回天詩史 / 水戸の家風と文政・文公の仁政と武公の志
(兩野常陸間之俗。貧民或不擧子。拉殺之孽。慘毒尤甚。而民習以爲常。恬然不怪。公深慨之。命郡官市司等之職。務矯其弊。若民極窮乏不能育子者。給以資用。封內赤子賴以活者。不可勝數。其法制今猶准行。凡民有七子以上者。褒賞於官。云)其讀書右文。義公以來不有其比。(初義公修大日本史。補千歲之缺典。然以其書屬私撰。不得公諸世。其傳寫行於世者。謬誤甚多。而正德以後。文學陵夷。其任館職。曰總裁曰編修。實不足副名。文公好文。一國嚮風。長久保玄珠立原萬之徒。唱於其前。高橋廣備先臣一正之儔。和於其後。公遂委廣備一正等。以刊脩之事。校訂補輯。率無虛日。文化年間。因關白藤公。取九重之進止。獲傳書名公行。乃上其先就者於木。獻於天朝。進於幕府者。皆文公之志。而武公繼述之力也)當時大將軍(文恭公)富於春秋。(公年十四)即位。白河源侯(松平越中守名定信。致仕號樂翁)及今侯(移封桑名)居宰輔之任。援三藩之君以倚賴焉。今恭觀公親筆秘錄(亦藏於秘書府。以囊分部。納諸桐匣。堅橫可三尺。深可二尺。而秘錄盈焉)匪其有裨益於天下者。不可勝數矣。其於國政。亦不乏美事。而公承奢侈之後。財用不足。功利之徒或乘之而起。遂累公之德者或有焉。然在位三十餘年。未嘗忽愛士撫民之政。其德澤浹洽於闔境者。至今猶深。武公寬裕而果斷。志存大體。大開言路。脩明庶政。丙寅丁卯間。慨然有大有爲之志。(先是國用窮乏。仰給於浪華富商。歲月之久。子錢倍蓰。國不勝其弊。風俗紀綱爲之頽敗。公有見於此。命有司推其顛末。究其源委。或捐其子錢。與其母金。或限以歲月。斷然與浪華富商絕。於是有量入爲出。備豫不虞之志。云)巨室束手。
新字:(両野常陸間之俗。貧民或不挙子。拉殺之孽。惨毒尤甚。而民習以為常。恬然不怪。公深慨之。命郡官市司等之職。務矯其弊。若民極窮乏不能育子者。給以資用。封内赤子頼以活者。不可勝数。其法制今猶准行。凡民有七子以上者。褒賞於官。云)其読書右文。義公以来不有其比。(初義公修大日本史。補千歳之欠典。然以其書属私撰。不得公諸世。其伝写行於世者。謬誤甚多。而正徳以後。文学陵夷。其任館職。曰総裁曰編修。実不足副名。文公好文。一国嚮風。長久保玄珠立原万之徒。唱於其前。高橋広備先臣一正之儔。和於其後。公遂委広備一正等。以刊脩之事。校訂補輯。率無虚日。文化年間。因関白藤公。取九重之進止。獲伝書名公行。乃上其先就者於木。献於天朝。進於幕府者。皆文公之志。而武公継述之力也)当時大将軍(文恭公)富於春秋。(公年十四)即位。白河源侯(松平越中守名定信。致仕号楽翁)及今侯(移封桑名)居宰輔之任。援三藩之君以倚頼焉。今恭観公親筆秘録(亦蔵於秘書府。以嚢分部。納諸桐匣。堅横可三尺。深可二尺。而秘録盈焉)匪其有裨益於天下者。不可勝数矣。其於国政。亦不乏美事。而公承奢侈之後。財用不足。功利之徒或乗之而起。遂累公之徳者或有焉。然在位三十余年。未嘗忽愛士撫民之政。其徳沢浹洽於闔境者。至今猶深。武公寛裕而果断。志存大体。大開言路。脩明庶政。丙寅丁卯間。慨然有大有為之志。(先是国用窮乏。仰給於浪華富商。歳月之久。子銭倍蓰。国不勝其弊。風俗紀綱為之頽敗。公有見於此。命有司推其顛末。究其源委。或捐其子銭。与其母金。或限以歳月。断然与浪華富商絶。於是有量入為出。備予不虞之志。云)巨室束手。
書き下し
