回天詩史 / 水戸の家風と文政・烈公の改革と蒙った禍の由来
其剛明果敢之氣。宏濶達大之志。抑而不發者。蓋亦有年。(公年十七。喪武公。三十喪哀公)一旦以哀公遺言。入續其統。未發一號令。而小人破膽。數月之間。奸臣贓吏廢黜無餘。佞幸便嬖驅除既遠。耆舊故老伸於文化。而屆於文政者往往再擧。忠直方正。文武材能之臣。稍稍選用。不一年奢侈頓止。儉素質朴之風被於朝野。(先是。請託相通賄賂盛行。至是有司不能愛一介。國中士女。競飾美服者。一切禁之。雖大夫不得尙帛。第年踰七十者不在制限。凡冠婚轉除慶賀之類。張盛宴設賓客歌舞飲食涉數日者。親戚之外。不得相會。士人之家絕無俗箏三絃之音。其他上巳端午。無用玩物。務從簡略之類。不暇枚擧。今暫記其一二。使後人有所因以考也)公以爲。大將軍春秋既高。諳熟世故。而水野(見於上)林(肥後守。起自所謂御側衆。新列爲諸侯。任若年寄)之徒。威權赫灼。則天下之事不易遽挽回也。無已則變一國之俗。脩文敎奮武衛。捍蔽幕府。以爲中興之嚆矢。於是日夜孜孜。從事於此者。十六年一日也。而群臣材器德量。副公之盛意者不衆。以故其施設之間。雖不能無緩急□序寬猛失用之類。而至於其脩文奮武盡忠於天下。則三百諸侯。恐未有及公之用心者。此非臣彪諛言。識者苟因其事業。而察其情實。則灼然可知也。而蒼蠅集藩。萋斐成錦。忽然羅織今日之禍。威義二公而有靈。則臣彪見其怒髮上衝瑞龍之巓也。每一念及此。歎息痛恨不能自已。因徐繹公之所以蒙禍。幕府諸臣忌公之大志者。蓋非一朝一夕之故也。
新字:其剛明果敢之気。宏濶達大之志。抑而不発者。蓋亦有年。(公年十七。喪武公。三十喪哀公)一旦以哀公遺言。入続其統。未発一号令。而小人破胆。数月之間。奸臣贓吏廃黜無余。佞幸便嬖駆除既遠。耆旧故老伸於文化。而届於文政者往往再挙。忠直方正。文武材能之臣。稍稍選用。不一年奢侈頓止。倹素質朴之風被於朝野。(先是。請託相通賄賂盛行。至是有司不能愛一介。国中士女。競飾美服者。一切禁之。雖大夫不得尚帛。第年踰七十者不在制限。凡冠婚転除慶賀之類。張盛宴設賓客歌舞飲食渉数日者。親戚之外。不得相会。士人之家絶無俗箏三絃之音。其他上巳端午。無用玩物。務従簡略之類。不暇枚挙。今暫記其一二。使後人有所因以考也)公以為。大将軍春秋既高。諳熟世故。而水野(見於上)林(肥後守。起自所謂御側衆。新列為諸侯。任若年寄)之徒。威権赫灼。則天下之事不易遽挽回也。無已則変一国之俗。脩文教奮武衛。捍蔽幕府。以為中興之嚆矢。於是日夜孜孜。従事於此者。十六年一日也。而群臣材器徳量。副公之盛意者不衆。以故其施設之間。雖不能無緩急□序寛猛失用之類。而至於其脩文奮武尽忠於天下。則三百諸侯。恐未有及公之用心者。此非臣彪諛言。識者苟因其事業。而察其情実。則灼然可知也。而蒼蠅集藩。萋斐成錦。忽然羅織今日之禍。威義二公而有霊。則臣彪見其怒髪上衝瑞竜之巓也。毎一念及此。嘆息痛恨不能自已。因徐繹公之所以蒙禍。幕府諸臣忌公之大志者。蓋非一朝一夕之故也。
書き下し
其の剛明果敢の気、宏闊達大の志、抑へて発せざること、蓋し亦た年有り。(公は年十七にして武公を喪ひ、三十にして哀公を喪ふ)一旦、哀公の遺言を以て、入りて其の統を続ぐ。未だ一号令も発せざるに、小人は胆を破り、数月の間に、奸臣・贓吏は廃黜して余す無く、佞幸・便嬖は駆除せられて既に遠し。耆旧・故老の文化に伸びて文政に届く者、往々にして再び挙げられ、忠直方正、文武材能の臣、稍稍選用せらる。一年ならずして奢侈頓(にわ)かに止み、倹素質朴の風、朝野に被ぶ。(是より先、請託相通じ、賄賂盛んに行はる。是に至りて有司、一介をも愛する能はず。