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韓非子 / 姦劫弒臣第十四

吾所少而去也,而世主之所多而求也。諺曰:「厲憐王。」此不恭之言也。雖然,古無虚諺,不可不察也。此謂劫殺死亡之主言也。人主無法術以御其臣,雖長年而美材,大臣猶將得勢擅事主断,而各爲其私急。而恐父兄豪傑之士,借人主之力,以禁誅於己也,故弑賢長而立幼弱,廢正的而立不義。故《春秋》記之曰:「楚王子圍將聘於鄭,未出境,聞王病而反。因入問病,以其冠纓絞王而殺之,遂自立也。齊崔杼其妻美,而莊公通之,數如崔氏之室。及公往,崔子之徒賈舉率崔子之徒而攻公,公入室,請與之分國,崔子不許;公請自刃於廟,崔子又不聽;公乃走,踰於北墻。賈舉射公,中其股,公墜,崔子之徒以戈斫公而死之,而立其弟景公。」近之所見:李兌之用趙也,餓主父百日而死;卓齒之用齊也,擢湣王之筋,懸之廟梁,宿昔而死。故厲雖癕腫疕瘍,上比於《春秋》,未至於絞頸射股也;下比於近世,未至饑死擢筋也。故劫殺死亡之君,此其心之憂懼,形之苦痛也,必甚於厲矣。由此觀之,雖「厲憐王」可也。

新字:吾所少而去也,而世主之所多而求也。諺曰:「厲憐王。」此不恭之言也。雖然,古無虚諺,不可不察也。此謂劫殺死亡之主言也。人主無法術以御其臣,雖長年而美材,大臣猶将得勢擅事主断,而各為其私急。而恐父兄豪傑之士,借人主之力,以禁誅於己也,故弑賢長而立幼弱,廃正的而立不義。故《春秋》記之曰:「楚王子囲将聘於鄭,未出境,聞王病而反。因入問病,以其冠纓絞王而殺之,遂自立也。斉崔杼其妻美,而荘公通之,数如崔氏之室。及公往,崔子之徒賈舉率崔子之徒而攻公,公入室,請与之分国,崔子不許;公請自刃於廟,崔子又不聴;公乃走,踰於北墻。賈舉射公,中其股,公墜,崔子之徒以戈斫公而死之,而立其弟景公。」近之所見:李兌之用趙也,餓主父百日而死;卓歯之用斉也,擢湣王之筋,懸之廟梁,宿昔而死。故厲雖癕腫疕瘍,上比於《春秋》,未至於絞頸射股也;下比於近世,未至饑死擢筋也。故劫殺死亡之君,此其心之憂懼,形之苦痛也,必甚於厲矣。由此観之,雖「厲憐王」可也。

書き下し

吾の少なしとして去る所なり。而して世主の多しとして求むる所なり。諺に曰く、「厲も王を憐れむ」と。此れ不恭の言なり。然りと雖も、古に虚諺無し、察せざるべからざるなり。此れ劫殺死亡の主を謂ひて言ふなり。人主法術以て其の臣を御すること無ければ、長年にして美材なりと雖も、大臣猶将に勢を得て事を擅にし主断して、各々其の私急を為さんとす。而して父兄豪傑の士の、人主の力を借りて、以て己を禁誅せんことを恐る。故に賢長を弑して幼弱を立て、正的を廃して不義を立つ。故に春秋に之を記して曰く、「楚の王子囲、将に鄭に聘せんとし、未だ境を出でずして、王の病を聞きて反る。因りて入りて病を問ひ、其の冠纓を以て王を絞めて之を殺し、遂に自立するなり。斉の崔杼、其の妻美にして、荘公之に通じ、数々崔氏の室に如く。公の往くに及び、崔子の徒賈挙、崔子の徒を率ゐて公を攻む。公室に入り、之と国を分かたんことを請ふ。崔子許さず。公廟に自刃せんことを請ふ。崔子又聴かず。公乃ち走りて、北墻を踰ゆ。賈挙公を射て、其の股に中つ。公墜つ。崔子の徒、戈を以て公を斫りて之を死せしめ、而して其の弟景公を立つ」と。近ごろの見る所、李兌の趙に用ゐらるるや、主父を餓ゑしむること百日にして死す。卓歯の斉に用ゐらるるや、湣王の筋を擢き、之を廟の梁に懸け、宿昔にして死す。故に厲は癕腫疕瘍なりと雖も、上は春秋に比するに、未だ頸を絞め股を射るに至らざるなり。下は近世に比するに、未だ餓死し筋を擢くに至らざるなり。故に劫殺死亡の君、此れ其の心の憂懼、形の苦痛や、必ず厲よりも甚だし。此れに由りて之を観れば、「厲も王を憐れむ」と雖も可なり。

