回天詩史 / 同志と江戸出立・君主不在の三日と幕府の許可
同志之士。相與號慟。歆耳俟命。五日丙寅。未有一號令鎭人心。乃又與川會杉三子。詣吹上第。見侯曰。事太迫矣。願侯勿猶豫也。侯曰。戶田吉成桑原吉田之輩。亦來責寡人。皆若卿等所言。寡人敢不盡力。卿等勿憂也。四人反覆陳說而退。六日丁卯。始聞元老中山備州詣幕府閣老。請立敬三郞君爲嗣之事。又因立原氏之說。始詳先公有遺書。題曰朶雲片片。首載立敬三郞君之事。且戒厚葬奉美謚。士皆感泣。人心頗安。其在逆旅者。稍稍北歸。同行之士。亦或欲引去。彪不可曰。以先公之遺言。有元老之請。則事旣就緒。乃俟其愈允。不亦善乎。忽有浮說。曰。小斂儀節。未載主喪者。事情難測。人心復騷然。向之北歸者聞之。或途反南上。至八日己巳。始有幕府允立敬三郞君爲嗣之令。敬三郞君。即今納言公也。藩邸之士爭寫其令。到逆旅而相示。悲歎交至。不覺涕泗橫流也。時旣過未牌。皆欲以明日上途。彪又曰。旣不請而出境。又相率震驚都下。其罪不細也。然信宿至今者。以其無君也。今旣有君。不宜暫躊躇。川瀨翁深是彪言。即時相促。與同志之士三十人許(旣北歸者十人許)發春日街。至葛西新宿而投焉。以十日辛未還家。當是時堂堂大藩。無君者三日三夜。疏外小臣不知廟謨。而浮說滿巷。事情不測。其間日夕會議。反覆論難。非殺身成仁之說。
新字:同志之士。相与号慟。歆耳俟命。五日丙寅。未有一号令鎮人心。乃又与川会杉三子。詣吹上第。見侯曰。事太迫矣。願侯勿猶予也。侯曰。戸田吉成桑原吉田之輩。亦来責寡人。皆若卿等所言。寡人敢不尽力。卿等勿憂也。四人反覆陳説而退。六日丁卯。始聞元老中山備州詣幕府閣老。請立敬三郎君為嗣之事。又因立原氏之説。始詳先公有遺書。題曰朶雲片片。首載立敬三郎君之事。且戒厚葬奉美謚。士皆感泣。人心頗安。其在逆旅者。稍稍北帰。同行之士。亦或欲引去。彪不可曰。以先公之遺言。有元老之請。則事既就緒。乃俟其愈允。不亦善乎。忽有浮説。曰。小斂儀節。未載主喪者。事情難測。人心復騷然。向之北帰者聞之。或途反南上。至八日己巳。始有幕府允立敬三郎君為嗣之令。敬三郎君。即今納言公也。藩邸之士争写其令。到逆旅而相示。悲嘆交至。不覚涕泗横流也。時既過未牌。皆欲以明日上途。彪又曰。既不請而出境。又相率震驚都下。其罪不細也。然信宿至今者。以其無君也。今既有君。不宜暫躊躇。川瀨翁深是彪言。即時相促。与同志之士三十人許(既北帰者十人許)発春日街。至葛西新宿而投焉。以十日辛未還家。当是時堂堂大藩。無君者三日三夜。疏外小臣不知廟謨。而浮説満巷。事情不測。其間日夕会議。反覆論難。非殺身成仁之説。
書き下し
同志の士、相与に号慟し、耳を歆てて命を俟つ。五日丙寅、未だ一の号令の人心を鎮むる有らず。乃ち又川・会・杉の三子と、吹上の第に詣り、侯に見えて曰く、事太だ迫れり。願わくは侯、猶予する勿れと。侯曰く、戸田・吉成・桑原・吉田の輩も、亦来たりて寡人を責む。皆卿等の言う所の若し。寡人、敢えて力を尽くさざらんや。卿等憂うる勿れと。四人、反覆陳説して退く。六日丁卯、始めて元老中山備州の幕府の閣老に詣り、敬三郎君を立てて嗣と為さんことを請うの事を聞く。又立原氏の説に因り、始めて先公に遺書有るを詳らかにす。題して朶雲片片と曰う。首に敬三郎君を立つるの事を載す。且つ厚葬を戒め、美謚を奉る。士皆感泣し、人心頗る安んず。其の逆旅に在る者、稍稍北に帰る。同行の士も、亦或いは引き去らんと欲す。彪、不可なりと曰く、先公の遺言を以てし、元老の請有り。則ち事既に緒に就く。乃ち其の愈允を俟つ、亦善からずやと。忽ち浮説有り。曰く、小斂の儀節、主喪者を載せず、事情測り難しと。人心復た騒然たり。向に北に帰る者、之を聞き、或いは途より反って南上す。八日己巳に至り、始めて幕府の敬三郎君を立てて嗣と為すことを允すの令有り。藩邸の士、争って其の令を写し、逆旅に到りて相示す。悲歎交〻至り、覚えず涕泗横流するなり。時に既に未の牌を過ぐ。