韓非子 / 解老第二十
所謂「去彼取此」者,去貌、徑絶而取緣理、好情實也。故曰:「去彼取此。」
新字:所謂「去彼取此」者,去貌、径絶而取縁理、好情実也。故曰:「去彼取此。」
書き下し
所謂「彼を去りて此れを取る」とは、貌・径絶を去りて縁理・好情実を取るなり。故に曰く、「彼を去りて此れを取る」と。
現代語訳
いわゆる「あれを捨ててこれを取る」とは、外見や筋の通らない近道を捨てて、道理に従うことと心情の実を好むことを取るという意味である。だから「あれを捨ててこれを取る」と言うのである。
解説
『老子』第三十八章の結び「彼を去りて此れを取る」を注釈した一節です。「彼」とは、礼の外見や、道理を踏まずに結果へ飛びつく近道のこと、「此れ」とは、道理に従うことと、飾らない心情の実のことだと韓非は説明します。前の一節で前識、つまり根拠のない推量を戒めたことを受けて、見かけや近道より、手順と実質を選べという結論になっています。法を重んじた韓非らしく、道家の言葉を「理に縁る」という手続きの重視へと読み替えている点が興味深いところです。仕事でも、体裁や裏技に頼るより、筋道と中身を大切にすることが結局は近道だという教えとして読めます。
関連する章句
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『韓非子』解老第二十其の厚きに處りて其の薄きに處らずとは、情實を行いて禮貌を去るなり。其の實に處りて其の華に處らずとは、必ず理に緣りて徑絶せざるなり。
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『韓非子』解老第二十所謂廉とは、必ず生死の命ありて、資財に軽恬なるなり。所謂直とは、義必ず公正にして、公心偏党せざるなり。所謂光とは、官爵尊貴にして、衣裘壮麗なるなり。今有道の士は、中外信順なりと雖も、誹謗を以て窮堕せず。節に死し財を軽んずと雖も、以て罷を侮り貪を羞めず。義端にして党せずと雖も、以て邪を去り私を罪せず。勢尊く衣美なりと雖も、以て賤に夸り貧を欺かず。其の故何ぞや。失路の者をして肯へて聴習問知せしむれば、即ち迷を成さざるなり。
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『韓非子』解老第二十中心懐ひて諭らず、故に疾く趨り卑く拝して之を明らかにす。実心愛して知られず、故に言を好くし辞を繁くして以て之を信にす。礼は、外飾の以て内を諭す所以なり。故に曰く、礼は以て情を貌するなりと。凡そ人の外物の為に動くや、其の身の礼たることを知らざるなり。衆人の礼を為すや、以て他人を尊ぶ。故に時に勧み時に衰ふ。君子の礼を為すは、以て其の身の為にす。以て其の身の為にす、故に之を神にして上礼と為す。上礼は神にして衆人は弐なり、故に相応ずること能はず。相応ずること能はず、故に曰く、「上礼は之を為して之に応ずること莫し」と。衆人弐なりと雖も、聖人の恭敬を復し手足の礼を尽くすや衰へず。故に曰く、「臂を攘ひて之を仍く」と。道に積有りて積に功有り。徳は、道の功なり。功に実有りて実に光有り。仁は、徳の光なり。光に沢有りて沢に事有り。義は、仁の事なり。事に礼有りて礼に文有り。礼は、義の文なり。故に曰く、「道を失ひて後に徳を失ひ、徳を失ひて後に仁を失ひ、仁を失ひて後に義を失ひ、義を失ひて後に礼を失ふ」と。礼は情の貌為る者なり、文は質の飾為る者なり。夫れ君子は情を取りて貌を去り、質を好みて飾を悪む。夫れ貌を恃みて情を論ずる者は、其の情悪しきなり。飾を須ちて質を論ずる者は、其の質衰へたるなり。何を以て之を論ずる。和氏の璧は、飾るに五采を以てせず。隋侯の珠は、飾るに銀黄を以てせず。其の質至美にして、物以て之を飾るに足らず。夫れ物の飾を待ちて後に行はるる者は、其の質美ならざるなり。是を以て父子の間は、其の礼樸にして明らかならず。故に曰く、礼薄しと。凡そ物は並び盛んならず、陰陽是れなり。理は相奪予す、威徳是れなり。実厚き者は貌薄し、父子の礼是れなり。
