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韓非子 / 初見秦第一

天下又比周而軍華下,大王以詔破之,兵至梁郭下。圍梁數旬,則梁可拔;拔梁,則魏可舉;舉魏,則荆、趙之意絶;荆、趙之意絶,則趙危;趙危而荆狐疑;東以弱齊、燕,中以凌三晉。然則是一舉而霸王之名可成也,四鄰諸侯可朝也,而謀臣不爲,引軍而退,復與魏氏爲和,令魏氏反收亡國,聚散民,立社稷主,置宗廟,令率天下西面以與秦爲難。此固以失霸王之道二矣。前者穰侯之治秦也,用一國之兵而欲以成两國之功,是故兵終身暴露於外,士民疲病於内,霸王之名不成。此固以失霸王之道三矣。趙氏,中央之國也,雜民所居也,其民輕而難用也。號令不治,賞罰不信,地形不便,下不能盡其民力。彼固亡國之形也,而不憂民萌,悉其士民軍於長平之下,以爭韓上黨,大王以詔破之,拔武安。當是時也,趙氏上下不相親也,貴賤不相信也。然則邯鄲不守。拔邯鄲,筦山東河間,引軍而去,西攻脩武,踰羊腸,降代、上黨。代三十六縣,上黨十七縣,不用一領甲,不苦一士民,此皆秦有也。代、上黨不戰而畢爲秦矣,東陽、河外不戰而畢反爲斉矣,中山、呼沲以北不戰而畢爲燕矣。

新字:天下又比周而軍華下,大王以詔破之,兵至梁郭下。囲梁数旬,則梁可抜;抜梁,則魏可舉;舉魏,則荆、趙之意絶;荆、趙之意絶,則趙危;趙危而荆狐疑;東以弱斉、燕,中以凌三晋。然則是一舉而覇王之名可成也,四鄰諸侯可朝也,而謀臣不為,引軍而退,復与魏氏為和,令魏氏反収亡国,聚散民,立社稷主,置宗廟,令率天下西面以与秦為難。此固以失覇王之道二矣。前者穰侯之治秦也,用一国之兵而欲以成两国之功,是故兵終身暴露於外,士民疲病於内,覇王之名不成。此固以失覇王之道三矣。趙氏,中央之国也,雑民所居也,其民軽而難用也。号令不治,賞罰不信,地形不便,下不能尽其民力。彼固亡国之形也,而不憂民萌,悉其士民軍於長平之下,以争韓上党,大王以詔破之,抜武安。当是時也,趙氏上下不相親也,貴賤不相信也。然則邯鄲不守。抜邯鄲,筦山東河間,引軍而去,西攻脩武,踰羊腸,降代、上党。代三十六県,上党十七県,不用一領甲,不苦一士民,此皆秦有也。代、上党不戦而畢為秦矣,東陽、河外不戦而畢反為斉矣,中山、呼沲以北不戦而畢為燕矣。

