回天詩史 / 刀水・修学・父の死と藩主への召対
聞伯父嬰病危篤。驚而歸鄕。伯父見彪頗慰病苦。先子大喜與侍病蓐。居二三日。伯父捐舍。彪在鄕二旬餘。先子謂文武研精。不可失時。使彪復往而寓吉田翁之舍。居四五日。急足來告先子亦嬰篤疾。時彪在擊劍場。狼狽憂懼。日夜兼行歸家。則先子不可復見矣。數日前受敎於膝下者。忽爲遺訓。悲哀號慟。旻天罔極。旣過五旬。則就仕途。乃私持心制者三年。己丑之冬。哀公疾病。彪與今亞卿山野邊氏等。間行赴小石川邸。居數日而歸。天保庚寅之冬。彪以郡宰。與同僚川瀨會澤吉成三子。應召到江邸。屢賜召對。(初同召四人。後或分召二人。或召一人。每召對。未嘗不移晷也)時公方銳意圖治。唯恐失時。召對之間。自安民固本之說。以至脩文奮武之論。往往及職事之外。而公不少以爲意。四人亦感激盡言。無有所避。將竣事而歸。公手賜親筆(分堯典克明俊德章三十字爲四幅。各見藏於家)勸勉具至。拜恩而退。壬辰之夏。彪轉通事(今之小姓頭取)徙家於江戶。旣而爲政府吏。公將正經界。以制民產。又建學校。以化士風。而兩地政府。依違不決。徒費文移往復。乃使彪就水戶政府達公之盛意。且與館職及郡宰相會協議。於是戊戌己亥。抵
新字:聞伯父嬰病危篤。驚而帰郷。伯父見彪頗慰病苦。先子大喜与侍病蓐。居二三日。伯父捐舎。彪在郷二旬余。先子謂文武研精。不可失時。使彪復往而寓吉田翁之舎。居四五日。急足来告先子亦嬰篤疾。時彪在撃剣場。狼狽憂懼。日夜兼行帰家。則先子不可復見矣。数日前受教於膝下者。忽為遺訓。悲哀号慟。旻天罔極。既過五旬。則就仕途。乃私持心制者三年。己丑之冬。哀公疾病。彪与今亜卿山野辺氏等。間行赴小石川邸。居数日而帰。天保庚寅之冬。彪以郡宰。与同僚川瀨会沢吉成三子。応召到江邸。屡賜召対。(初同召四人。後或分召二人。或召一人。毎召対。未嘗不移晷也)時公方鋭意図治。唯恐失時。召対之間。自安民固本之説。以至脩文奮武之論。往往及職事之外。而公不少以為意。四人亦感激尽言。無有所避。将竣事而帰。公手賜親筆(分堯典克明俊徳章三十字為四幅。各見蔵於家)勧勉具至。拝恩而退。壬辰之夏。彪転通事(今之小姓頭取)徙家於江戸。既而為政府吏。公将正経界。以制民産。又建学校。以化士風。而両地政府。依違不決。徒費文移往復。乃使彪就水戸政府達公之盛意。且与館職及郡宰相会協議。於是戊戌己亥。抵
書き下し
伯父の病に嬰りて危篤なるを聞き、驚きて郷に帰る。伯父、彪を見て頗る病苦を慰む。先子大いに喜び、与に病蓐に侍す。居ること二三日にして、伯父舎を捐つ。彪、郷に在ること二旬餘。先子謂う、文武の研精は時を失うべからずと。彪をして復た往きて吉田翁の舎に寓せしむ。居ること四五日にして、急足来たりて告ぐ、先子も亦篤疾に嬰ると。時に彪、擊剣場に在り。狼狽憂懼し、日夜兼行して家に帰れば、則ち先子復た見るべからず。数日前に教えを膝下に受けし者、忽ち遺訓と為る。悲哀号慟し、旻天罔極なり。既に五旬を過ぎ、則ち仕途に就く。乃ち私かに心制を持すること三年。己丑の冬、哀公疾病す。彪、今の亜卿山野辺氏等と、間行して小石川邸に赴き、居ること数日にして帰る。天保庚寅の冬、彪、郡宰を以て、同僚川瀬・会沢・吉成の三子と、召に応じて江邸に到る。屢〻召対を賜う(初め同じく四人を召し、後に或いは分かちて二人を召し、或いは一人を召す。召対毎に、未だ嘗て晷を移さずんばあらず)。