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老子 第19章聖を絶ち智を棄つれば、民の利は百倍す。仁を絶ち義を棄つれば、民は孝慈に復す。巧を絶ち利を棄つれば、盗賊有る無し。此の三者は以て文と為すに足らず、故に属する所有らしむ。素を見わし樸を抱き、私を少なくし欲を寡なくす。
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『韓非子』解老第二十徳は、内なり。得は、外なり。「上徳は徳とせず」とは、其の神の外に淫せざるを言ふなり。神外に淫せざれば則ち身全し。身全き、之を徳と謂ふ。徳は、身を得るなり。凡そ徳は、無為を以て集まり、無欲を以て成り、不思を以て安く、不用を以て固し。之を為し之を欲すれば、則ち徳舎無し。徳舎無ければ、則ち全からず。之を用ゐ之を思へば則ち固からず。固からざれば則ち功無し。功無ければ則ち徳を得んとするに生ず。徳とすれば則ち徳無く、得とせざれば則ち徳有り。故に曰く、「上徳は徳とせず、是を以て徳有り」と。無為無思を貴びて虚と為す所以の者は、其の意制せらるる所無きを謂ふなり。夫れ術無き者は、故らに無為無思を以て虚と為すなり。夫れ故らに無為無思を以て虚と為す者は、其の意常に虚を忘れず、是れ虚を為すに制せらるるなり。虚とは、其の意制せらるる所無きを謂ふなり。今虚を為すに制せらるるは、是れ虚ならざるなり。虚なる者の無為や、無為を以て常有りと為さず。無為を以て常有りと為さざれば則ち虚なり。虚なれば則ち徳盛んなり。徳盛んなる、之を上徳と謂ふ。故に曰く、「上徳は無為にして為さざる無きなり」と。仁は、其の中心欣然として人を愛するを謂ふなり。其の人の福有るを喜びて、人の禍有るを悪むなり。生心の已むこと能はざる所なり、其の報いを求むるに非ざるなり。故に曰く、「上仁は之を為して以て為すこと無きなり」と。義は、君臣上下の事、父子貴賤の差なり、知交朋友の接なり、親疎内外の分なり。臣の君に事ふること宜しく、下の上を懐ふこと宜しく、子の父に事ふること宜しく、賤の貴を敬ふこと宜しく、知交友朋の相助くること宜しく、親しき者は内にして疎き者は外なること宜し。義は、其の宜しきを謂ふなり。宜しくして之を為す。故に曰く、「上義は之を為して以て為すこと有り」と。礼は、情を貌する所以なり。群義の文章なり。君臣父子の交はりなり。貴賤賢不肖の別かるる所以なり。
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『韓非子』解老第二十物に先んじて行ひ理に先んじて動く、之を前識と謂ふ。前識は、縁無くして妄りに意度するなり。何を以て之を論ずる。詹何坐し、弟子侍す。牛門外に鳴く。弟子曰く、「是れ黒牛なり、而して白題なり」と。詹何曰く、「然り、是れ黒牛なり、而して白は其の角に在り」と。人をして之を視しむれば、果たして黒牛にして布を以て其の角を裹む。詹子の術を以て、衆人の心を嬰すれば、華にして殆し。故に曰く、「道の華なり」と。嘗試みに詹子の察を釈てて、五尺の愚童子をして之を視しむれば、亦其の黒牛にして布を以て其の角を裹むを知るなり。故に詹子の察を以て、心を苦しめ神を傷りて、而る後に五尺の愚童子と功を同じくす。是を以て曰く、「愚の首なり」と。故に曰く、「前識は、道の華にして、愚の首なり」と。