回天詩史 / 致仕の命と決死・幕府の使者と致仕の宣告
政府爲之愕然。僉議至夜分。遂不能詳其故也。六日詰旦。閣老傳命於中山備州曰。今日幕使就邸。傳旨於兩君。於是擧邸皆卜公之致仕與世子之襲封。而未詳何人來而傳旨也。過巳牌。閣老又傳命於備州曰。使於水戶殿者。則松平讚岐守。松平大學頭。松平播磨守。使於鶴千代麻呂殿者。則阿部伊勢守。牧野備前守。且曰。公不須見讚州等。又勿煩送迎。家老中山備州。興津能州等受命。告諸公。以公言傳諸讚州等可也。午牌三侯俱來。元老執政延之於對面所。受命。則曰。公近年政事不肅。且驕慢自用。不憚嫌疑。大將軍不懌。公其致仕移駒籠邸。堅閉門戶勿有不謹。若其襲封則命諸世子云。俄頃而勢州備州亦俱來。世子送迎如禮。備州班在勢州之下。是日以其直月先勢州而坐。傳旨於世子。其辭命與所命公大同小異。二人畢使事而去。時世子年僅十三。坐作進退綽然可觀。群臣悲喜交至。一邸肅然。旣而公召彪於燕室曰。寡人旣受命矣。有司用事者。得無譴責耶。彪對曰。有司亦蒙譴也必矣。他人則不知也。彪叨竊虛名。決知不免。假使幕府網泄吞舟。彪何面目復碌碌立於世乎。公曰。然則汝將奈何。彪曰。誠獲脫然致仕以從老公於寂寞之濱。則志願足矣。公曰。寡人亦了汝心事。寡人將以今夕命汝致仕。汝其待焉。
新字:政府為之愕然。僉議至夜分。遂不能詳其故也。六日詰旦。閣老伝命於中山備州曰。今日幕使就邸。伝旨於両君。於是挙邸皆卜公之致仕与世子之襲封。而未詳何人来而伝旨也。過巳牌。閣老又伝命於備州曰。使於水戸殿者。則松平讃岐守。松平大学頭。松平播磨守。使於鶴千代麻呂殿者。則阿部伊勢守。牧野備前守。且曰。公不須見讃州等。又勿煩送迎。家老中山備州。興津能州等受命。告諸公。以公言伝諸讃州等可也。午牌三侯倶来。元老執政延之於対面所。受命。則曰。公近年政事不粛。且驕慢自用。不憚嫌疑。大将軍不懌。公其致仕移駒籠邸。堅閉門戸勿有不謹。若其襲封則命諸世子云。俄頃而勢州備州亦倶来。世子送迎如礼。備州班在勢州之下。是日以其直月先勢州而坐。伝旨於世子。其辞命与所命公大同小異。二人畢使事而去。時世子年僅十三。坐作進退綽然可観。群臣悲喜交至。一邸粛然。既而公召彪於燕室曰。寡人既受命矣。有司用事者。得無譴責耶。彪対曰。有司亦蒙譴也必矣。他人則不知也。彪叨窃虚名。決知不免。仮使幕府網泄呑舟。彪何面目復碌碌立於世乎。公曰。然則汝将奈何。彪曰。誠獲脱然致仕以従老公於寂寞之浜。則志願足矣。公曰。寡人亦了汝心事。寡人将以今夕命汝致仕。汝其待焉。
書き下し
政府、之が為に愕然とし、僉議夜分に至る。遂に其の故を詳らかにする能わざるなり。六日の詰旦、閣老、命を中山備州に伝えて曰く、今日、幕使、邸に就きて旨を両君に伝えんと。是に於いて挙邸、皆公の致仕と世子の襲封とを卜するも、未だ何人の来たりて旨を伝うるかを詳らかにせず。巳の牌を過ぎ、閣老又命を備州に伝えて曰く、水戸殿に使いする者は、則ち松平讃岐守・松平大学頭・松平播磨守。鶴千代麻呂殿に使いする者は、則ち阿部伊勢守・牧野備前守と。且つ曰く、公は讃州等に見ゆるを須いず。又送迎を煩わす勿れ。家老中山備州、興津能州等、命を受け、諸を公に告げ、公の言を以て讃州等に伝えて可なりと。午の牌、三侯俱に来たる。元老・執政、之を対面所に延き、命を受く。則ち曰く、公は近年政事粛ならず、且つ驕慢自ら用い、嫌疑を憚らず。大将軍懌ばず。公、其れ致仕して駒籠邸に移り、堅く門戸を閉じて謹まざる有る勿れ。若し其れ襲封せば、則ち世子に命ずと云う。俄頃にして勢州・備州も亦俱に来たる。世子、送迎すること礼の如し。備州の班は勢州の下に在り。是の日、其の直月を以て勢州に先んじて坐す。旨を世子に伝う。其の辞命は公に命ずる所と大同小異なり。二人、使事を畢えて去る。時に世子、年僅かに十三。坐作進退、綽然として観るべし。群臣、悲喜交〻至り、一邸粛然たり。既にして公、彪を燕室に召して曰く、寡人既に命を受けたり。有司用事の者、譴責を得ざるや。彪対えて曰く、有司も亦譴を蒙ること必せり。他人は則ち知らず。彪は叨りに虚名を竊み、決して免れざるを知る。仮使い幕府の網、舟を呑むを泄らすとも、彪、何の面目ありて復た碌碌として世に立たんやと。公曰く、然らば則ち汝将に奈何せんとするや。彪曰く、誠に脱然として致仕するを獲、以て老公に寂寞の浜に従わば、則ち志願足れりと。公曰く、寡人も亦汝の心事を了せり。寡人、将に今夕を以て汝に致仕を命ぜんとす。汝其れ待て。