時に公、方に銳意治を図り、唯だ時を失わんことを恐る。召対の間、安民固本の説より、以て脩文奮武の論に至るまで、往往にして職事の外に及ぶ。而れども公、少しも以て意とせず。四人も亦感激して言を尽くし、避くる所無し。事を竣えて帰らんとするに将りて、公、手ずから親筆を賜う(堯典の克明俊徳章三十字を分かちて四幅と為す。各〻家に藏せらる)。勧勉具に至る。恩を拝して退く。壬辰の夏、彪、通事(今の小姓頭取)に転じ、家を江戸に徙す。既にして政府の吏と為る。公、将に経界を正して以て民産を制し、又学校を建てて以て士風を化せんとす。而るに両地の政府、依違して決せず、徒らに文移往復を費やす。乃ち彪をして水戸の政府に就き、公の盛意を達せしめ、且つ館職及び郡宰と相会して協議せしむ。是に於いて戊戌・己亥、
現代語訳
(十月下旬になって)伯父が病で危篤だと聞き、驚いて郷里に帰りました。伯父は私を見て、病の苦しみがかなり和らぎました。父は大いに喜び、いっしょに病床に付き添いました。二、三日して、伯父は亡くなりました。私は郷里に二十日あまり滞在しました。父は「文武の修業は時機を失ってはならない」と言い、私をまた江戸の吉田翁の家に行かせました。四、五日して、急ぎの使いが来て、父も重病になったと告げました。このとき私は撃剣場におり、うろたえて恐れ、昼夜兼行で家に帰りましたが、父にはもう会えませんでした。数日前に膝下で教えを受けたことが、たちまち遺訓になりました。悲しみ叫んで泣き、天を仰いでも極まりがありません。五十日が過ぎて、仕官の道に就きました。ひそかに三年間、心の中で喪に服しました。文政十二年(己丑)の冬、哀公が病みました。私は今の亜卿の山野辺氏らと、人目を避けて小石川の邸に行き、数日いて帰りました。天保元年(庚寅)の冬、私は郡奉行として、同僚の川瀬・会沢・吉成の三人とともに、呼び出しに応じて江戸の邸に行きました。たびたび召し出されて対面を賜りました(はじめは同時に四人が召され、のちには二人を召したり、一人を召したりした。対面のたびに、時を移さなかったことはない)。このとき公は、ひたすら治を図ろうと意気込み、ただ時機を失うことを恐れていました。対面の間、民を安んじ根本を固める説から、文を修め武を奮う議論に至るまで、しばしば職務の範囲を越えました。しかし公は少しも気にしませんでした。四人も感激して言葉を尽くし、遠慮するところはありませんでした。任務を終えて帰る際、公は自ら筆を賜りました(『堯典』の「克く俊徳を明らかにす」の章三十字を四幅に分けたもの。各自の家に蔵している)。励ましの言葉は行き届いていました。恩を拝して退出しました。天保三年(壬辰)の夏、私は通事(今の小姓頭取)に転じ、家を江戸に移しました。まもなく政府の役人になりました。公は領内の境界を正して民の産業を整え、また学校を建てて士風を教化しようとしました。ところが江戸と水戸の両地の政府は、ためらって決められず、むだに文書の往復を費やしました。そこで私を水戸の政府に遣わして公の盛んな意向を伝えさせ、同時に史館の職員や郡奉行とも会って協議させました。そこで天保九年・十年に、
解説
この章句が説くこと
