回天詩史 / 水戸の家風と文政・哀公の治世と烈公の登場
(中山氏以幕府名卿爲元老。然專聽事關幕府及他邦者。若士大夫轉除注擬。唯知所謂物頭以上與田祿之與奪。至於財用伸縮損益及小吏進退。俸米多寡之類。不與聞。以爲恒例。及備前守信敬以哀公庶子出嗣中山氏。政府之謀議。事無大小。必咨決於信敬。不能無強僭之患。公襲封之明年。命信敬。其聽政條件。悉復舊例。自是其權稍衰矣)俗吏破膽。而任事之臣不能推廣盛意。峭直刻深。頗來物議。於是公韜光。持重。蓋有待於他日。而天不假年。(公年三十三襲封。四十四而薨。在位者十二年)遺憾曷已。哀公夙以高明之姿。負文雅之才。其襲封也。慈惠愛物。衆庶歸心。(故事國君卽世。則其左右近臣一時皆罷。悉以其事世子者代焉。武公之薨。有司以例以聞。哀公不忍廢先公左右。乃亦命爲公之近臣。以爲恒例云)嘗與幕府執政水野羽州(見於上)談於營中。一見察其姦。又憤元老或張私門。欲明舊典以總大綱。(共存於所賜先臣一正之親書)公嘗迎峰壽院夫人(稱峰姬君。文恭公之女)於幕府。後宮閨門之間。勢不得甚儉。而帑藏素乏之財用。蓋公稟性虛弱。不能宵旰黽勉。以爲本藩地狹民少。右之左之。於國事不有大損益。不如委之有司。自是漠然不復可否事也。耽風流樂文墨。以終其世。文政之政。是以委靡衰頹。殆與寶永同軌。可勝痛哉。今納言公。以哀公介弟。潛於藩邸。(當時稱其所居曰龜之間)竊憤天下之勢日赴衰弱。而邦家之事亦就陵遲。
新字:(中山氏以幕府名卿為元老。然専聴事関幕府及他邦者。若士大夫転除注擬。唯知所謂物頭以上与田禄之与奪。至於財用伸縮損益及小吏進退。俸米多寡之類。不与聞。以為恒例。及備前守信敬以哀公庶子出嗣中山氏。政府之謀議。事無大小。必咨決於信敬。不能無強僭之患。公襲封之明年。命信敬。其聴政条件。悉復旧例。自是其権稍衰矣)俗吏破胆。而任事之臣不能推広盛意。峭直刻深。頗来物議。於是公韜光。持重。蓋有待於他日。而天不仮年。(公年三十三襲封。四十四而薨。在位者十二年)遺憾曷已。哀公夙以高明之姿。負文雅之才。其襲封也。慈恵愛物。衆庶帰心。(故事国君即世。則其左右近臣一時皆罷。悉以其事世子者代焉。武公之薨。有司以例以聞。哀公不忍廃先公左右。乃亦命為公之近臣。以為恒例云)嘗与幕府執政水野羽州(見於上)談於営中。一見察其姦。又憤元老或張私門。欲明旧典以総大綱。(共存於所賜先臣一正之親書)公嘗迎峰寿院夫人(称峰姫君。文恭公之女)於幕府。後宮閨門之間。勢不得甚倹。而帑蔵素乏之財用。蓋公稟性虚弱。不能宵旰黽勉。以為本藩地狭民少。右之左之。於国事不有大損益。不如委之有司。自是漠然不復可否事也。耽風流楽文墨。以終其世。文政之政。是以委靡衰頽。殆与宝永同軌。可勝痛哉。今納言公。以哀公介弟。潜於藩邸。(当時称其所居曰亀之間)窃憤天下之勢日赴衰弱。而邦家之事亦就陵遅。
書き下し
(中山氏は幕府の名卿を以て元老と為す。然れども専ら事の幕府及び他邦に関はる者を聴くのみ。士大夫の転除注擬の若きは、唯だ所謂物頭以上と田禄の与奪とを知るのみ。財用の伸縮損益及び小吏の進退、俸米の多寡の類に至りては、与り聞かず。以て恒例と為す。備前守信敬の、哀公の庶子を以て中山氏に出嗣するに及び、政府の謀議、事の大小と無く、必ず信敬に咨決す。強僭の患無き能はず。公、封を襲ぐの明年、信敬に命じ、其の政を聴く条件を悉く旧例に復せしむ。是より其の権稍々衰ふ)俗吏は胆を破る。