現代語訳
政府の人々はこれに驚き、夜更けまで協議しましたが、その理由は詳しく分かりませんでした。六日の早朝、老中が命を中山備前守に伝えました。「今日、幕府の使者が邸に来て、両君に上意を伝える」。そこで邸中の者はみな、公の致仕(隠居)と世子の家督相続を予想しましたが、どんな人が来て上意を伝えるのかは分かりませんでした。巳の刻(午前十時ごろ)を過ぎて、老中がまた命を備前守に伝えました。「水戸殿への使者は、松平讃岐守、松平大学頭、松平播磨守。鶴千代麻呂殿への使者は、阿部伊勢守、牧野備前守である」。さらに「公は讃岐守らに会う必要はない。送迎の手間も不要。家老の中山備前守、興津能登守らが命を受け、公に告げ、公の言葉を讃岐守らに伝えればよい」と言いました。午の刻(正午)に三侯がそろって来ました。元老と執政が対面所に迎え、命を受けました。その内容は「公は近年、政治が粛然とせず、しかも驕慢で自分の考えだけを用い、嫌疑を避けることもしない。大将軍はお喜びにならない。公は致仕して駒込の邸に移り、固く門戸を閉じて慎みを欠くことのないように。家督を継ぐ場合は、世子に命じる」というものでした。まもなく阿部伊勢守と牧野備前守もそろって来ました。世子は礼どおりに送迎しました。備前守の席次は伊勢守の下にありましたが、この日は当番月にあたるため伊勢守より先に座りました。上意が世子に伝えられました。その言葉は公に命じたものとほぼ同じでした。二人は使いの役目を終えて去りました。このとき世子はわずか十三歳でしたが、立ち居振る舞いはゆったりと立派でした。家臣たちは悲しみと喜びが交じり、邸中は静まり返りました。やがて公は私を奥の間に召して言いました。「私はすでに命を受けた。役人たちは、咎めを受けないだろうか」。私は答えました。「役人たちも咎めを受けるのは必定です。他の人のことは分かりません。私はいたずらに虚名を盗んできたので、決して免れないと知っています。たとえ幕府の網が舟を呑むほどの大魚を逃すように緩んでも、私はどの面下げて、のうのうと世に立てましょうか」。公は言いました。「ではおまえはどうするつもりか」。私は言いました。「まことにすっぱりと致仕できて、老公に寂しい浜辺までお供できるなら、願いは満ちます」。公は言いました。「私もおまえの心中を了解した。今夜、おまえに致仕を命じよう。待っていなさい」。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
『春秋左氏伝』昭公七年 普天の下、王土に非ざる莫し七年春、王の正月、齊と平らぐ。齊之を求むるなり。癸巳、齊侯虢に次る。燕人成を行ひて曰く、「敝邑罪を知る、敢へて命を聽かざらんや。先君の敝器もて、請ふ以て罪を謝せん」と。公孫皙曰く、「服を受けて退き、釁を俟ちて動くは、可なり」と。二月、戊午、濡上に盟ふ。燕人燕姬を歸(とつ)がしめ、賂ふに瑤罋・玉櫝・斝耳を以てす。克たずして還る。楚子の令尹為るや、王の旌を為りて以て田す。芋尹無宇之を斷ちて曰く、「一國に兩君あらば、其れ誰か之に堪へん」と。即位するに及び、章華の宮を為り、亡人を納れて以て之を實たす。無宇の閽焉に入る。無宇之を執ふ。有司與へずして曰く、「人を王宮に執ふ、其の罪大なり」と。執へて諸を王に謁す。王將に酒を飲まんとす。無宇辭して曰く、「天子は經略し、諸侯は封を正す、古の制なり。封略の内、何か君の土に非ざる。土の毛を食む、誰か君の臣に非ざる。故に詩に曰く、『普天の下、王土に非ざる莫く、率土の濱、王臣に非ざる莫し』と。