書き下し

天下又比周して華下に軍す。大王詔を以て之を破り、兵梁の郭下に至る。梁を囲むこと数旬なれば、則ち梁抜くべし。梁を抜けば、則ち魏挙ぐべし。魏を挙ぐれば、則ち荊・趙の意絶ゆ。荊・趙の意絶ゆれば、則ち趙危ふし。趙危ふくして荊狐疑す。東は以て斉・燕を弱め、中は以て三晋を凌ぐ。然らば則ち是れ一挙にして覇王の名成すべく、四隣の諸侯朝せしむべきなり。而るに謀臣為さず、軍を引きて退き、復た魏氏と和を為し、魏氏をして反りて亡国を収め、散民を聚め、社稷の主を立て、宗廟を置かしめ、天下を率ゐて西面して以て秦と難を為さしむ。此れ固より以て覇王の道を失ふこと二なり。前者穰侯の秦を治むるや、一国の兵を用ゐて両国の功を成さんと欲す。是の故に兵終身外に暴露し、士民内に疲病し、覇王の名成らず。此れ固より以て覇王の道を失ふこと三なり。趙氏は中央の国なり、雑民の居る所なり、其の民軽くして用ゐ難し。号令治まらず、賞罰信ならず、地形便ならず、下其の民力を尽くすこと能はず。彼は固より亡国の形なり、而るに民萌を憂へず、其の士民を悉くして長平の下に軍し、以て韓の上党を争ふ。大王詔を以て之を破り、武安を抜く。是の時に当たりてや、趙氏上下相親しまず、貴賤相信ぜず。然らば則ち邯鄲守らず。邯鄲を抜き、山東河間を筦め、軍を引きて去り、西のかた脩武を攻め、羊腸を踰え、代・上党を降す。代は三十六県、上党は十七県、一領の甲を用ゐず、一士民を苦しめずして、此れ皆秦の有なり。代・上党は戦はずして畢く秦と為り、東陽・河外は戦はずして畢く反りて斉と為り、中山・呼沲以北は戦はずして畢く燕と為る。

現代語訳

天下の諸侯はまた徒党を組んで華陽のふもとに軍を集めた。大王は詔を下してこれを破り、兵は魏の都大梁の外城の下にまで迫った。大梁を数十日包囲すれば落とせたし、大梁を落とせば魏を取ることができた。魏を取れば楚と趙の連携の意図は断たれ、それが断たれれば趙は危うくなり、趙が危うくなれば楚は迷って動けなくなる。東では斉と燕を弱め、中原では三晋をしのぐことができた。そうなれば一挙に覇王の名を成し、四方の諸侯を朝貢させることができたのである。ところが謀臣はそうせず、軍を引き揚げて再び魏と和睦し、魏に滅びかけた国を立て直させ、散った民を集めさせ、社稷の主を立て宗廟を置かせ、天下を率いて西に向かい秦に敵対させてしまった。これが覇王の道を失った二つ目である。以前、穰侯(魏冄)が秦の政治を執ったときには、一国の兵で二国分の功を成そうとした。そのため兵は生涯国外で野ざらしになり、士民は国内で疲れ病み、覇王の名は成らなかった。これが覇王の道を失った三つ目である。趙は中央に位置する国で、さまざまな民が雑居し、民は軽はずみで使いにくい。号令は行き届かず、賞罰に信がなく、地形も不便で、上は民の力を出し切らせることができない。もともと亡国の姿であるのに、民を顧みず、士民を総動員して長平に陣を張り、韓の上党を争った。大王は詔を下してこれを破り、武安を攻め落とした。このとき趙は上下が親しまず、貴賤が互いに信じ合っていなかった。そうであれば都の邯鄲は守り切れなかったはずである。邯鄲を落とし、山東と河間を押さえてから軍を引き、西に脩武を攻め、羊腸の険を越えて代と上党を降すことができた。代は三十六県、上党は十七県あり、鎧一領も使わず、士民一人も苦しめずに、これらはみな秦のものになるはずだった。代と上党は戦わずしてすべて秦のものとなり、東陽と河外は戦わずしてすべて斉に戻り、中山と呼沲河以北は戦わずしてすべて燕のものとなるはずだったのである。

解説

秦が覇業を逃した失策を、二つ目、三つ目と数え上げる長い一節です。魏の大梁を包囲しながら和睦して魏を立ち直らせたこと、穰侯魏冄が一国の兵で二国分の功を狙って兵と民を疲弊させたことが挙げられます。さらに長平の戦いで趙を破った後、邯鄲を落とせる好機があったと論じます。長平の戦いは紀元前260年の史実で、趙の敗因として号令や賞罰の乱れを挙げるのは韓非らしい見方です。勝ち筋が見えているのに内部の判断で手を止め、相手に立て直す時間を与える失敗は、今の競争でも繰り返されます。誰の判断で好機を逃したのかを振り返ることが大切です。

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