皆明日を以て途に上らんと欲す。彪又曰く、既に請わずして境を出で、又相率いて都下を震驚せしむ。其の罪細からず。然れども信宿して今に至る者は、其の君無きを以てなり。今既に君有り。宜しく暫くも躊躇すべからずと。川瀬翁、深く彪の言を是とし、即時に相促す。同志の士三十人許り(既に北に帰る者十人許り)と、春日街を発し、葛西の新宿に至りて投ず。十日辛未を以て家に還る。是の時に当たり、堂堂たる大藩、君無きこと三日三夜。疎外の小臣は廟謨を知らず、浮説巷に満ち、事情測られず。其の間、日夕会議し、反覆論難す。身を殺して仁を成すの説に非ざれば、
現代語訳
同志たちはみなで声を上げて嘆き悲しみ、耳をそばだてて(幕府の)命令を待ちました。五日(丙寅)、まだ人心を鎮める一つの号令も出ていません。そこでまた、川瀬・会沢・杉山の三人と吹上の邸に行き、侯に会って言いました。「事はあまりにも切迫しています。どうか侯、ためらわないでください」。侯は言いました。「戸田・吉成・桑原・吉田らも来て私を責めた。みなあなたたちの言うとおりだ。私が力を尽くさないはずがない。あなたたちは心配しないでほしい」。四人は繰り返し説いて退出しました。六日(丁卯)、はじめて元老の中山備前守が幕府の老中に出向き、敬三郎君を跡継ぎに立てるよう請うたことを聞きました。また立原氏の話で、先代の公に遺書があることが詳しく分かりました。題を『朶雲片片』といい、冒頭に敬三郎君を立てることを載せ、さらに葬儀を厚くしないこと、立派な諡(おくり名)を奉ることを戒めてありました。士はみな感泣し、人心はかなり落ち着きました。旅宿にいた者は少しずつ北(水戸)に帰りました。同行の同志の中にも引き揚げようとする者がありました。私は「いけない」と言いました。「先代の遺言があり、元老の請願もある。事はすでに糸口がついた。ならば、その許可の下りるのを待つのが良いではないか」。ところが突然、浮説が出ました。「小斂(納棺前の儀式)の儀式の作法に喪主の記載がなく、事情は計り知れない」というのです。人心はまた騒然としました。先に北へ帰った者はこれを聞いて、途中から引き返して南上した者もいました。八日(己巳)になって、ようやく幕府から敬三郎君を跡継ぎとすることを許す命令が出ました。藩邸の士は争ってその命令を書き写し、旅宿に来て互いに見せ合いました。悲しみと嘆きが交じり合い、思わず涙があふれ流れました。すでに未の刻(午後二時)を過ぎていました。みな翌日出発しようとしました。私はまた言いました。「許しを得ずに国境を出て、さらにみなで連れ立って江戸の街を騒がせた。その罪は軽くない。それでも二晩泊まって今日に至ったのは、君主がいなかったからだ。今は君主がおられる。少しでもぐずぐずしてはならない」。川瀬翁は深く私の言葉に賛成し、すぐに皆を促しました。同志の士三十人ほど(すでに北へ帰った者が十人ほど)で春日町を出発し、葛西の新宿に泊まりました。十日(辛未)に家に帰りました。このとき、堂々たる大藩に君主がいない状態が三日三晩続きました。疎外された小臣は朝廷の謀議を知らず、浮説が町に満ち、事情は測れませんでした。その間、日夜会議し、繰り返し議論しましたが、それは身を捨てて仁を成すという説か、
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