-
史記 高祖本紀高祖長く雒陽に都せんと欲す、斉人劉敬説き、乃ち留侯上に勧めて関中に入り都せしむ、高祖是の日駕して、入りて関中に都す。六月、天下に大赦す。十月、燕王臧荼反し、代の地を攻め下す。高祖自ら将として之を撃ち、燕王臧荼を得たり。即ち太尉盧綰を立てて燕王と為す。丞相噲をして兵を将ゐて代を攻めしむ。其の秋、利幾反す、高祖自ら兵を将ゐて之を撃つ、利幾走る。利幾は、項氏の将なり。項氏敗れ、利幾陳公為り、項羽に随はず、亡げて高祖に降る、高祖之を潁川に侯とす。高祖雒陽に至り、通侯の籍を挙げて之を召す、而して利幾恐る、故に反す。六年、高祖五日に一たび太公に朝す、家人の父子の礼の如くす。太公の家令太公に説きて曰く、「天に二日無く、土に二王無し。今高祖子なりと雖も、人主なり。太公父なりと雖も、人臣なり。柰何ぞ人主をして人臣を拝せしめん。此くの如くならば、則ち威重行はれず。」と。後に高祖朝す、太公篲(ほうき)を擁し、門に迎へて卻行す。高祖大いに驚き、下りて太公を扶く。太公曰く、「帝は、人主なり、柰何ぞ我を以て天下の法を乱さん。」と。是に於て高祖乃ち太公を尊びて太上皇と為す。心に家令の言を善しとし、金五百斤を賜ふ。十二月、人変事を上りて楚王信の謀反を告ぐる有り、上左右に問ふ、左右争ひて之を撃たんと欲す。陳平の計を用ゐ、乃ち偽りて雲夢に遊び、諸侯を陳に会す、楚王信迎ふ、即ち因りて之を執ふ。是の日、天下に大赦す。田肯賀し、因りて高祖に説きて曰く、「陛下韓信を得、又秦中を治む。秦は、形勝の国なり、河山の険を帯び、県隔すること千里、戟を持つもの百万、秦百に二を得たり。地勢便利にして、其の以て兵を諸侯に下すこと、譬へば猶ほ高屋の上に居りて瓴水を建(くつがへ)すがごときなり。夫れ斉は、東に瑯邪・即墨の饒有り、南に泰山の固有り、西に濁河の限有り、北に勃海の利有り。
-
人物志・流業是を主道得られて臣道序すと謂い、官方を易えずして、太平用て成る。
-
説苑・奉使晉楚の君相與に好會を宛丘の上に爲す。宋人をして往かしむ。晉楚の大夫曰く、「趣かに天子の禮を以て吾が君に見えよ、我子の爲に見えん。」使者曰く、「冠弊ると雖も、宜しく其の上に加うべし。履新たなりと雖も、宜しく其の下に居るべし。周室微なりと雖も、諸侯未だ之を易うる能わざるなり。師宋城に升るとも、猶お臣の服を更めざるなり。」揖して之を去る。諸大夫瞿然とし、遂に諸侯の禮を以て之に見ゆ。
-
論語・八佾篇子曰く、『夷狄の君有るは、諸夏の亡きに如かず。』
-
『春秋左氏伝』昭公七年 天に十日、人に十等天に十日有り、人に十等有り。下は上に事ふる所以、上は神に共する所以なり。故に王は公を臣とし、公は大夫を臣とし、大夫は士を臣とし、士は皁を臣とし、皁は輿を臣とし、輿は隸を臣とし、隸は僚を臣とし、僚は僕を臣とし、僕は臺を臣とす。馬に圉有り、牛に牧有り、以て百事を待つ。今有司曰く、『女胡ぞ人を王宮に執ふる』と。將た焉にか之を執へん。周の文王の法に曰く、『亡有れば荒(おほ)いに閱す』と。天下を得し所以なり。吾が先君文王、僕區の法を作りて曰く、『盜の隱す所の器は、盜と罪を同じくす』と。汝に封ずる所以なり。若し有司に從はば、是れ逃臣を執ふる所無きなり。逃げて之を舍かば、是れ陪臺無きなり。王事乃ち闕くること無からんや。昔武王紂の罪を數へて、以て諸侯に告げて曰く、『紂は天下の逋逃の主と為り、淵藪に萃む』と。故に夫(か)の死を致す。君王始めて諸侯を求めて紂に則るは、乃ち不可なること無からんや。若し二文の法を以て之を取らば、盜所在有らん」と。王曰く、「而(なんぢ)の臣を取りて以て往け。盜寵有り、未だ得べからざるなり」と。遂に之を赦す。

人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見る