(両野常陸間の俗、貧民或いは子を挙げず。拉殺の孽、惨毒尤も甚だし。而して民、習ひて以て常と為し、恬然として怪しまず。公深く之を慨き、郡官・市司等の職に命じ、務めて其の弊を矯めしむ。若し民、極窮にして子を育つる能はざる者あれば、給するに資用を以てす。封内の赤子、頼りて以て活く者、勝げて数ふべからず。其の法制今猶ほ准行す。凡そ民にして七子以上有る者は、官に褒賞せらる、と云ふ)其の書を読み文を右(たふと)ぶこと、義公以来其の比有らず。(初め義公大日本史を修し、千歳の欠典を補ふ。然れども其の書は私撰に属するを以て、公に世に諸(つま)らかにするを得ず。其の伝写して世に行はるる者は、謬誤甚だ多し。而して正徳以後、文学陵夷し、其の館職に任ずる、総裁と曰ひ編修と曰ふも、実に名に副ふに足らず。文公は文を好み、一国風に嚮(むか)ふ。長久保玄珠・立原万の徒、其の前に唱へ、高橋広備・先臣一正の儔、其の後に和す。公遂に広備・一正等に委ねて、刊修の事を以てす。校訂補輯、率ね虚日無し。文化年間、関白藤公に因りて、九重の進止を取り、書名を公行するを獲たり。乃ち其の先に就(な)りし者を木に上せ、天朝に献じ、幕府に進むるは、皆文公の志にして、武公の継述の力なり)当時の大将軍(文恭公)は春秋に富み、(公の年十四)即位す。白河源侯(松平越中守、名は定信。致仕して楽翁と号す)及び今侯(桑名に移封)は宰輔の任に居り、三藩の君を援けて以て倚頼す。今恭しく公の親筆秘録を観るに、(亦た秘書府に蔵す。嚢を以て部を分かち、諸(これ)を桐匣に納む。堅横三尺ばかり、深さ二尺ばかりにして、秘録盈(み)つ)其の天下に裨益有る者に非ざるは無く、勝げて数ふべからず。其の国政に於いても、亦た美事に乏しからず。而して公は奢侈の後を承け、財用足らず、功利の徒の或いは乗じて起こり、遂に公の徳を累(わずら)はす者或いは有り。然れども位に在ること三十余年、未だ嘗て士を愛し民を撫するの政を忽せにせず。其の徳沢の闔境に浹洽する者は、今に至りて猶ほ深し。武公は寛裕にして果断、志は大体に存し、大いに言路を開き、庶政を脩明す。丙寅・丁卯の間、慨然として大いに為すこと有るの志あり。(是より先、国用窮乏し、浪華の富商に仰ぎ給せらる。歳月の久しきに、子銭は倍蓰し、国は其の弊に勝へず、風俗紀綱之が為に頽敗す。公は此に見る有り、有司に命じて其の顛末を推し、其の源委を究めしむ。或いは其の子銭を捐(す)て、其の母金を与へ、或いは限るに歳月を以てし、断然として浪華の富商と絶つ。是に於いて、入るを量りて出づるを為し、不虞に備豫するの志有りと云ふ)巨室は手を束(つか)ぬ。
現代語訳
(両野(下野・上野)と常陸のあたりの風習として、貧しい民が子を育てないことがありました。子を押しつぶして殺す悪習は、惨たらしいことこのうえなく、しかも民は慣れて当たり前のようにし、平然として怪しみませんでした。文公は深く嘆き、郡官・市司などの役人に命じて、その弊害を正すよう努めさせました。もし民が極度に貧しくて子を育てられないなら、費用を支給しました。領内の赤子でこれによって命をつないだ者は数えきれません。その法制は今も準用されています。およそ七人以上の子がいる民は、官から褒賞される、ということです)また、読書し文事を尊ぶことは、義公以来、並ぶ者がありませんでした。