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『回天詩史』・同志と江戸出立・世子誕生の慶びと天保十五年の召喚則ち高蹈遠引の計なり。図らざりき、納言公の立つを得て、又世子及び公子の振振として此の如く盛んなるを見んとは。(公、辛卯の夏、有栖川親王の妹を娶る。是れ登美宮夫人たり。鶴千代麻呂君・二郎君・七郎君を生む。山野辺氏は二郎君・八郎君・十郎君を生む。松波氏は三郎君・五郎君・九郎君を生む。某氏は六郎君を生む。立原氏は餘一君を生む。不幸にして二郎君・三郎君・二郎君・六郎君は早夭す。而れども鶴千代麻呂君及び六公子は強健にして、威公の胤、是に於いて益〻広し)此れ彪が死を決して而も死せざるの二なり。今玆、天保甲辰、彪、年三十有九。公、国に在り。四月二十日、幕府の閣老、連署(土井大炊頭・阿部伊勢守・牧野備前守。其の真田信濃守の署せざるは、蓋し其の病に移るを以てなり)して宜しく参府すべきの命を伝う。所謂奉書なる者にして、本月十八日に発する所なり。是れより先、一二日、閣老阿部勢州、我が元老中山備州を招き、詰るに七事を以てす。其の旨、頗る公の或いは異志を挟むを疑うに類す。公、寅賓閣に在りて之を聞き、速やかに城に還りて、有司に謂いて曰く、寡人、庚子の歳を以て国に就く。例として当に翌年を以て参府すべし。而るに経界を正し学校を建つること、事頗る繁雑なり。因りて更に一年の暇を乞う。適〻文恭公薨ず。寡人、奔りて其の喪に請う。幕府に旨有り。遂に果たさず。幾ばくも亡く、幕府大いに紀綱を張り、庶政一新し、翕然として中興の勢い有り。一二月を越えて、閣老太田備州、書を寄せて寡人に参府を慫慂す。寡人、心に謂えらく、幕府をして寡人を用いしめんとするか。宜しく閣老連署して台命を伝うべし。倘し其れをして寡人を忌まんとせば、寡人既に故将軍の喪に奔らず。而るに備州一人の言に因り、自ら参府を請わば、則ち躁進の謗りを招かんことを恐る。如かず、恬退自ら守りて以て命を俟たんにはと。遜りて実を以て備州に報ず。何
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『回天詩史』・刀水・江戸往来・蝦夷開拓の志と君臣丸の旅水戸に抵ること再びす。皆月を閲して帰る。庚子の春、擢でられて側用人と為る。会〻公国に就く。彪、従う。公、嘗て北虜の猖獗を憂い、蝦夷を開拓するの志有り。屢〻議を幕府に建つ。国に就くに及び、亦閣老と簡牘を往復す。而れども事情通ぜず。乃ち他事に託し、彪を江戸に遣わして以て其の情を通ぜしむ。是に於いて庚子・辛丑、江戸に抵る者再びす。是れに因りて始めて閣老の浜松(水野越州)・松代(真田信州。信州嘗て屢〻小石川邸に到り、公と当世の務めを論ず。彪、二三の同志と特に宴席に侍することを命ぜらる。熟く侯の人と為りを知る。而れども其の閣老に任ぜられて後、執謁するは是れ始めと為す)の二侯に見ゆるを獲たり。又一時の有名の吏、矢部駿州(時に左近将監と称す。町奉行たり)・岡本江州(時に忠次郎と称す。勘定吟味役たり)・羽倉外記等と相識る。或いは一閲月、或いは数閲月にして帰る。癸卯の春、公参府し、将に日光の行有らんとす。適〻彪、馬より墜ちて足を傷つけ、医に下総の扇島に就く。従うを得ず。月餘にして常に復す。会〻公、諸公子(五郎君・七郎君・八郎君・九郎君・十郎君)を藩邸に召し、彪に命じて俱に途に就かしむ。公、既に日光の神廟を拝し、六月国に就く。船を邸門の前に艤し、江戸川に沿いて下り、墨水を過ぎて行徳に抵る。船を捨てて陸に従い、大森に館す。明日蚤に木下に抵る。風水手隊長佐野勘兵衛、所謂君臣丸を艤して待つ。風帆飛ぶが如し。刀水両岸及び十六洲の民、争って小艇を出し、纜を牽かんことを請う。纜短く艇多く、雑沓諠譁して殆ど制すべからず。公、水手に命じて、接ぐに数百丈の縄を以てす。