国中の士女、競ひて美服を飾る者、一切之を禁ず。大夫と雖も帛を尚(たふと)ぶを得ず。第(ただ)し年七十を踰ゆる者は制限に在らず。凡そ冠婚・転除・慶賀の類、盛宴を張り、賓客を設け、歌舞飲食して数日に渉る者は、親戚の外、相会するを得ず。士人の家、俗箏・三絃の音絶えて無し。其の他、上巳・端午に玩物を用ゐる無く、務めて簡略に従ふの類は、枚挙に暇あらず。今暫く其の一二を記し、後人をして因る所有りて以て考へしむ)公は以為らく、大将軍は春秋既に高く、世故に諳熟す。而して水野(上に見ゆ)・林(肥後守。起こりて所謂御側衆より、新たに諸侯に列し、若年寄に任ず)の徒は威権赫灼たり。則ち天下の事は遽かに挽回し易からざるなり。已む無くんば、則ち一国の俗を変じ、文教を脩め武衛を奮ひ、以て幕府を捍蔽し、中興の嚆矢と為さんと。是に於いて日夜孜孜として此に従事すること、十六年一日なり。而るに群臣の材器徳量、公の盛意に副ふ者は衆からず。以て其の施設の間、緩急□序、寛猛の用を失ふの類無きこと能はずと雖も、其の文を脩め武を奮ひ、忠を天下に尽くすに至りては、則ち三百諸侯、恐らくは未だ公の用心に及ぶ者有らず。此れ臣彪の諛言に非ず。識者苟も其の事業に因りて其の情実を察せば、灼然として知るべし。而るに蒼蠅藩に集まり、萋斐錦を成し、忽然として今日の禍を羅織す。威・義二公、霊有らば、則ち臣彪、其の怒髪上りて瑞龍の巓を衝くを見ん。一たび此に念及ぶごとに、歎息痛恨、自ら已む能はず。因りて徐に公の禍を蒙る所以を繹(たず)ぬるに、幕府の諸臣、公の大志を忌む者、蓋し一朝一夕の故に非ず。
現代語訳
その剛毅で聡明、果敢な気性と、広く大きな志を、公(斉昭)は抑えて表に出さずに過ごした年月がありました。(公は17歳で武公を失い、30歳で哀公を失いました)ある日、哀公の遺言によって入って藩を継ぎました。まだ一つの号令も発しないうちに、小人は肝をつぶし、数か月の間に、奸臣や不正を働く役人は残らず退けられ、へつらいの寵臣や側近は追い払われて遠ざかりました。文化年間から文政に至る古参の老臣はしばしば再び登用され、忠直で方正、文武の才能ある臣が、少しずつ選ばれ用いられました。一年もたたないうちに奢侈はぴたりと止み、質素で飾らない風が朝廷から民間まで及びました。(これより前は、頼み事が行き交い、賄賂が盛んでした。ここに至って役人は、小さな品物も惜しめなくなりました。国中の男女で競って華美な服を着る者は、すべて禁じられました。大夫でも絹を尊ぶことは許されませんでした。ただし70歳を超える者は制限しませんでした。およそ冠婚・昇進・祝賀の類で、盛大な宴会を設け、客を招き、歌舞飲食して数日に及ぶことは、親戚のほかは会うことを許されませんでした。士人の家では、俗な箏や三味線の音が絶えてなくなりました。そのほか、上巳や端午にも玩具を用いず、できるだけ簡略にした類は、数えきれません。今ここでは一、二を記し、後の人が参考にして考察できるようにしておきます)公は考えました。大将軍はもう高齢で、世の事情に熟達している。そして水野(上に見える)、林(肥後守。もと側近の身分から起こり、新たに大名に列し若年寄に任じられた)らは権勢が盛んである。天下の事を急に挽回するのは難しい。やむを得ないなら、一国の風俗を改め、文教を修め武備を奮い立たせて、幕府を守る垣根とし、中興の先駆けにしよう、と。こうして日夜つとめてこれに従事すること、十六年一日のようでした。ところが、家臣の才能・器量・徳量で公の盛んな意に副う者は多くありませんでした。