(そもそも義公は『大日本史』を編纂し、千年来の欠けた典籍を補いました。しかし、その書は私撰に属するため、公に世に出すことができず、書き写されて世に広まったものには誤りが非常に多くありました。さらに正徳以後、文学は衰え、その史館の職に任じられた総裁や編修も、名に見合う実力はありませんでした。文公は文を好み、藩中が風に従うようになりました。長久保玄珠・立原万らが先に唱え、高橋広備・先臣一正らが後に和しました。公はついに広備・一正らに刊行・修訂の仕事を任せ、校訂や補修は、ほとんど休む日がありませんでした。文化年間、関白の藤公を通じて、朝廷の裁可を得て、書名を公に定めることができました。そこで先にできあがった部分を版木にのせ、朝廷に献上し、幕府に進呈したのは、いずれも文公の志であり、武公が受け継いで述べた努力によるものです)当時の大将軍(文恭公)は年若く、(公は14歳で)即位しました。白河の源侯(松平越中守定信、致仕して楽翁と号した)と今の侯(桑名に移封)が宰相の任にあり、三藩(尾張・紀伊・水戸)の君を助けて頼りにしました。いま謹んで公の直筆の秘録を拝見すると、(これも秘書府に蔵されています。袋で部を分け、桐の箱に納めました。縦横三尺ばかり、深さ二尺ばかりで、秘録が満ちています)天下に益のあることでないものはなく、数えきれません。国政においても、すぐれた事柄が乏しくありません。ただ、公は奢侈の風の後を継ぎ、財政が不足したため、功利を追う者が乗じて起こり、ついに公の徳に累を及ぼしたことも、あるにはあります。それでも在位三十余年、士を愛し民をいたわる政治をおろそかにしたことはなく、その恩徳が領内全体に行きわたったことは、今に至るまで深く残っています。武公は、ゆったりとして寛大で決断力があり、志は大局にあり、言論の道を大きく開き、諸政を整え明らかにしました。丙寅・丁卯の年(文政9・10年)の間に、慨然として大いになすべきことをなす志を持ちました。(これより先、藩の財政が窮乏し、大坂の富商に頼って資金を供給してもらっていました。長い年月に利子は倍以上にふくらみ、藩はその弊害に耐えられず、風俗や規律も崩れました。公はこれを見て、役人に命じて事の次第と根源を究明させました。ある借財は利息を捨てて元金のみを返し、ある借財は年限を切って、断然として大坂の富商との関係を絶ちました。こうして、収入を量って支出を決め、不測の事態に備える志を持った、ということです)有力な家老たちは手出しができませんでした。
解説
この章句が説くこと
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『回天詩史』・水戸の家風と文政・水戸藩の沿革 威公から文公まで回天詩史巻之下 水戸 藤田彪斌卿題并びに録す。邦家の隆替は偶然に非ず。恭(つつし)みて惟(おも)ふに、我が東藩は威公基を建て、廉恥節義を以て士風を鼓舞す。義公継述し、申(かさ)ぬるに孝悌忠信の教へを以てす。其の盛徳大業は、樵夫牧童と雖も猶ほ飽くまで聞きて道ふを厭(あ)かず、固(もと)より臣彪の賛美を俟たざるなり。義公既に老い、粛公封を襲ぐ。大将軍常憲公、隨性院夫人(八重姫君と称す)をして我が恭伯世子に帰がしむ。一国相賀するも、独り義公は以て国家の不幸と為す。