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『回天詩史』・文献志と讒言・就藩をめぐる巨室の抗議と職務の苦労竊かに恐る、其れ或いは罪を獲んことを。乃ち党を結び密議し、公の就藩を妨げんと欲す。以為らく、去歳、年穀登らず、士人の俸禄を減じ、一国皆聊生せず。而して公国に就かば、則ち士大夫の職事繁劇にして、冗費貲らず、皆怨嗟嘆息し、離心解体す。恐らくは大いに公の盛徳を損なわん。宜しく全て俸禄を賜い、以て人心を慰むべし。若し然る能わずんば、則ち就藩する無きの愈れるに如かずと。因りて所謂小番頭及び物頭の職を激し、各〻劄子を書して之を政府に達せしむ。政府制する能わず、状を以て聞す。公大いに怒り、謂う、姦人比周して君に要す。而るに政府に一人も之を制する無し。其の劄子を取りて以て寡人に聞す。奉職無状なり、と。遂に其の情を按問し、将に巨室某等及び水戸の執政有司の其の事に与る者を罰せんとす。彪、執政に謂いて曰く、公の赫怒する所以、既に命を聞けり。抑〻其の公に聞する者は、江戸の有司に非ずや。今、水戸の有司罪を蒙りて、吾が儕は譴を免るれば、則ち何の面目ありて復た水戸の有司に見えんやと。執政、慰むるに本末軽重の別を以てす。彪、自ら安んずる能わず。乃ち罪を引き、病に移りて懇ろに職を辞せんことを請う。未だ一旬ならずして職を免ぜられ、先手物頭の班(先に是れ彪は槍奉行の班)を以て、史館編修に充てらる。彪、劇職に在ること前後十年。始めて閑地を獲、殆ど物外に超然たるの思い有り。何ぞ図らん、未だ二月に盈たずして、忽ち擢でられて側用人と為り、復た政府に出入りして、献替に従事せんとは。時に彪、閑を得ざるに非ず。而るに忽ち之を失えば、則ち之を要するに、閑を得ざるの三なり。公の就藩するや、宵旰励精し、有司を督責す。二三年ならずして、経界粗〻改まり、学校漸く就り、文教武備頗る端緒に就く。而して公、方に五六年の暇を幕府より獲たり。是に於いて小人、日に佞媚の説を進め、以て公意に迎合す。公、其の制し易きを以て、或いは命ずるに事を以てし、小人力を竭くして賛成し、勢い殆ど勇んで敢えて為す者に類す。故を以て便嬖の少年、或いは遽かに顕官を獲たり。彪、従容として屢〻公に言うに君子小人の辨を以てす。而れども公、省みず。彪、因りて懇ろに職を辞せんことを請う。適〻彪を讒する者有り、謂えらく、彪、今井(名は惟典、金右衛門と称す)の擢でられて参政と為るを以て、心に不平を懐く。又謂えらく、彪の家計窘急、勢い職に居る能わず。乃ち正議に託して閑地を請うと。人或いは以て彪に告ぐ。公も亦手書を賜いて曰く、寡人は汝を信ず。而るに汝は寡人を疑う。汝去らば、則ち寡人も亦将に致仕せんとすと。彪