このため施策の間に、緩急の(底本で判読できない字)序や、寛と猛の使い分けを誤るような事もないわけではありませんでしたが、文を修め武を奮い、天下に忠を尽くすという点では、三百の諸侯の中で、おそらく公の心がけに及ぶ者はいません。これは私彪のへつらいではありません。識者がその事業から実情を察すれば、はっきりわかります。それなのに、蠅が藩に集まり、細かな模様が錦を織り成すように、たちまち今日の禍が織り上げられました。威公・義公の霊があれば、私は、お二人の怒りが逆立つ髪となって瑞龍の山頂を突くのを見るでしょう。このことを思うたびに、嘆き悲しみ痛恨の念をやめることができません。そこでゆっくりと公が禍を蒙った理由をたどってみると、幕府の臣で公の大志を忌む者は、一朝一夕のことではありませんでした。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
史記 魯仲連鄒陽列伝蘇秦燕に相たり、燕人之を王に悪す。王剣を按じて怒り、食はすに駃騠を以てす。白圭中山に顕はる。中山の人之を魏の文侯に悪す。文侯之に投ずるに夜光の璧を以てす。何となれば、両主二臣、心を剖き肝を坼きて相信ず。豈に浮辞に移らんや。故に女に美悪無く、宮に入れば妒まる。士に賢不肖無く、朝に入れば嫉まる。昔者、司馬喜は宋に髕脚せられ、卒に中山に相たり。范睢は魏に脅を摺かれ歯を折られ、卒に応侯と為る。此の二人は、皆必然の画を信じ、朋党の私を捐て、孤独の位を挟む。故に自ら嫉妒の人より免るる能はざるなり。是を以て申徒狄は自ら河に沈み、徐衍は石を負ひて海に入る。世に容れられず、義茍取せず、朝に比周して以て主上の心を移さず。故に百里奚は路に食を乞ふも、繆公之に委ぬるに政を以てす。甯戚は車下に牛を飯ふも、而して桓公之に任ずるに国を以てす。此の二人は、豈に宦を朝に借り、誉を左右に仮りて、然る後に二主之を用ひんや。心に感じ、行に合ひ、膠漆より親しく、昆弟も離す能はず。豈に衆口に惑はんや。故に偏聴は姦を生じ、独任は乱を成す。昔者、魯は季孫の説を聴きて孔子を逐ひ、宋は子罕の計を信じて墨翟を囚ふ。夫れ孔・墨の弁を以てするも、自ら讒諛より免るる能はずして、二国以て危し。何となれば、衆口は金を鑠かし、積毀は骨を銷せばなり。是を以て秦は戎人由余を用ひて中国に霸たり、斉は越人蒙を用ひて威・宣を彊くす。此の二国は、豈に俗に拘はり、世に牽かれ、阿偏の辞に系らんや。公聴并観して、名を当世に垂る。故に意合へば則ち胡越も昆弟と為る、由余・越人蒙是なり。合はざれば則ち骨肉も出逐して収めず、朱・象・管・蔡是なり。今、人主誠に能く斉・秦の義を用ひ、宋・魯の聴を後にせば、則ち五伯も称するに足らず、三王も為し易きなり。
-
説苑・雜言楚の昭王、孔子を召し、将に執政たらしめて書社七百を以て封ぜんとす。子西楚王に謂いて曰く、「王の臣、兵を用うること子路の如き者有りや。諸侯に使いすること宰予の如き者有りや。五官を長とすること子貢の如き者有りや。昔、文王は酆に処り、武王は鎬に処りて百乗の地を間にし、上を伐ち主を殺して立ちて天子と為るや、世皆聖と曰う。王今孔子の賢を以て書社七百里の地を有し、三子之を佐くれば、楚の利に非ざるなり」と。楚王遂に止む。夫れ善悪の分かち難きや、聖人独り疑いを見る、況んや賢者に於いてをや。是を以て賢聖合すること罕にして、諂諛常に興る。故に千歳の乱有りて百歳の治無し。孔子の疑いを見らるる、豈に痛ましからずや。
-
