回天詩史 / 郡廳の事・水戸への移住と住まいの広さ
而猶能刻苦於其間。大丈夫苟居天下之廣居。則室之廣狹。於我何哉。蓋涉旬經月。習以爲常。至於二三年之久。則不復覺舍之狹隘也。丙申歲。公大發令。移江邸之士於水戸。昔者祖宗之時。士皆居水戸。祇役於江戸。以一年爲期。後者來而先者去。名曰交代。或曰在番。其移家累於江戸者。蓋亦甚少。肅公以來。公就藩既稀。士之移於江戸亦頗多。而若諸有司及物頭步卒之徒。則猶依舊交代。文公慈惠。憐士之苦於行役。始使諸有司及諸職移家於江戸。名曰定府。爾來藩邸官舍稱密。風俗浮薄。而江戸水戸事情不通。文書往復動相疑難。至是邸中士庶。移於水戸者二百餘人。僮僕奴婢不可勝數。咨嗟怨歎。猶流人之赴謫也。邸舍爲之頗空。公乃使水戸諸有司交代焉。將擴而及諸職。又令步卒毎一隊授一舍。居常相親睦。彪之舍當授步卒。乃移而居臺之東隅。其地踞富阪之上。東北望駒籠白山。眼畫頗濶。大非他舍之比。庚子之春。公就藩。彪又徙於水戸。南北奔走者十餘年。而獲歸舊廬。彪之移家累者。至是凡七矣。傳曰。士而懷居。不足以爲士。又曰。小人懷土。夫士之志於道。其居與土不足思固也。然孟母擇隣。而夫子亦有里仁之語。則其生長子弟。
新字:而猶能刻苦於其間。大丈夫苟居天下之広居。則室之広狭。於我何哉。蓋渉旬経月。習以為常。至於二三年之久。則不復覚舎之狭隘也。丙申歳。公大発令。移江邸之士於水戸。昔者祖宗之時。士皆居水戸。祇役於江戸。以一年為期。後者来而先者去。名曰交代。或曰在番。其移家累於江戸者。蓋亦甚少。粛公以来。公就藩既稀。士之移於江戸亦頗多。而若諸有司及物頭歩卒之徒。則猶依旧交代。文公慈恵。憐士之苦於行役。始使諸有司及諸職移家於江戸。名曰定府。爾来藩邸官舎称密。風俗浮薄。而江戸水戸事情不通。文書往復動相疑難。至是邸中士庶。移於水戸者二百余人。僮僕奴婢不可勝数。咨嗟怨嘆。猶流人之赴謫也。邸舎為之頗空。公乃使水戸諸有司交代焉。将擴而及諸職。又令歩卒毎一隊授一舎。居常相親睦。彪之舎当授歩卒。乃移而居台之東隅。其地踞富阪之上。東北望駒籠白山。眼画頗濶。大非他舎之比。庚子之春。公就藩。彪又徙於水戸。南北奔走者十余年。而獲帰旧廬。彪之移家累者。至是凡七矣。伝曰。士而懐居。不足以為士。又曰。小人懐土。夫士之志於道。其居与土不足思固也。然孟母択隣。而夫子亦有里仁之語。則其生長子弟。
書き下し
而(しか)るに猶(な)ほ能(よ)く其の間に刻苦す。大丈夫、苟(いやしく)も天下の広居に居(お)れば、則ち室の広狭は、我に於いて何ぞや。蓋し旬を渉(わた)り月を経て、習ひて以て常と為す。二三年の久しきに至れば、則ち復た舎の狭隘なるを覚えざるなり。丙申の歳、公大いに令を発し、江邸の士を水戸に移す。昔者祖宗の時、士は皆水戸に居り、江戸に祇役(しえき)す。一年を以て期と為し、後者来たりて先者去る。名づけて交代と曰ひ、或いは在番と曰ふ。其の家累を江戸に移す者は、蓋し亦た甚だ少なし。粛公以来、公の藩に就くこと既に稀にして、士の江戸に移る者も亦た頗る多し。而して諸有司及び物頭・歩卒の徒の若きは、則ち猶ほ旧に依りて交代す。文公の慈恵、士の行役に苦しむを憐れみ、始めて諸有司及び諸職をして家を江戸に移さしむ。名づけて定府と曰ふ。爾来藩邸の官舎は稠密と称し、風俗浮薄にして、江戸・水戸の事情通ぜず、文書の往復、動(やや)もすれば相疑難す。是に至りて邸中の士庶、水戸に移る者二百余人、僮僕奴婢は勝(あ)げて数ふべからず。咨嗟怨歎、猶ほ流人の謫(たく)に赴くがごとし。邸舎之が為に頗る空し。公乃ち水戸の諸有司をして交代せしむ。将に擴げて諸職に及ぼさんとす。又歩卒をして毎一隊に一舎を授けしめ、居常相親睦せしむ。彪の舎は当に歩卒に授くべし。乃ち移りて台の東隅に居る。其の地は富阪の上に踞し、東北に駒籠・白山を望み、眼画頗る闊く、大いに他舎の比に非ず。庚子の春、公藩に就く。彪又水戸に徙(うつ)る。南北奔走すること十余年にして、旧廬に帰るを獲たり。彪の家累を移す者、是に至りて凡そ七たびなり。伝に曰く、士にして居を懐(おも)はば、以て士と為すに足らず、と。又曰く、小人は土を懐(おも)ふ、と。夫れ士の道に志す、其の居と土とは思ふに足らざること固(もと)よりなり。然れども孟母は隣を択び、夫子も亦た里仁の語有り。則ち其の子弟を生長し、