『回天詩史』・致仕の命と決死・幕府の使者と致仕の宣告政府、之が為に愕然とし、僉議夜分に至る。遂に其の故を詳らかにする能わざるなり。六日の詰旦、閣老、命を中山備州に伝えて曰く、今日、幕使、邸に就きて旨を両君に伝えんと。是に於いて挙邸、皆公の致仕と世子の襲封とを卜するも、未だ何人の来たりて旨を伝うるかを詳らかにせず。巳の牌を過ぎ、閣老又命を備州に伝えて曰く、水戸殿に使いする者は、則ち松平讃岐守・松平大学頭・松平播磨守。鶴千代麻呂殿に使いする者は、則ち阿部伊勢守・牧野備前守と。且つ曰く、公は讃州等に見ゆるを須いず。又送迎を煩わす勿れ。家老中山備州、興津能州等、命を受け、諸を公に告げ、公の言を以て讃州等に伝えて可なりと。午の牌、三侯俱に来たる。元老・執政、之を対面所に延き、命を受く。則ち曰く、公は近年政事粛ならず、且つ驕慢自ら用い、嫌疑を憚らず。大将軍懌ばず。公、其れ致仕して駒籠邸に移り、堅く門戸を閉じて謹まざる有る勿れ。若し其れ襲封せば、則ち世子に命ずと云う。俄頃にして勢州・備州も亦俱に来たる。世子、送迎すること礼の如し。備州の班は勢州の下に在り。是の日、其の直月を以て勢州に先んじて坐す。旨を世子に伝う。其の辞命は公に命ずる所と大同小異なり。二人、使事を畢えて去る。時に世子、年僅かに十三。坐作進退、綽然として観るべし。群臣、悲喜交〻至り、一邸粛然たり。既にして公、彪を燕室に召して曰く、寡人既に命を受けたり。有司用事の者、譴責を得ざるや。彪対えて曰く、有司も亦譴を蒙ること必せり。他人は則ち知らず。彪は叨りに虚名を竊み、決して免れざるを知る。仮使い幕府の網、舟を呑むを泄らすとも、彪、何の面目ありて復た碌碌として世に立たんやと。公曰く、然らば則ち汝将に奈何せんとするや。彪曰く、誠に脱然として致仕するを獲、以て老公に寂寞の浜に従わば、則ち志願足れりと。公曰く、寡人も亦汝の心事を了せり。寡人、将に今夕を以て汝に致仕を命ぜんとす。汝其れ待て。
-
『回天詩史』・致仕の命と決死・死に代えて訴える決意と翻意彪が篤疾、絶に臨みて復た一点も自ら求むるの念無きを以てす。荘兵衛に因りて諸を台聴に達せば、則ち庶わくは以て頽瀾を挽回すべしと。意既に決す。然れども屢〻公の駕に従う者は、両君に謁見するの儀有り。事頗る厳密にして、輒く舎に帰るを得ず。参政府(側用人の局にして、本は中奥に在り。近来は参政と局を同じくす)に黙座して以て俟つ。将に一詩を留めて親朋に訣せんとし、君辱めらるれば臣死すべし、死豈に毫も辞すべけんやの二句を獲たり。会〻近臣の命を伝うる有り、遽かに彪を召す。趨りて公所に至れば、則ち元老中山、執政戸田、座に在り。公、反復して談論するに、大率曩日水戸の有司に言いし者の如し。中山等将に退かんとするに、公、容を改めて曰く、寡人不肖にして、士民を撫育する能わず。他事を以て罪を幕府に獲るは、固より辞する所に非ず。但だ異志を懐き禍心を蔵するを以て疑わるれば、則ち啻に寡人の辱のみならず、威公以来相伝うるの意、荒れん。寡人をして不幸にして寿無からしめば、則ち徒らに憾みを呑み恨みを懐きて死せん。苟くも天、餘年を仮さば、則ち必ず冤を洗い辱を雪ぎ、然る後に已まん。汝等其れ寡人の意を体せよと。声色倶に厲し。三人、感憤して仰ぎ視る能わずして退く。彪、参政府に帰り、幡然として謂う、吾過てり、吾過てりと。幕府の公を疑う所以の者、既に深し。其の処分、蓋し既に定まれり。仮令い公に万一不良の跡有らば、則ち彪、寸裂肢体して以て公の難に代わるは、固より其の分なり。今、公の精忠は日月と光を争う。不幸にして讒人の間する所と為る。而るに彪、死を以て之を訴うれば、則ち彼将に謂わんとす、水藩に以て自ら明らかにするに辞無し、乃ち其の臣某、自ら尽くして以て其の罪を贖うと。是れ彪、公の冤を明らかにせんと欲して、反って讒者の言を実証するなり。身を殺して国を害す。不忠不孝、孰れか大ならん。忽ち報有り、閣老、命を伝え、明朝を以て高松(松平讃州君)・守山(松平大学君)・長沼(松平播州君。皆本藩の支封なり。松平大炊君を召さざるは、当時病に移りて出でざるを以てなり)の三侯を召すと。
-