史記 太史公自序文公の珪鬯を錫はるを嘉し、晋世家第九を作る。重黎之を業とし、呉回之に接す。殷の季世、粥子之を牒す。周熊繹を用ひ、熊渠是れ続ぐ。荘王の賢、乃ち陳を復国し、既に鄭伯を赦し、師を華元に班(かへ)す。懐王客死し、蘭屈原を咎む。諛ひを好み讒を信じ、楚秦に并せらる。荘王の義を嘉し、楚世家第十を作る。少康の子、実に南海に賓し、文身断髪して、黿鱓と与に処り、既に封禺を守り、禹の祀を奉ず。句践彼に困しみ、乃ち種・蠡を用ふ。句践の夷蛮にして能く其の徳を修め、彊呉を滅ぼして以て周室を尊ぶを嘉し、越王句践世家第十一を作る。桓公の東するや、太史是れ庸ふ。周の禾を侵すに及び、王人是れ議す。祭仲盟を要し、鄭久しく昌えず。子産の仁、世を紹ぎて賢と称せらる。三晋侵伐し、鄭韓に納る。厲公の恵王を納るるを嘉し、鄭世家第十二を作る。維れ驥・騄耳、乃ち造父を章かにす。趙夙は献に事へ、衰厥の緒を続ぐ。文を佐けて王を尊び、卒に晋の輔と為る。襄子困辱せられ、乃ち智伯を禽にす。主父生きながら縛られ、餓死して爵を探る。王遷辟淫にして、良将是れ斥けらる。鞅の周の乱を討つを嘉し、趙世家第十三を作る。畢万魏に爵せらるるや、卜人之を知る。絳の干を戮するに及び、戎翟之に和す。文侯義を慕ひ、子夏之を師とす。恵王自ら矜り、斉秦之を攻む。既に信陵を疑ひ、諸侯之を罷む。卒に大梁を亡ひ、王假之に廝たり。武の晋文を佐けて覇道を申ぶるを嘉し、魏世家第十四を作る。韓厥の陰徳、趙武興る攸。絶えたるを紹ぎ廃れたるを立て、晋人之を宗とす。昭侯列に顕はれ、申子之を庸ふ。非を疑ひ信ぜず、秦人之を襲ふ。厥の晋を輔け周の天子の賦を匡すを嘉し、韓世家第十五を作る。完子難を避け、斉に適きて援と為る。陰かに施すこと五世、斉人之を歌ふ。成子政を得、田和侯と為る。王建心を動かし、乃ち共に遷さる。
-
戦国策・齊人李伯見孝成王斉人李伯孝成王に見ゆ。成王之を説び、以て代郡守と為す。而して居ること幾ばくも無くして、人之が反すと告ぐ。孝成王方に饋するに、食を墮とさず。幾ばくも無くして、告ぐる者復た至るも、孝成王応ぜず。已にして、乃ち使者をして言わしめて曰く、「斉兵を挙げて燕を撃つ、恐らくは其の燕を撃つを以て名と為して、兵を以て趙を襲わんとするを、故に兵を発して自ら備う。今燕・斉已に合す、臣請う其の敝に要して、地多く割くべし」と。是より之より後、孝成王の為に外に従事する者、自ら中に疑わるる無し。
-
戦国策・文信侯出走文信侯出走し、司空馬と與に趙に之く。趙以て守相と爲す。秦甲を下して趙を攻む。司空馬趙王に說きて曰く、「文信侯秦に相たり、臣之に事へ、尚書と爲りて秦の事に習ふ。今大王小官を守らしめ、趙の事に習はしむ。請ふ大王の爲に秦・趙の戰を設けて、親しく其の孰れか勝つかを觀ん。趙秦と孰與れぞ大なる。」曰く、「如かず。」「民孰與れぞ之に眾き。」曰く、「如かず。」「金錢粟孰與れぞ之に富む。」曰く、「如かず。」「國孰與れぞ之に治まる。」曰く、「如かず。」「相孰與れぞ之に賢なる。」曰く、「如かず。」「將孰與れぞ之に武なる。」曰く、「如かず。」「律令孰與れぞ之に明らかなる。」曰く、「如かず。」司空馬曰く、「然らば則ち大王の國、百舉して秦に及ぶ者無し。大王の國亡びん。」趙王曰く、「卿趙を遠しとせずして、悉く國事を以て教ふ、願はくは計に因らんことを。」司空馬曰く、「大王趙の半を裂きて以て秦に賂へば、秦刃を接へずして趙の半を得て、秦必ず悅ばん。內趙の守を惡み、外諸侯の救を恐れ、秦必ず之を受けん。秦地を受けて兵を郄け、趙半國を守りて以て自ら存す。秦賂を銜みて以て自ら彊くすれば、山東必ず恐れん。趙を亡ぼして自ら危ふくすれば、諸侯必ず懼れん。懼れて相救はば、則ち從事成るべし。