而して事に任ずるの臣は、盛意を推し広むる能はず、峭直刻深にして、頗る物議を来す。是に於いて公は光を韜(つつ)み、持重す。蓋し他日を待つこと有るなり。而るに天は年を仮さず。(公は年三十三にして封を襲ぎ、四十四にして薨ず。位に在ること十二年)遺憾、曷(なん)ぞ已まんや。哀公は夙に高明の姿を以て、文雅の才を負ふ。其の封を襲ぐや、慈恵もて物を愛し、衆庶心を帰す。(故事、国君即世すれば、則ち其の左右の近臣は一時に皆罷め、悉く世子に事(つか)へし者を以て之に代ふ。武公の薨ずるに、有司は例を以て聞す。哀公は先公の左右を廃するに忍びず、乃ち亦た命じて公の近臣と為し、以て恒例と為すと云ふ)嘗て幕府の執政水野羽州(上に見ゆ)と営中に談ず。一たび見て其の奸を察す。又元老の或いは私門を張るを憤り、旧典を明らかにして以て大綱を総べんと欲す。(共に賜ふ所の先臣一正の親書に存す)公は嘗て峰寿院夫人(峰姫君と称す。文恭公の女)を幕府より迎ふ。後宮閨門の間、勢ひ甚だ倹なるを得ず。而して帑蔵は素より乏しきの財用なり。蓋し公は稟性虚弱にして、宵旰黽勉する能はず。以為らく、本藩は地狭く民少なし、之を右にし之を左にするも、国事に大損益有らず、之を有司に委ぬるに如かずと。是より漠然として復た事を可否せず。風流に耽り文墨を楽しみ、以て其の世を終ふ。文政の政、是を以て委靡衰頽し、殆ど宝永と軌を同じくす。痛むに勝ふべけんや。今の納言公は、哀公の介弟を以て、藩邸に潜む。(当時其の居る所を称して亀の間と曰ふ)竊かに天下の勢ひの日に衰弱に赴き、邦家の事も亦た陵遅に就くを憤る。
現代語訳
(中山氏(水戸藩の家老格)は、幕府の名のある大名を元老としていました。しかし、もっぱら幕府や他国に関わる事だけを聴き、士大夫の人事異動については、ただいわゆる物頭以上と、知行の与奪だけを知っていました。財政の伸び縮みや損益、小役人の進退、俸米の多寡のようなことには関与せず、これを恒例としていました。備前守信敬が哀公の庶子として中山氏を継ぐに及び、政府の議論は、大小を問わず必ず信敬に諮って決めるようになり、分を越える害が出ないわけにはいきませんでした。公は封を継いだ翌年、信敬に命じ、政治に関わる条件をすべて旧例に戻させました。これからその権力は少し衰えました)俗吏は肝をつぶしました。けれども、事に当たった臣下は公の盛んな意図を広めることができず、きびしく刻薄で、かなりの非難を招きました。そこで公は光を包んで隠し、慎重に構えました。おそらく後日を待つ考えがあったのでしょう。ところが天は寿命を貸さず、(公は33歳で封を継ぎ、44歳で亡くなりました。在位12年)その遺憾はいつまでも尽きません。哀公は早くから高明な資質で、文雅の才を備えていました。封を継ぐと、慈しみ深く万物を愛し、人々は心を寄せました。(古くからの慣例として、藩主が亡くなれば、その左右の近臣は一斉に退職し、すべて世子に仕えた者と入れ替わります。武公が亡くなったとき、役人は慣例を理由に上申しました。哀公は先の公の側近を退けるのに忍びず、そのまま公の近臣に任じ、これを恒例としたということです)かつて幕府の執政水野羽州(上に見える)と営中で話し、一度会ってその奸(わるがしこさ)を見抜きました。また、元老が私の家を張ろうとするのを憤り、旧典を明らかにして大綱をまとめようとしました。(二つとも、賜った先臣一正の直筆の書に残っています)公はかつて峰寿院夫人(峰姫君と呼ばれた。