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『回天詩史』・致仕の命と決死・死に代えて訴える決意と翻意彪が篤疾、絶に臨みて復た一点も自ら求むるの念無きを以てす。荘兵衛に因りて諸を台聴に達せば、則ち庶わくは以て頽瀾を挽回すべしと。意既に決す。然れども屢〻公の駕に従う者は、両君に謁見するの儀有り。事頗る厳密にして、輒く舎に帰るを得ず。参政府(側用人の局にして、本は中奥に在り。近来は参政と局を同じくす)に黙座して以て俟つ。将に一詩を留めて親朋に訣せんとし、君辱めらるれば臣死すべし、死豈に毫も辞すべけんやの二句を獲たり。会〻近臣の命を伝うる有り、遽かに彪を召す。趨りて公所に至れば、則ち元老中山、執政戸田、座に在り。公、反復して談論するに、大率曩日水戸の有司に言いし者の如し。中山等将に退かんとするに、公、容を改めて曰く、寡人不肖にして、士民を撫育する能わず。他事を以て罪を幕府に獲るは、固より辞する所に非ず。但だ異志を懐き禍心を蔵するを以て疑わるれば、則ち啻に寡人の辱のみならず、威公以来相伝うるの意、荒れん。寡人をして不幸にして寿無からしめば、則ち徒らに憾みを呑み恨みを懐きて死せん。苟くも天、餘年を仮さば、則ち必ず冤を洗い辱を雪ぎ、然る後に已まん。汝等其れ寡人の意を体せよと。声色倶に厲し。三人、感憤して仰ぎ視る能わずして退く。彪、参政府に帰り、幡然として謂う、吾過てり、吾過てりと。幕府の公を疑う所以の者、既に深し。其の処分、蓋し既に定まれり。仮令い公に万一不良の跡有らば、則ち彪、寸裂肢体して以て公の難に代わるは、固より其の分なり。今、公の精忠は日月と光を争う。不幸にして讒人の間する所と為る。而るに彪、死を以て之を訴うれば、則ち彼将に謂わんとす、水藩に以て自ら明らかにするに辞無し、乃ち其の臣某、自ら尽くして以て其の罪を贖うと。是れ彪、公の冤を明らかにせんと欲して、反って讒者の言を実証するなり。身を殺して国を害す。不忠不孝、孰れか大ならん。忽ち報有り、閣老、命を伝え、明朝を以て高松(松平讃州君)・守山(松平大学君)・長沼(松平播州君。皆本藩の支封なり。松平大炊君を召さざるは、当時病に移りて出でざるを以てなり)の三侯を召すと。
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『回天詩史』・水戸の家風と文政・烈公の改革と蒙った禍の由来其の剛明果敢の気、宏闊達大の志、抑へて発せざること、蓋し亦た年有り。(公は年十七にして武公を喪ひ、三十にして哀公を喪ふ)一旦、哀公の遺言を以て、入りて其の統を続ぐ。未だ一号令も発せざるに、小人は胆を破り、数月の間に、奸臣・贓吏は廃黜して余す無く、佞幸・便嬖は駆除せられて既に遠し。耆旧・故老の文化に伸びて文政に届く者、往々にして再び挙げられ、忠直方正、文武材能の臣、稍稍選用せらる。一年ならずして奢侈頓(にわ)かに止み、倹素質朴の風、朝野に被ぶ。(是より先、請託相通じ、賄賂盛んに行はる。是に至りて有司、一介をも愛する能はず。国中の士女、競ひて美服を飾る者、一切之を禁ず。大夫と雖も帛を尚(たふと)ぶを得ず。第(ただ)し年七十を踰ゆる者は制限に在らず。凡そ冠婚・転除・慶賀の類、盛宴を張り、賓客を設け、歌舞飲食して数日に渉る者は、親戚の外、相会するを得ず。士人の家、俗箏・三絃の音絶えて無し。其の他、上巳・端午に玩物を用ゐる無く、務めて簡略に従ふの類は、枚挙に暇あらず。