回天詩史 / 老公への譴責・江戸へ向かう病身と死の覚悟
今未能行義公十分之一。(日十分之一者。公謙遜之辭。而彪直記其言。觀者不以辭害意可也)而群議鼎沸。僧徒獲罪者極口誹謗。甚則以寡人爲懷異志。凡寡人之所爲動涉群疑者如此。而寡人不以經意。自信愈厚。常謂愼形迹避嫌疑。陰講武備戒不虞者。所謂國主及外諸侯之事耳。至於親藩。則固宜公然張皇。以示治不忘亂。效忠於宗室之意於天下。乃鑄銃於郊。閱兵於野。責臣庶以實用實效。毫無有隱諱也。讒人因以間之。抑亦危矣。然大將軍英明絕倫。豈信讒而疑骨肉之親。使破戒不律之僧。甘心於寡人哉。汝等以爲何如。有司惶懼不知所對。公曰。台命至嚴不可依違。其遽辦行裝。有司請以五月二日發軔。公許焉。執政結城寅壽。番頭雜賀孫市。側用人彪等從焉。彪自四月二十八日臥病。至是惡寒頭痛殊甚。衆醫爲難其行。彪心謂斯行死且不辭。區區病痾奚足經意。慨然自奮。告別於萱堂及妻拏。心誓永訣。適姻好武田伯道來餞。揣知彪心事。不忍把杯杓而去。彪慮家人怪之。故呼親戚數人強飲酒。亦不能醉也。遂以二日黎明辭家。蓋行程四日間。粒食僅不過二三碗。其苦可知也。五日巳牌。從公入小石川邸。故事三藩之君參府。即日大將軍使閣老就第賀之。而是日闕焉。邸中失望。皆曰。公必獲嚴譴。彪竊謂事旣發則噬臍無及。不如及其未發。早爲之計。然臣子之處變也。殺身以訴冤。則人或憐其志。而信其言。徒以口舌爭。則愈來猜疑。而受奇禍。嘗聞幕府監察有櫻井莊兵衞者。其人好善有氣槩。洒欲從容就死。遺一書訴公之冤。終之以
新字:今未能行義公十分之一。(日十分之一者。公謙遜之辞。而彪直記其言。観者不以辞害意可也)而群議鼎沸。僧徒獲罪者極口誹謗。甚則以寡人為懐異志。凡寡人之所為動渉群疑者如此。而寡人不以経意。自信愈厚。常謂慎形迹避嫌疑。陰講武備戒不虞者。所謂国主及外諸侯之事耳。至於親藩。則固宜公然張皇。以示治不忘乱。効忠於宗室之意於天下。乃鋳銃於郊。閲兵於野。責臣庶以実用実効。毫無有隠諱也。讒人因以間之。抑亦危矣。然大将軍英明絶倫。豈信讒而疑骨肉之親。使破戒不律之僧。甘心於寡人哉。汝等以為何如。有司惶懼不知所対。公曰。台命至厳不可依違。其遽辦行装。有司請以五月二日発軔。公許焉。執政結城寅寿。番頭雑賀孫市。側用人彪等従焉。彪自四月二十八日臥病。至是悪寒頭痛殊甚。衆医為難其行。彪心謂斯行死且不辞。区区病痾奚足経意。慨然自奮。告別於萱堂及妻拏。心誓永訣。適姻好武田伯道来餞。揣知彪心事。不忍把杯杓而去。彪慮家人怪之。故呼親戚数人強飲酒。亦不能酔也。遂以二日黎明辞家。蓋行程四日間。粒食僅不過二三碗。其苦可知也。五日巳牌。従公入小石川邸。故事三藩之君参府。即日大将軍使閣老就第賀之。而是日闕焉。邸中失望。皆曰。公必獲厳譴。彪窃謂事既発則噬臍無及。不如及其未発。早為之計。然臣子之処変也。殺身以訴冤。則人或憐其志。而信其言。徒以口舌争。則愈来猜疑。而受奇禍。嘗聞幕府監察有桜井荘兵衛者。其人好善有気槩。洒欲従容就死。遺一書訴公之冤。終之以
書き下し
今、未だ義公の十分の一をも行う能わず。(曰く十分の一とは、公の謙遜の辞なり。而れども彪、直ちに其の言を記す。観る者、辞を以て意を害せざれば可なり)而るに群議鼎沸し、僧徒の罪を獲る者は極口誹謗し、甚だしきは則ち寡人を以て異志を懐くと為す。凡そ寡人の為す所、動もすれば群疑に渉ること此の如し。而るに寡人、経意せず、自信愈〻厚し。常に謂う、形迹を慎み嫌疑を避け、陰かに武備を講じ不虞を戒むるは、所謂国主及び外諸侯の事のみ。親藩に至りては、則ち固より宜しく公然と張皇し、以て治まるも乱を忘れず、忠を宗室に効すの意を天下に示すべし。乃ち銃を郊に鋳、兵を野に閲し、臣庶に実用実効を責め、毫も隠諱有ること無し。讒人、因りて之を間つ。抑〻亦危うきかな。然れども大将軍は英明絶倫なり。豈に讒を信じて骨肉の親を疑い、破戒不律の僧をして寡人に甘心せしめんや。汝等以て何如と為すと。有司惶懼して対うる所を知らず。公曰く、台命至って厳なり。依違すべからず。其れ遽かに行装を辦ぜよと。有司、五月二日を以て発軔せんことを請う。公許す。執政結城寅寿、番頭雑賀孫市、側用人彪等、従う。彪は四月二十八日より病に臥し、是に至りて悪寒頭痛殊に甚し。衆医、其の行を難しとす。彪、心に謂う、斯の行、死すとも且つ辞せず。