文恭公の娘)を幕府から迎えました。奥向きでは、勢いとして質素にはできませんでした。そのうえ藩の金蔵は、もともと乏しい財政でした。公は生まれつき体が虚弱で、夜遅くまで政務に励むことができませんでした。考えるに、わが藩は土地が狭く民が少ない、あちらを良しとしてもこちらを良しとしても、国事に大きな損得はない、役人に任せるのがよい、と。これ以後、漠然として物事の可否を決めなくなりました。風流に耽り、文筆を楽しんで、生涯を終えました。文政の政治は、このために萎えて衰え、宝永の時とほとんど同じ道をたどりました。痛ましくてたまりません。今の納言公(斉昭)は、哀公の弟として、藩邸にひっそりと身を置いていました。(当時、その居所を亀の間と呼びました)ひそかに、天下の形勢が日々衰弱に向かい、国家の事もまた衰えていくのを憤っていました。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『韓非子』外儲説右下第三十五一。賞罰共にすれば則ち禁令行はれず。何を以て之を明らかにする。之を明らかにするに造父・於期を以てす。
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『晏子春秋』諫上・景公從畋十八日不返國晏子諫景公、署梁に畋し、十有八日にして返らず。晏子、国より往きて公に見ゆ。至るに比び、衣冠正しからず。衣冠を革めず、遊を望みて馳す。公、晏子を望み見、車を下りて逆え労いて曰く、「夫子、何ぞ遽かなる。国家に故有ること無きか」と。晏子対えて曰く、「亦急ならずや。然りと雖も、嬰、復すること有らんことを願う。国人皆君を以て野に安んじて国に安んぜず、獣を好みて民を悪むと為す。乃ち不可ならざらんや」と。公曰く、「何ぞや。吾、夫婦の獄訟の正しからざるが為ならば、則ち泰士子牛存せり。社稷宗廟の享けざるが為ならば、則ち泰祝子遊存せり。諸侯賓客の之に応ずる莫きが為ならば、則ち行人子羽存せり。田野の辟かれず、倉庫の実たざるが為ならば、則ち申田存せり。国家の余り有り不足あるを聘うが為ならば、則ち吾が子存せり。寡人の五子有るは、猶お心の四支有るがごとし。心に四支有り、故に心は佚を得たり。今、寡人に五子有り、故に寡人は佚を得たり。豈に不可ならんや」と。晏子対えて曰く、「嬰之を聞く、君の言とは異なり。若し乃ち心に四支有りて、心は佚を得ば、則ち可なり。四支をして心無からしめて、十有八日、亦久しからずや」と。公、是に於いて畋を罷めて帰る。
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『韓非子』難二第三十七桓公曰く、「吾聞く、人に君たる者は人を索むるに労し、人を使うに佚すと。吾仲父を得ること已に難し。仲父を得るの後、何為れぞ易からざらんや。」