今暫く其の一二を記し、後人をして因る所有りて以て考へしむ)公は以為らく、大将軍は春秋既に高く、世故に諳熟す。而して水野(上に見ゆ)・林(肥後守。起こりて所謂御側衆より、新たに諸侯に列し、若年寄に任ず)の徒は威権赫灼たり。則ち天下の事は遽かに挽回し易からざるなり。已む無くんば、則ち一国の俗を変じ、文教を脩め武衛を奮ひ、以て幕府を捍蔽し、中興の嚆矢と為さんと。是に於いて日夜孜孜として此に従事すること、十六年一日なり。而るに群臣の材器徳量、公の盛意に副ふ者は衆からず。以て其の施設の間、緩急□序、寛猛の用を失ふの類無きこと能はずと雖も、其の文を脩め武を奮ひ、忠を天下に尽くすに至りては、則ち三百諸侯、恐らくは未だ公の用心に及ぶ者有らず。此れ臣彪の諛言に非ず。識者苟も其の事業に因りて其の情実を察せば、灼然として知るべし。而るに蒼蠅藩に集まり、萋斐錦を成し、忽然として今日の禍を羅織す。威・義二公、霊有らば、則ち臣彪、其の怒髪上りて瑞龍の巓を衝くを見ん。一たび此に念及ぶごとに、歎息痛恨、自ら已む能はず。因りて徐に公の禍を蒙る所以を繹(たず)ぬるに、幕府の諸臣、公の大志を忌む者、蓋し一朝一夕の故に非ず。
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『回天詩史』・幼年と八田郡宰・幼年の記憶と八田郡宰三十九年七たび処を徙る。初め彪、生まれて三歳、先子新たに浜田の郡宰と為り、民巷の官舎に徙る。明年、武公、国に就く。或いは鷹を臂にし、或いは馬を誇り、屢〻民巷を過ぐ。蓋し当時、彪は小児輩と、路傍に拝観す。又明年、公将に参府せんとす。彪、始めて大広間に謁見す。後二年、先子に従いて梅巷の廬に帰る。今を距つること三十餘年、恍として夢中の如し。公の容貌と雖も、其の詳らかなるを道う能わざるなり。蓋し年六歳、先子授くるに孝経を以てす。句読を堀川潜蔵(名は潜、字は文淵、那珂港の人。見に本村の敬業館主事たり)に受く。彪、能く記し又能く忘る。潜蔵、諄諄として教えて倦まず。宮本翁(名は虎孝、左一郎と称す。彪が撃剣の師)屢〻往来寓居す。竹を削りて刀と為し、彪をして僮僕を撃たしむ。其の不意に出でて以て戯れと為す。木村子虚(名は謙、号は酔古館。天下野村の人。奇節を以て称せらる)、城下に至る毎に、来たりて官舎に投ず。其の人、六十餘、貌厚く気完し。登城すれば則ち必ず井を汲みて水浴して出ず。帰れば則ち先子と杯を把りて談論す。酒酣なれば或いは大声叫呼し、或いは剣を抜いて快を称す。今にして思えば、僅かに此の数事を記すのみ。既に梅巷に帰り、居ること十九年にして、彪、郡宰を以て八田に徙る。八田は水戸城の西六里、那珂・久慈の二水の間に在り。地極めて瘠せ、民も亦貧し。寛政年間、文公、四郡の制を廃し、封内を分かちて十一部と為し、郡庁を各所に置く(曰く浜田、曰く常葉、曰く紅葉、曰く増井、曰く八田、曰く大里、曰く小菅、曰く鷲子、曰く太子、曰く石神、曰く安良川。幾ばくも亡く安良川を廃す。其の中山氏の采地なるを以てなり。既にして又小菅・鷲子・増井を廃して七郡と為す。天保辛卯に至り、四郡の制に復す)。高野子隠(名は世龍、文介と称す)、医員より擢でられ、新たに宰と為り此に在り。

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