区区たる病痾、奚ぞ経意するに足らんと。慨然として自ら奮い、萱堂及び妻拏に告別し、心に永訣を誓う。適〻姻好の武田伯道来たりて餞す。彪の心事を揣知し、杯杓を把るに忍びずして去る。彪、家人の之を怪しまんことを慮る。故に親戚数人を呼び、強いて酒を飲む。亦醉う能わざるなり。遂に二日の黎明を以て家を辞す。蓋し行程四日間、粒食僅かに二三碗に過ぎず。其の苦、知るべきなり。五日巳の牌、公に従いて小石川邸に入る。故事、三藩の君、参府すれば、即日、大将軍、閣老を使わして第に就きて之を賀せしむ。而るに是の日は闕く。邸中失望し、皆曰く、公は必ず厳譴を獲んと。彪、竊かに謂う、事既に発せば、噬臍及ぶ無し。其の未だ発せざるに及びて、早く之が計を為すに如かずと。然れども臣子の変に処するや、身を殺して以て冤を訴うれば、則ち人或いは其の志を憐れみて其の言を信ず。徒らに口舌を以て争えば、則ち愈〻猜疑を来たして奇禍を受く。嘗て聞く、幕府の監察に桜井荘兵衛なる者有り。其の人、善を好み気概有り。洒ち従容として死に就き、一書を遺して公の冤を訴え、終うるに
現代語訳
「今はまだ義公(光圀)の十分の一も行えていない(「十分の一」というのは公の謙遜の言葉です。しかし彪はそのまま公の言葉を記しました。読む人は言葉にとらわれて真意を損なわないでください)。それなのに議論は沸き立ち、罪を受けた僧侶たちは口をきわめて誹謗し、ひどい場合には私が異心を抱いていると言う。私のやることは、ともすればこのように多くの疑いを招く。それでも私は気に留めず、自信はいよいよ深まった。私はいつも思う。行いを慎み嫌疑を避け、ひそかに武備を講じ不測の事態に備えるのは、いわゆる国主や外様の諸侯のすべきことだ。親藩(徳川の一門)については、もとより公然と大々的に行い、治まっているときにも乱を忘れず、宗家に忠を尽くす意を天下に示すべきだ。そこで銃を郊外で鋳造し、野で兵を検閲し、家臣や領民に実用と実効を求め、少しも隠すところはなかった。讒言する者はこれを利用して(幕府と私の仲を)裂こうとする。まことに危ういことだ。だが大将軍(将軍)は英明並ぶものなき方だ。讒言を信じて血縁の親しみを疑い、戒律を破る僧侶に私を思うままにさせるようなことがあるだろうか。おまえたちはどう思うか」。役人たちは恐れかしこまって答えられません。公は言いました。「上意はきわめて厳しい。ためらってはならない。急いで旅支度をせよ」。役人は五月二日の出発を願い、公は許しました。執政の結城寅寿、番頭の雑賀孫市、側用人の私(彪)らが随行しました。私は四月二十八日から病んで寝込んでおり、このときは悪寒と頭痛が特にひどく、医者たちはみな旅を難しいと言いました。私は心の中で「この旅は、死んでも辞さない。ちっぽけな病など気にするには足りない」と思い、奮い立って母や妻子に別れを告げ、心の中で永遠の別れを誓いました。ちょうど縁戚の武田伯道が送別に来て、私の心中を察し、杯を取るに忍びず去りました。私は家の者が怪しむことを心配し、そこで親戚数人を呼んで無理に酒を飲みました。それでも酔えませんでした。二日の夜明けに家を出ました。道のりは四日間で、食べた米粒はわずか二、三碗ほどでした。その苦しさは察せられるでしょう。五日の巳の刻(午前十時ごろ)に、公に従って小石川の邸に入りました。先例では、三家の当主が参府すると、その日のうちに大将軍が老中を使いに出して邸に祝いを伝えさせます。ところがこの日はそれがありませんでした。邸中の人々は失望し、「公はきっと厳しく咎められる」と言いました。私はひそかに思いました。「事が起きてしまえば、悔やんでも及ばない。まだ起きないうちに、早く手を打つに越したことはない」。しかし臣下が変事に処するとき、身を殺して冤罪を訴えれば、人はその志を憐れんで言葉を信じるかもしれない。口先で争うだけでは、いっそう疑いを招いて思わぬ災いを受ける。以前、幕府の監察に桜井荘兵衛という者がいると聞いた。人柄は善を好み気概がある。そこで落ち着いて死に就き、一通の書を遺して公の冤罪を訴え、その最後を
解説
この章句が説くこと
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