(事は公の賜ふ所の木村権之衛門への手書に見ゆ)蓋し其の或いは奢侈の風を長ぜんことを恐るるなり。既にして風俗日に衰へ、財用足らず。義公薨じて未だ数年ならざるに、宝永年間に至りて、松並勘十郎の禍有り。(勘十郎は京師の人。功利に長じ、処士を以て江戸に遊ぶ。公聘して之を用ひ、遽かに顕職に任じ、大いに制度を変更す。所謂宝永の改革なる者なり。士民憤怨し、遂に宝永六年を以て放逐せらる。当時の執政有司及び松並の爪牙腹心、罪を被る者頗る衆し)其の紀綱を壊(やぶ)り風俗を害し、典章を蔑如して、以て邦家の辱を貽(のこ)す者、臣子実に言ふに忍びず。成公は夙に聡明の姿を以て、有為の志を懐く。享保の政は翕然として観るべし。不幸にして享年長からず。(公は年十四にして封を襲ぐ。享保庚戌四月六日薨ず。享年僅かに二十有六)中興遂げず、惜しいかな。良公は幼冲にして封を襲ぐ。(時に公の年は僅かに三歳)政は巨室より出づ。是を以て元老以下、頗る其の私門を営む。寛保・寛延の餘毒、今猶ほ或いは存す。公既に親政するや、其の聡明英武、蓋し成公の下に出でず。今其の手録筆記を拝観するに、(公の手録は秘書府に蔵在し、小姓頭取及び奥右筆之を掌る)其の奉公の誠、図治の志、勤めたりと謂ふべし。昔者唐主李隆基は開元に勤め、天宝に惰る。論者之を憾む。公も亦た始め有りて終はり有る能はず。或いは曰く、当時の大臣、公の英明を憚り、佞媚して迎合し、遂に宴安逸楽を以て公の心を蕩(うご)かす、と。理、其れ或いは然らん、悲しいかな。文公は恭倹にして自ら率ゐ、慈仁もて下を撫す。
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『回天詩史』・水戸の家風と文政・烈公の改革と蒙った禍の由来其の剛明果敢の気、宏闊達大の志、抑へて発せざること、蓋し亦た年有り。(公は年十七にして武公を喪ひ、三十にして哀公を喪ふ)一旦、哀公の遺言を以て、入りて其の統を続ぐ。未だ一号令も発せざるに、小人は胆を破り、数月の間に、奸臣・贓吏は廃黜して余す無く、佞幸・便嬖は駆除せられて既に遠し。耆旧・故老の文化に伸びて文政に届く者、往々にして再び挙げられ、忠直方正、文武材能の臣、稍稍選用せらる。一年ならずして奢侈頓(にわ)かに止み、倹素質朴の風、朝野に被ぶ。(是より先、請託相通じ、賄賂盛んに行はる。是に至りて有司、一介をも愛する能はず。国中の士女、競ひて美服を飾る者、一切之を禁ず。大夫と雖も帛を尚(たふと)ぶを得ず。第(ただ)し年七十を踰ゆる者は制限に在らず。凡そ冠婚・転除・慶賀の類、盛宴を張り、賓客を設け、歌舞飲食して数日に渉る者は、親戚の外、相会するを得ず。士人の家、俗箏・三絃の音絶えて無し。其の他、上巳・端午に玩物を用ゐる無く、務めて簡略に従ふの類は、枚挙に暇あらず。今暫く其の一二を記し、後人をして因る所有りて以て考へしむ)公は以為らく、大将軍は春秋既に高く、世故に諳熟す。而して水野(上に見ゆ)・林(肥後守。起こりて所謂御側衆より、新たに諸侯に列し、若年寄に任ず)の徒は威権赫灼たり。則ち天下の事は遽かに挽回し易からざるなり。已む無くんば、則ち一国の俗を変じ、文教を脩め武衛を奮ひ、以て幕府を捍蔽し、中興の嚆矢と為さんと。是に於いて日夜孜孜として此に従事すること、十六年一日なり。而るに群臣の材器徳量、公の盛意に副ふ者は衆からず。