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『春秋左氏伝』桓公十七年 高渠弥、昭公を弑す十七年春、黃に盟ふ。齊・紀を平らげ、且つ衛の故を謀るなり。邾の儀父と趡に盟ふ。蔑の盟を尋むるなり。夏、齊の師と奚に戰ふ。疆の事なり。是に於て齊人魯の疆を侵す。疆吏來り告ぐ。公曰く、「疆埸の事は、慎みて其の一を守りて、其の虞らざるに備ふ。姑く備ふる所を盡くせ。事至らば戰はん。又何ぞ謁げん」と。蔡の桓侯卒す。蔡人蔡季を陳より召す。秋、蔡季陳より蔡に歸る。蔡人之を嘉すればなり。邾を伐つは、宋の志なり。冬十月朔、日之を食する有り。日を書せざるは、官之を失へばなり。天子に日官有り、諸侯に日禦有り。日官は卿に居りて以て日を底(さだ)む、禮なり。日禦は日を失はず、以て百官に朝に授く。初め、鄭伯將に高渠彌を以て卿と為さんとす。昭公之を惡み、固く諫む。聽かず。昭公立つ。其の己を殺さんことを懼る。辛卯、昭公を弑して、公子亹を立つ。君子昭公を惡む所を知ると謂ふ。公子達曰く、「高伯其れ戮せられんか。惡を複すること已甚し」と。
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老子・第29章将に天下を取りて之を為さんと欲するも、吾れ其の已むを得ざるを見る。天下は神器なり、為すべからざるなり、執るべからざるなり。為す者は之を敗り、執る者は之を失う。故に物は或いは行き或いは随い、或いは歔き或いは吹き、或いは強く或いは羸く、或いは挫け或いは隳る。是を以て聖人は甚を去り、奢を去り、泰を去る。
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史記 張釈之馮唐列伝吾独り廉頗・李牧を得て時に吾が将と為さざるか。吾豈に匈奴を憂へんや」と。唐曰く、「主臣。陛下廉頗・李牧を得と雖も、用ふること能はざるなり」と。上怒り、起ちて禁中に入る。良久しくして、唐を召して譲(せ)めて曰く、「公柰何ぞ衆にて我を辱むる。独り間処無からんや」と。唐謝して曰く、「鄙人忌諱を知らず」と。是の時に当たり、匈奴新たに大いに朝那に入り、北地の都尉卬を殺す。上胡寇を以て意と為し、乃ち卒に復た唐に問ひて曰く、「公何を以て吾が廉頗・李牧を用ふること能はざるを知るや」と。唐対へて曰く、「臣聞く、上古の王者の将を遣はすや、跪きて轂を推し、曰く閫(こん)以内は寡人之を制し、閫以外は将軍之を制すと。軍功爵賞は皆外に決し、帰りて之を奏す。此れ虚言に非ざるなり。臣の大父言ふ、李牧、趙の将と為りて辺に居り、軍市の租は皆自ら用ひて士を饗し、賞賜は外に決し、中より擾されずと。委任して成功を責む。故に李牧乃ち其の智能を尽くすを得たり。選車千三百乗、彀騎万三千、百金の士十万を遣はし、是を以て北のかた単于を逐ひ、東胡を破り、澹林を滅ぼし、西のかた彊秦を抑へ、南のかた韓・魏を支ふ。是の時に当たりて、趙幾(ほと)んど霸たらんとす。其の後会(たまたま)趙王遷立つ。其の母は倡なり。王遷立ち、乃ち郭開の讒を用ひ、卒に李牧を誅し、顔聚をして之に代はらしむ。是を以て兵破れ士北(に)げ、秦の禽滅する所と為る。今臣竊かに聞く、魏尚雲中の守と為り、其の軍市の租は尽く以て士卒を饗し、[出]私養の銭もて、五日に一たび牛を椎(う)ち、賓客・軍吏・舎人を饗す。是を以て匈奴遠く避け、雲中の塞に近づかず。虜曾て一たび入る。尚、車騎を率ゐて之を撃ち、殺す所其れ衆し。夫れ士卒は尽く家人の子にして、田中より起ちて軍に従ふ。安くんぞ尺籍・伍符を知らん。終日力戦し、首を斬り虜を捕へ、功を莫府に上るに、一言相応ぜざれば、文吏法を以て之を縄す。其の賞行はれずして吏の法を奉ずるは必ず用ひらる。

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