現代語訳

(豫譲のような者は)私が軽んじて退けるものであるのに、世の君主が重んじて求めるものである。ことわざに「癩(らい)病みでさえ王を哀れむ」とある。これは不遜な言葉である。しかし、昔から根拠のないことわざはないので、よく考えなければならない。これは脅かされ殺されて滅んだ君主について言っているのである。君主が法術によって臣下を制御しなければ、年長で優れた資質があっても、大臣はやはり勢いを得て政務を独占し、君主に代わって決裁し、それぞれ自分の私的な急務を果たそうとする。そして、君主の父兄や豪傑の士が君主の力を借りて自分を罰しようとするのを恐れる。だから賢い年長の君主を殺して幼く弱い者を立て、正統な跡継ぎを廃して道にそむく者を立てる。だから『春秋』はこれを記して言う。「楚の王子囲は、鄭へ使者として行こうとして、まだ国境を出ないうちに王の病気を聞いて引き返した。そこで宮中に入って見舞い、冠のひもで王の首を絞めて殺し、そのまま自ら王位についた。斉の崔杼は、妻が美しく、荘公がこれと密通して、しばしば崔氏の屋敷に出かけた。荘公が出かけたとき、崔杼の家来の賈挙が崔杼の家来たちを率いて荘公を攻めた。荘公は部屋に逃げ込み、国を分けようと申し出たが、崔杼は許さなかった。荘公は宗廟で自害させてほしいと願ったが、崔杼はまた聞き入れなかった。荘公は走って北の塀を越えようとした。賈挙が荘公を射て股に命中させ、荘公は落ちた。崔杼の家来たちは戈で荘公を切りつけて殺し、その弟の景公を立てた」。近ごろ見たところでは、李兌が趙で用いられると、主父(武霊王)を百日も飢えさせて死なせた。卓歯(淖歯)が斉で用いられると、湣王の筋を抜き取り、宗廟の梁につり下げて、一晩で死なせた。だから癩病みは、腫れものやただれに苦しんでいても、上は『春秋』の例と比べれば、まだ首を絞められたり股を射られたりするほどではない。下は近ごろの例と比べれば、まだ飢え死にさせられたり筋を抜かれたりするほどではない。だから脅かされ殺されて滅んだ君主の、心の憂いと恐れ、体の苦痛は、きっと癩病みよりもひどい。このことから見れば、「癩病みでさえ王を哀れむ」と言うのももっともである。

解説

「姦劫弑臣」の結びで、法術を持たない君主の悲惨な末路を並べた一節です。「厲も王を憐れむ」ということわざは、重い皮膚病に苦しむ人でさえ王を哀れむという意味で、不遜に聞こえるが真実を含むと韓非は言います。楚の王子囲による王の絞殺、斉の崔杼による荘公殺害、趙の主父の餓死、斉の湣王の惨殺と、いずれも大臣に実権を奪われた君主の最期です。どれほど年長で才能があっても、法と術で臣下を制御できなければ、地位は身を守ってくれません。トップの地位にあることと、実権を握っていることは別物だという、厳しい現実を突きつける一節です。

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