以て其の施設の間、緩急□序、寛猛の用を失ふの類無きこと能はずと雖も、其の文を脩め武を奮ひ、忠を天下に尽くすに至りては、則ち三百諸侯、恐らくは未だ公の用心に及ぶ者有らず。此れ臣彪の諛言に非ず。識者苟も其の事業に因りて其の情実を察せば、灼然として知るべし。而るに蒼蠅藩に集まり、萋斐錦を成し、忽然として今日の禍を羅織す。威・義二公、霊有らば、則ち臣彪、其の怒髪上りて瑞龍の巓を衝くを見ん。一たび此に念及ぶごとに、歎息痛恨、自ら已む能はず。因りて徐に公の禍を蒙る所以を繹(たず)ぬるに、幕府の諸臣、公の大志を忌む者、蓋し一朝一夕の故に非ず。
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『弘道館記述義』・明倫正名・大日本史に込めた倫を明らかにする志倫を明らかにし名を正し、以て国家に藩屏す。臣彪謹んで案ずるに、義公既に孝弟を以て父兄に事へ、諸弟に友愛し、閨門を整粛す。其の倫理を明らかにする所以の者至れり。其の正名の義に於ても又深く意を致せり。蓋し公は建櫜の後に生まれ、大猷公方に先志を紹述し、覇業益々隆んにして、天下の事復た患ふるに足る者莫し。但だ戦国の余習未だ尽くは除かず、尊王の道、正名の義、猶ほ或いは闕く。苟くも其の道義を明らかにして以て風教を植うるに非ずんば、則ち安んぞ異日反乱の徒、復た口を北条・足利に籍らざるを知らんや。此れ公の深く慮る所にして、修史の業の篤く自ら任ずる所以なり。其の著作纂述、勝げて数ふべからず。而して大日本史の作は、尤も不朽の大典たり。其の体裁筆削は、必ず親ら諸臣と反覆商榷し、諸を至当に帰す。一生の用心半ば此の書に在り。是に於て皇統の正閏、人臣の忠奸、照然として明白、復た疑ひを容れず。公嘗て尾紀二公と幕府に在り。適々一史を撰して刊行を請ふ者有り。公繙閲して、呉の太伯を以て神州の始祖と為すに至り、大いに駭きて曰く、此の説は異邦附会の妄に出づ。我が正の所無し。昔後醍醐帝の時、一妖僧有りて斯の説を倡ふ。詔して其の書を焚く。方今文明の世、豈に斯の怪事有らしむべけんや。宜しく命じて速やかに之を削らしむべしと。二公其の議に左袒し、遂に刊行を停む。公又建武・昌平の間の忠義の士の、其の支流の餘裔の諸州に沈淪する者有るを聞き、往往にして招致し其の礼遇を優にす。又嘗て楠子の為に碑を摂の湊川に建て、田を買ひて之に附し、永く香火に資す。居常心を忠敬に存して、老に至るまで懈らず。故事、天使の三藩の邸に至れば、則ち使を遣はして之を謝す。公謂ふ、不敬大なるは莫しと。乃ち親ら旅館に往きて其の辱を謝す。親王大臣の邸に臨むも亦必ず之の如し。毎歳元旦席を地に設け、宿して斎戒し夙朝に下り、西向して遥かに天闕を拝す。其の儀尤も謹めり。今に至るまで恒例と為す。初め大日本史粗ぼ緒に就く。公朝廷を憚りて敢へて史に名づけず。稿と称して之を視る。粛公以下世々其の志を継ぎ、校訂怠らず。文公其の久しくして或いは伝訛せんことを恐れ、諸を梓に上さんと欲す。更に史臣に命じて誤りを刊り闕を補はしむ。武公に至りて、関白藤公に因りて之を請ふ。朝議允す。大日本史の名始めて世に出づ。乃ち工に命じて鏤刻し、先づ其の成れる者を装し、表を上りて之を献ず。光格帝喜歎已まず、藤公に命じて勅を伝へて之を褒む。其の後二十余年、今上公の功を追録し、詔して従二位権大納言を贈る。実に天保三年壬辰五月なり。公の薨ずるより距たること一百三十有五年なり。爾来百数十年、世々遺緒を承け、恩沢に沐浴して以て今日に至る。則ち苟くも臣子たる者、豈に斯の道を推弘し先徳を発揚する所以を思はざるべけんや。