臣請ふ大王の爲に從を約せん。從事成らば、則ち是れ大王名は趙の半を亡ぼすも、實は山東を得て秦に敵す、秦亡ぼすに足らず。」趙王曰く、「前日秦甲を下して趙を攻め、趙河間十二縣を以て賂ふるも、地削られ兵弱りて、卒に秦の患を免れず。今又趙の半を割きて以て秦を彊くすれば、力自ら存する能はず、因りて以て亡びん。願はくは卿の計を更めよ。」司空馬曰く、「臣少くして秦の刀筆と爲り、官長を以て小官を守り、未だ嘗て兵首と爲らず。請ふ大王の爲に悉く趙兵を以て遇せん。」趙王將たらしむる能はず。司空馬曰く、「臣愚計を效して、大王用ゐずんば、是れ臣以て大王に事ふる無し。願はくは自ら請はん。」司空馬趙を去り、平原を渡る。平原津令郭遺勞して問ふ、「秦兵趙を下す、上客趙より來る、趙の事何如。」司空馬其の趙王の爲に計るも用ゐられずして、趙必ず亡びんことを言ふ。平原令曰く、「上客を以て之を料るに、趙何れの時にか亡びん。」司空馬曰く、「趙將は武安君なり、期年にして亡びん。若し武安君を殺さば、半年を過ぎず。」趙王の臣に韓倉なる者有り、曲を以て趙王に合ひ、其の交はり甚だ親し。其の人と爲り賢を疾み功臣を妒む。今國危亡し、王必ず其の言を用ゐん、武安君必ず死せん。」韓倉果して之を惡み、王人をして代らしむ。武安君至る。韓倉をして之を數へしめて曰く、「將軍戰ひて勝ち、王將軍に觴す。將軍前に壽を爲して匕首を捍ぐ、當に死すべし。」武安君曰く、「繓病鈎あり、身大にして臂短く、地に及ぶ能はず、起居敬まず、恐懼して前に死罪あらんことを、故に工人をして木材を爲りて以て手に接がしむ。上若し信ぜずんば、繓請ふ以て出だして示さん。」之を袖中より出だし、以て韓倉に示す。狀振㧢の如く、纏ふに布を以てす。「願はくは公入りて之を明らかにせよ。」韓倉曰く、「命を王に受け、將軍に死を賜ふ、赦さず。臣敢へて言はず。」武安君北面再拜して死を賜はり、劍を縮めて自ら誅せんとして、乃ち曰く、「人臣宮中に於て自殺するを得ず。」司空馬の門に遇ふ、趣くこと甚だ疾く、諔門を出づるなり。右に劍を舉げて自ら誅せんとするも、臂短くして及ぶ能はず、劍を銜みて柱に徵して以て自刺す。武安君死して五月、趙亡ぶ。平原令諸公を見て、必ず之を言ひて曰く、「嗟嗞乎、司空馬。」又以爲へらく、司空馬秦に逐はれたるは、知らざるに非ざるなり。趙を去りしは、不肖に非ざるなり。趙司空馬を去りて國亡ぶ。國亡ぶ者は、賢人無きに非ず、用ゐる能はざるなり。
-
『智囊』辯才・陳軫軫、人臣為りて、常に国情を以て楚に輸さば、楚王必ず臣を留めず、昭陽は将に臣と事に従わざらんとす。此れを以て臣の楚に之くと不とを明らかにせん」。軫出で、張儀入り、王に問いて曰く、「陳軫は果たして安くにか之く」。王曰く、「夫れ軫は天下の辯士なり。熟ら寡人を視て曰く、『軫は必ず楚に之かん』と。寡人遂に奈何ともする無し。寡人因りて問いて曰く、『子必ず楚に之かば、則ち儀の言は果たして信なり』と。軫曰く、『独り儀の言のみに非ず、行道の人も皆之を知る。昔者、子胥は其の君に忠にして、天下皆以て臣と為さんと欲す。孝己は其の親を愛して、天下皆以て子と為さんと欲す。故に僕妾を売りて里巷を出でずして取らるる者は、良き僕妾なり。婦を出して郷里に嫁ぐ者は、善き婦なり。臣、王に忠ならずんば、楚何を以て軫を忠と為さん。忠にして且つ棄てられなば、軫、楚に之かずして何くにか之かん』と」。王、以て然りと為し、遂に之を善く待せり。

人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見る