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回天詩史 / 同志と江戸出立・世子誕生の慶びと天保十五年の召喚

則高蹈遠引之計。不圖納言公得立。而又見有世子及公子振振如此之盛矣。(公以辛卯夏娶有栖川親王之妹。是爲登美宮夫人。生鶴千代麻呂君。二郞君。七郞君。山野邊氏生二郞君。八郞君。十郞君。松波氏生三郞君。五郞君。九郞君。某氏生六郞君。立原氏生餘一君。不幸二郞君。三郞君。二郞君。六郞君早夭。而鶴千代麻呂君。及六公子強健。威公之胤。於是乎益廣矣)此彪決死而不死之二也。今玆天保甲辰。彪年三十有九。公在國。四月二十日。幕府閣老連署(土井大炊頭。阿部伊勢守。牧野備前守。其不署眞田信濃守。蓋以其移病也)傳宜參府(凡諸侯到江戶。皆謂之參府。下倣之)之命。所謂奉書者。而本月十八日所發也。先是一二日。閣老阿部勢州。招我元老中山備州。詰以七事。其日頗類疑公或挾異志者。公在寅賓閣。聞之速還城。謂有司曰。寡人以庚子歲就國。例當以翌年參府。而正經界建學校。事頗繁雜。因更乞一年之暇。適文恭公薨。寡人請奔其喪。幕府有旨。遂不果。亡幾幕府大張紀綱。庶政一新。翕然有中興之勢。越一二月。閣老太田備州寄書慫慂寡人參府。寡人心謂使幕府用寡人耶。宜閣老連署傳台命。倘使其忌寡人耶。寡人旣不奔。故將軍之喪。而因備州一人之言。自請參府。則恐招躁進之謗。不如恬退自守以俟命也。遜以實報備州。何

新字:則高蹈遠引之計。不図納言公得立。而又見有世子及公子振振如此之盛矣。(公以辛卯夏娶有栖川親王之妹。是為登美宮夫人。生鶴千代麻呂君。二郎君。七郎君。山野辺氏生二郎君。八郎君。十郎君。松波氏生三郎君。五郎君。九郎君。某氏生六郎君。立原氏生余一君。不幸二郎君。三郎君。二郎君。六郎君早夭。而鶴千代麻呂君。及六公子強健。威公之胤。於是乎益広矣)此彪決死而不死之二也。今玆天保甲辰。彪年三十有九。公在国。四月二十日。幕府閣老連署(土井大炊頭。阿部伊勢守。牧野備前守。其不署真田信濃守。蓋以其移病也)伝宜参府(凡諸侯到江戸。皆謂之参府。下倣之)之命。所謂奉書者。而本月十八日所発也。先是一二日。閣老阿部勢州。招我元老中山備州。詰以七事。其日頗類疑公或挟異志者。公在寅賓閣。聞之速還城。謂有司曰。寡人以庚子歳就国。例当以翌年参府。而正経界建学校。事頗繁雑。因更乞一年之暇。適文恭公薨。寡人請奔其喪。幕府有旨。遂不果。亡幾幕府大張紀綱。庶政一新。翕然有中興之勢。越一二月。閣老太田備州寄書慫慂寡人参府。寡人心謂使幕府用寡人耶。宜閣老連署伝台命。倘使其忌寡人耶。寡人既不奔。故将軍之喪。而因備州一人之言。自請参府。則恐招躁進之謗。不如恬退自守以俟命也。遜以実報備州。何