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『回天詩史』・水戸の家風と文政・哀公の治世と烈公の登場(中山氏は幕府の名卿を以て元老と為す。然れども専ら事の幕府及び他邦に関はる者を聴くのみ。士大夫の転除注擬の若きは、唯だ所謂物頭以上と田禄の与奪とを知るのみ。財用の伸縮損益及び小吏の進退、俸米の多寡の類に至りては、与り聞かず。以て恒例と為す。備前守信敬の、哀公の庶子を以て中山氏に出嗣するに及び、政府の謀議、事の大小と無く、必ず信敬に咨決す。強僭の患無き能はず。公、封を襲ぐの明年、信敬に命じ、其の政を聴く条件を悉く旧例に復せしむ。是より其の権稍々衰ふ)俗吏は胆を破る。而して事に任ずるの臣は、盛意を推し広むる能はず、峭直刻深にして、頗る物議を来す。是に於いて公は光を韜(つつ)み、持重す。蓋し他日を待つこと有るなり。而るに天は年を仮さず。(公は年三十三にして封を襲ぎ、四十四にして薨ず。位に在ること十二年)遺憾、曷(なん)ぞ已まんや。哀公は夙に高明の姿を以て、文雅の才を負ふ。其の封を襲ぐや、慈恵もて物を愛し、衆庶心を帰す。(故事、国君即世すれば、則ち其の左右の近臣は一時に皆罷め、悉く世子に事(つか)へし者を以て之に代ふ。武公の薨ずるに、有司は例を以て聞す。哀公は先公の左右を廃するに忍びず、乃ち亦た命じて公の近臣と為し、以て恒例と為すと云ふ)嘗て幕府の執政水野羽州(上に見ゆ)と営中に談ず。一たび見て其の奸を察す。又元老の或いは私門を張るを憤り、旧典を明らかにして以て大綱を総べんと欲す。(共に賜ふ所の先臣一正の親書に存す)公は嘗て峰寿院夫人(峰姫君と称す。文恭公の女)を幕府より迎ふ。後宮閨門の間、勢ひ甚だ倹なるを得ず。而して帑蔵は素より乏しきの財用なり。蓋し公は稟性虚弱にして、宵旰黽勉する能はず。以為らく、本藩は地狭く民少なし、之を右にし之を左にするも、国事に大損益有らず、之を有司に委ぬるに如かずと。是より漠然として復た事を可否せず。風流に耽り文墨を楽しみ、以て其の世を終ふ。文政の政、是を以て委靡衰頽し、殆ど宝永と軌を同じくす。痛むに勝ふべけんや。今の納言公は、哀公の介弟を以て、藩邸に潜む。(当時其の居る所を称して亀の間と曰ふ)竊かに天下の勢ひの日に衰弱に赴き、邦家の事も亦た陵遅に就くを憤る。
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『回天詩史』・文献志と讒言・就藩をめぐる巨室の抗議と職務の苦労竊かに恐る、其れ或いは罪を獲んことを。乃ち党を結び密議し、公の就藩を妨げんと欲す。以為らく、去歳、年穀登らず、士人の俸禄を減じ、一国皆聊生せず。而して公国に就かば、則ち士大夫の職事繁劇にして、冗費貲らず、皆怨嗟嘆息し、離心解体す。恐らくは大いに公の盛徳を損なわん。宜しく全て俸禄を賜い、以て人心を慰むべし。若し然る能わずんば、則ち就藩する無きの愈れるに如かずと。因りて所謂小番頭及び物頭の職を激し、各〻劄子を書して之を政府に達せしむ。