現代語訳
それでもなお、その狭い住まいの中で苦労して耐えることができます。大丈夫(立派な男)がもし天下という広い住まいに身を置いているなら、部屋の広い狭いは自分にとって何ほどのことでしょうか。十日、ひと月と過ぎるうちに慣れて当たり前になり、二、三年も経つと、もう家の狭さを感じなくなります。丙申の年(天保7年)、藩公(徳川斉昭)は大きな命令を出し、江戸屋敷の藩士を水戸へ移しました。昔、祖先の代には、藩士はみな水戸に住み、江戸には勤めのために出向きました。一年を期限として、後の者が来れば先の者が去ります。これを交代、または在番と呼びました。家族を江戸へ移す者は、おそらくごくわずかでした。粛公(藩主の諡)以来、藩主が領国に入ることがすでに稀になり、江戸へ移る藩士もかなり多くなりました。それでも諸有司や物頭、歩卒などは、やはり従来どおり交代で勤めていました。文公(藩主の諡)は慈悲深く、藩士が勤めの往来に苦しむのを憐れんで、初めて諸有司や諸職の者に家族を江戸へ移させました。これを定府と呼びます。それ以来、藩邸の官舎は過密といわれ、風俗は軽薄になり、江戸と水戸の事情が通じなくなって、文書をやりとりすれば、ともすればお互いに疑い責め合うようになりました。ここに至り、屋敷の中の士と庶民で水戸へ移る者は二百人あまり、召使いや下男下女は数えきれないほどでした。嘆き恨むさまは、流罪人が配所に赴くようでした。藩邸は大いに空きました。公はそこで水戸の諸有司を交代させ、さらに諸職にも広げようとし、また歩卒には一隊ごとに一軒の家を与え、ふだんから親しく睦まじくさせました。彪(私、藤田東湖)の家は歩卒に与えるべきものでしたので、移って台地の東の隅に住みました。その地は富阪の上にあり、東北に駒籠・白山を望み、見晴らしがたいへん開けていて、他の家とは比べものになりませんでした。庚子の年(天保11年)の春、公が領国に入られ、私もまた水戸へ移りました。南へ北へ十余年も奔走して、ようやく元の住まいに帰ることができました。私が家族を移した回数は、これで七回になります。古い言葉に、士でありながら居心地を思うようでは、士とするには足りない、とあります。また、小人は土地を思う、ともいいます。そもそも道に志す士は、住まいや土地を思わないのが当然です。けれども孟子の母は住む場所の隣人を選び、孔子にも里仁(住む場所は仁のある所がよい)という言葉があります。そうであれば、子弟を生み育て、
解説
この章句が説くこと
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啓発録・跋嗚呼如何せん、吾身刀圭の家に生れ、賤技に局々として、吾初年の志を遂る事を不得を。然れども所業は此に在りても、所志は彼に在り候へは、後世吾心を知り吾志を憐み吾道を信ずる者あらん歟。嘉永戊申季夏橋本左内誌。
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論語・公冶長篇顔淵・季路侍る。子曰く、「盍ぞ各々爾の志を言わざる。」子路曰く、「願わくは車馬衣裘、朋友と共にし、之を敝るとも憾み無からん。」顔淵曰く、「願わくは善に伐ること無く、労を施すこと無からん。」子路曰く、「願わくは子の志を聞かん。」子曰く、「老者は之を安んじ、朋友は之を信じ、少者は之を懐けん。」

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