書き下し

則ち高蹈遠引の計なり。図らざりき、納言公の立つを得て、又世子及び公子の振振として此の如く盛んなるを見んとは。(公、辛卯の夏、有栖川親王の妹を娶る。是れ登美宮夫人たり。鶴千代麻呂君・二郎君・七郎君を生む。山野辺氏は二郎君・八郎君・十郎君を生む。松波氏は三郎君・五郎君・九郎君を生む。某氏は六郎君を生む。立原氏は餘一君を生む。不幸にして二郎君・三郎君・二郎君・六郎君は早夭す。而れども鶴千代麻呂君及び六公子は強健にして、威公の胤、是に於いて益〻広し)此れ彪が死を決して而も死せざるの二なり。今玆、天保甲辰、彪、年三十有九。公、国に在り。四月二十日、幕府の閣老、連署(土井大炊頭・阿部伊勢守・牧野備前守。其の真田信濃守の署せざるは、蓋し其の病に移るを以てなり)して宜しく参府すべきの命を伝う。所謂奉書なる者にして、本月十八日に発する所なり。是れより先、一二日、閣老阿部勢州、我が元老中山備州を招き、詰るに七事を以てす。其の旨、頗る公の或いは異志を挟むを疑うに類す。公、寅賓閣に在りて之を聞き、速やかに城に還りて、有司に謂いて曰く、寡人、庚子の歳を以て国に就く。例として当に翌年を以て参府すべし。而るに経界を正し学校を建つること、事頗る繁雑なり。因りて更に一年の暇を乞う。適〻文恭公薨ず。寡人、奔りて其の喪に請う。幕府に旨有り。遂に果たさず。幾ばくも亡く、幕府大いに紀綱を張り、庶政一新し、翕然として中興の勢い有り。一二月を越えて、閣老太田備州、書を寄せて寡人に参府を慫慂す。寡人、心に謂えらく、幕府をして寡人を用いしめんとするか。宜しく閣老連署して台命を伝うべし。倘し其れをして寡人を忌まんとせば、寡人既に故将軍の喪に奔らず。而るに備州一人の言に因り、自ら参府を請わば、則ち躁進の謗りを招かんことを恐る。如かず、恬退自ら守りて以て命を俟たんにはと。遜りて実を以て備州に報ず。何

現代語訳

それとも世を避けて遠くへ去るという計画かでした。ところが思いがけず、納言公(斉昭)が立つことができ、さらに世子や公子たちがこのように盛んに育つ姿を見ることになりました。(公は辛卯の年の夏、有栖川親王の妹を娶りました。これが登美宮夫人で、鶴千代麻呂君、二郎君、七郎君を産みました。山野辺氏は二郎君、八郎君、十郎君を産みました。松波氏は三郎君、五郎君、九郎君を産みました。ある氏は六郎君を産みました。立原氏は餘一君を産みました。不幸にも二郎君、三郎君、二郎君、六郎君は早くに亡くなりました。しかし鶴千代麻呂君と六人の公子は健やかで、威公(頼房)の血筋はこうして一層広がりました。)これが私が死を決して死ななかった二つ目です。今年、天保十五年(甲辰)、私は三十九歳です。公は国元におられました。四月二十日、幕府の老中が連署して参府(江戸へ出向く)の命を伝えました。いわゆる奉書というもので、今月十八日付です。それより一、二日前、老中の阿部伊勢守が我が元老の中山備前守を招き、七つの事柄を詰問しました。その趣旨は、公が異心を抱いているのではないかと疑うようなものでした。公は寅賓閣におられてこれを聞き、すぐ城に戻って役人たちに言いました。「私は庚子の年(天保十一年)に国元に帰った。慣例ではその翌年に参府するはずだった。しかし領内の境界を正し、学校を建てることなど、事は繁雑だった。そこで一年の猶予を願った。ちょうど文恭公(将軍家斉)が亡くなった。私は急ぎ弔問に出向くことを願ったが、幕府に意向があり、結局果たせなかった。まもなく幕府は大いに綱紀を引き締め、諸政を一新し、人々は一斉に中興の勢いがあると感じた。一、二か月して、老中の太田備前守が手紙を寄越し、参府を勧めた。私は心の中で、幕府が私を用いようとするのであれば、老中が連署して上意を伝えるべきだと思った。もし私を忌もうとするなら、私は先の将軍の喪にも駆けつけなかったのに、備前守一人の言葉によって自ら参府を願い出れば、性急に出世を求めるという非難を招くことを恐れた。静かに身を引いて自重し、命令を待つに越したことはないと考えた。そこで、へりくだって事実のままを備前守に返答した。それが

解説

この段の前半は、世子の誕生を含めた藩主家の慶事を述べ、後半から幕府の召喚の経緯が始まります。注目したいのは、藩主が、非公式な勧めと正式な命令を区別して対応したことです。非公式な誘いに乗って自ら動けば野心を疑われかねないと考え、公式の手続きを待つ判断をしました。管理職にとっても、上位者の私的な示唆と正式な指示は区別する必要があります。口頭の誘いに応じて動く前に、権限と手続きを確認することで、後の誤解や非難を避けられます。

この章句が説くこと

回天詩史藤田東湖徳川斉昭参府命令天保十五年手続き

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