政府制する能わず、状を以て聞す。公大いに怒り、謂う、姦人比周して君に要す。而るに政府に一人も之を制する無し。其の劄子を取りて以て寡人に聞す。奉職無状なり、と。遂に其の情を按問し、将に巨室某等及び水戸の執政有司の其の事に与る者を罰せんとす。彪、執政に謂いて曰く、公の赫怒する所以、既に命を聞けり。抑〻其の公に聞する者は、江戸の有司に非ずや。今、水戸の有司罪を蒙りて、吾が儕は譴を免るれば、則ち何の面目ありて復た水戸の有司に見えんやと。執政、慰むるに本末軽重の別を以てす。彪、自ら安んずる能わず。乃ち罪を引き、病に移りて懇ろに職を辞せんことを請う。未だ一旬ならずして職を免ぜられ、先手物頭の班(先に是れ彪は槍奉行の班)を以て、史館編修に充てらる。彪、劇職に在ること前後十年。始めて閑地を獲、殆ど物外に超然たるの思い有り。何ぞ図らん、未だ二月に盈たずして、忽ち擢でられて側用人と為り、復た政府に出入りして、献替に従事せんとは。時に彪、閑を得ざるに非ず。而るに忽ち之を失えば、則ち之を要するに、閑を得ざるの三なり。公の就藩するや、宵旰励精し、有司を督責す。二三年ならずして、経界粗〻改まり、学校漸く就り、文教武備頗る端緒に就く。而して公、方に五六年の暇を幕府より獲たり。是に於いて小人、日に佞媚の説を進め、以て公意に迎合す。公、其の制し易きを以て、或いは命ずるに事を以てし、小人力を竭くして賛成し、勢い殆ど勇んで敢えて為す者に類す。故を以て便嬖の少年、或いは遽かに顕官を獲たり。彪、従容として屢〻公に言うに君子小人の辨を以てす。而れども公、省みず。彪、因りて懇ろに職を辞せんことを請う。適〻彪を讒する者有り、謂えらく、彪、今井(名は惟典、金右衛門と称す)の擢でられて参政と為るを以て、心に不平を懐く。又謂えらく、彪の家計窘急、勢い職に居る能わず。乃ち正議に託して閑地を請うと。人或いは以て彪に告ぐ。公も亦手書を賜いて曰く、寡人は汝を信ず。而るに汝は寡人を疑う。汝去らば、則ち寡人も亦将に致仕せんとすと。彪
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『秘本玉くしげ』下 官人に非礼なく世間の学者ただ漢流の道理をのみ説て、此子細をしらざるが故に、今ことさらに顕はし申す也。かの水戸西山公の格別に此御志厚かりし御事、大日本史を修撰し玉へる御趣など、道の大本を弁へ玉へるほど、誠に有がたき御心ばへ也。そもそも御子孫の中にかばかり明良なる殿の出玉へりしも、ひとへに神御祖命の御盛徳の余烈、天照大御神の御はからひと、かへすがへすたふとく有がたき御事也。然れば御大名方御自身の御心得は申すに及ばず、御家中の人々までにも此子細をよく仰渡されて、つねづね相慎みて朝廷を畏れ奉るべきやう、又公卿官人たちも、其禄こそ軽けれ、ほどほどに官職を帯て皇朝にしたしく仕奉り玉ひ、其重き御礼典をも執行ひ玉ふ人々なれば、貴き御方々は申すに及ばず、末々の官人衆に至るまでも、ほどほどに厚く敬礼を加ふべき御事也。その禄うすく身分の軽きをあなどりて、あなかしこ非礼あるべからず。たとひ軽き人にても、官人は皇朝に仕へ奉る人也。

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