傷つくや利剣を以て之を刺すが若し。故に曰く、「利剣を帯ぶ」と。諸夫の智故を飾りて以て国を傷つくるに至る者は、其の私家必ず富む。私家必ず富む、故に曰く、「資貨余り有り」と。国に是くの若き者有れば、則ち愚民術無くして之に效はざるを得ず。之に效へば則ち小盗生ず。
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『韓非子』解老第二十中心懐ひて諭らず、故に疾く趨り卑く拝して之を明らかにす。実心愛して知られず、故に言を好くし辞を繁くして以て之を信にす。礼は、外飾の以て内を諭す所以なり。故に曰く、礼は以て情を貌するなりと。凡そ人の外物の為に動くや、其の身の礼たることを知らざるなり。衆人の礼を為すや、以て他人を尊ぶ。故に時に勧み時に衰ふ。君子の礼を為すは、以て其の身の為にす。以て其の身の為にす、故に之を神にして上礼と為す。上礼は神にして衆人は弐なり、故に相応ずること能はず。相応ずること能はず、故に曰く、「上礼は之を為して之に応ずること莫し」と。衆人弐なりと雖も、聖人の恭敬を復し手足の礼を尽くすや衰へず。故に曰く、「臂を攘ひて之を仍く」と。道に積有りて積に功有り。徳は、道の功なり。功に実有りて実に光有り。仁は、徳の光なり。光に沢有りて沢に事有り。義は、仁の事なり。事に礼有りて礼に文有り。礼は、義の文なり。故に曰く、「道を失ひて後に徳を失ひ、徳を失ひて後に仁を失ひ、仁を失ひて後に義を失ひ、義を失ひて後に礼を失ふ」と。礼は情の貌為る者なり、文は質の飾為る者なり。夫れ君子は情を取りて貌を去り、質を好みて飾を悪む。夫れ貌を恃みて情を論ずる者は、其の情悪しきなり。飾を須ちて質を論ずる者は、其の質衰へたるなり。何を以て之を論ずる。和氏の璧は、飾るに五采を以てせず。隋侯の珠は、飾るに銀黄を以てせず。其の質至美にして、物以て之を飾るに足らず。夫れ物の飾を待ちて後に行はるる者は、其の質美ならざるなり。是を以て父子の間は、其の礼樸にして明らかならず。故に曰く、礼薄しと。凡そ物は並び盛んならず、陰陽是れなり。理は相奪予す、威徳是れなり。実厚き者は貌薄し、父子の礼是れなり。
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『韓非子』解老第二十徳は、内なり。得は、外なり。「上徳は徳とせず」とは、其の神の外に淫せざるを言ふなり。神外に淫せざれば則ち身全し。身全き、之を徳と謂ふ。徳は、身を得るなり。凡そ徳は、無為を以て集まり、無欲を以て成り、不思を以て安く、不用を以て固し。之を為し之を欲すれば、則ち徳舎無し。徳舎無ければ、則ち全からず。之を用ゐ之を思へば則ち固からず。固からざれば則ち功無し。功無ければ則ち徳を得んとするに生ず。徳とすれば則ち徳無く、得とせざれば則ち徳有り。故に曰く、「上徳は徳とせず、是を以て徳有り」と。無為無思を貴びて虚と為す所以の者は、其の意制せらるる所無きを謂ふなり。夫れ術無き者は、故らに無為無思を以て虚と為すなり。夫れ故らに無為無思を以て虚と為す者は、其の意常に虚を忘れず、是れ虚を為すに制せらるるなり。虚とは、其の意制せらるる所無きを謂ふなり。今虚を為すに制せらるるは、是れ虚ならざるなり。虚なる者の無為や、無為を以て常有りと為さず。無為を以て常有りと為さざれば則ち虚なり。虚なれば則ち徳盛んなり。徳盛んなる、之を上徳と謂ふ。故に曰く、「上徳は無為にして為さざる無きなり」と。仁は、其の中心欣然として人を愛するを謂ふなり。其の人の福有るを喜びて、人の禍有るを悪むなり。生心の已むこと能はざる所なり、其の報いを求むるに非ざるなり。故に曰く、「上仁は之を為して以て為すこと無きなり」と。義は、君臣上下の事、父子貴賤の差なり、知交朋友の接なり、親疎内外の分なり。臣の君に事ふること宜しく、下の上を懐ふこと宜しく、子の父に事ふること宜しく、賤の貴を敬ふこと宜しく、知交友朋の相助くること宜しく、親しき者は内にして疎き者は外なること宜し。義は、其の宜しきを謂ふなり。宜しくして之を為す。故に曰く、「上義は之を為して以て為すこと有り」と。礼は、情を貌する所以なり。群義の文章なり。君臣父子の交はりなり。貴賤賢不肖の別かるる所以なり。
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『韓非子』解老第二十直根は、書の所謂「柢」なり。柢なる者は、木の生を建つる所以なり。曼根なる者は、木の生を持する所以なり。徳なる者は、人の生を建つる所以なり。禄なる者は、人の生を持する所以なり。今理に建つ者は、其の禄を持すること久し。故に曰く、「其の根を深くす」と。其の道を体する者は、其の生日に長し。故に曰く、「其の柢を固くす」と。柢固ければ則ち生長く、根深ければ則ち視ること久し。故に曰く、「其の根を深くし、其の柢を固くするは、長生久視の道なり」と。