『回天詩史』・世子擁立と出府・無断の出府と守山侯への訴え士元は則ち山野辺氏の宅に在り。亦時に彪が廬に往来し、南上の策を議す。蓋し乞わずして境を出づる者は、国に刑典有り。是を以て其の議、紛紜として決せず。川瀬翁、決断に長じ、慨然として曰く、吾が輩をして幸いに死せずして境を出づるの罪を蒙らしめば、則ち社稷の福、孰れか大ならん。議、遂に決す。時に山野辺氏の父義質(主水正と称す。良公の庶子左膳君の子にして、出でて山野辺氏を嗣ぐ)、方に亜卿を以て国政を執る。告ぐるに実を以てせば則ち発するを獲ざるなり。乃ち陽には公の病を静神社に禱ると為し、夜に乗じて馬に跨がりて出ず。途に梅巷を過ぐ。川瀬・会沢・杉山・吉成及び彪、裳を褰げて俱に出ず。時に既に五更。長岡駅に至れば、則ち吉成後れたり。蓋し帰りて監察戸田忠敞(銀次郎と称す)を激するなり。戸田は固より沈深にして義気有り。袂を振るって俱に途に上ると云う。彪等と山野辺氏とは、三日甲子の夕を以て江戸に抵る。皆謂えらく、執政有司は既に与に責むるに足らず。倚頼すべき所は、唯だ守山侯有るのみと。是の夜、山野辺氏は小石川邸に詣り、公の病状を候う。彪等四人は則ち吹上の第に至り、守山侯に謁せんことを請う。侯は蓋し之を難しとす。其の臣遅塚九二八、周旋尤も力む。侯、遂に四人を燕室に延きて之を見る。四人、具さに飛語紛紜、事情測られざるの状を陳べ、因りて敬三郎君を立てて世子と為さんことを請う。侯、謙遜持重にして、果断の言を為すを肯んぜず。徐ろに曰く、本宗の大事、寡人敢えて力を竭くさざらんや。然れども若し其の成否は則ち寡人の豫め言うべき所に非ざるなりと。辞意慇懃、慰諭具に至る。四人、感激して退く。然れども猶お竊かに其の自ら任ずるの或いは厚からざるを憾む。夜、既に三更を過ぐ。乃ち剣客斎藤弥九郎を飯田街に投ず。弥九郎は彪及び士元と旧有り。且つ驚き且つ喜び、延きて挙剣場に入れ、供するに塩豉の粥を以てす。四人、腹を鼓して寝に就く。四日乙丑、黎明、俱に小石川邸に入る。監察今村某の門を叩き、請わずして南上せし所以の状を達す。仲徳の舎に会す。初め岡井翁(名は謨、富五郎と称す。経筵に侍講す)なる者有り、哀公に儲嗣無きを憂え、屢〻公に諷して敬三郎君を立てて世子と為さんことを請う。公、諾す。而れども其の異母弟なるを以て、其の生む所の相軋りて隙を生ぜんことを慮り、未だ決せず。
-
『回天詩史』・致仕の命と決死・蟄居の命と決死の三度目彪、拝謝して退く。是の日、公、親書を裁して中山備州に授く。彪が致仕の事有りと云う。適〻閣老土井氏、執政肥田大助を招き、中山氏以下の有司を罰するの状を授く。彪、之を聞き、復た政府に入らず。日既に暮る。公、駕を命じて駒籠に徙る。彪、同班の諸子と、諸を中奥の廊下に送る。公、烏帽を戴き、黒衣を著、風姿蕭然たり。諸臣、涕を流さざるは莫し。是の夜四更、執政肥田、命を伝う。中山・興津の二氏は責めを蒙り(所謂差扣)、戸田と彪は職を奪われ禁錮せらる(所謂蟄居)。五更、舎に帰り、僮に戒めて門戸を鎖さしむ。後数日、郷書を獲て、始めて亜卿山野辺氏の中山・興津と同科なるを詳らかにす。執政鵜殿(名は広生、平七と称す)は職を奪われ譴を蒙り(所謂逼塞)、而して寺社奉行今井は則ち戸田及び彪と同科なり。嗚呼、彪は公の殊遇を浴び、他人の比に非ず。而るに禍を未萌に察する能わず、位に尸して素餐し、以て我が公今日の辱を致す。死すとも罪有餘り。而るに幕府は寛仁にして、彪をして生路を獲、悔悟する所有らしむ。抑〻亦幸いなり。此れ彪が死を決して而も死せざるの三なり。古人言う有り、死生亦大なりと。彪、平世に生まれ、齢未だ強仕に盈たず。而るに三たび死生の間に処る。豈に天、彪の生の世に益無きを厭い、潔くして之を冥漠の郷に投ぜんと欲するか。抑〻人、彪の冥頑不屈を悪み、必ず之を死地に擠して然る後に已まんとするか。抑〻亦彪の愚暗剛褊、常に危機を蹈み陥穽に臨みて自ら悟らざるか。是に至りて彪、復た人間の事に意無し。苟くも餘齢を保ち、戸を閉じて幽居するを獲ば、尚お古人を友とし、時に或いは著作して憤りを泄らし、首領を全うして以て先子に九原に従わば、則ち死すとも朽ちざるなり。感慨の餘、筆を援きて之を録す。覚えず叙事冗長なれども、亦刪るに忍びざる者は、蓋し臣子の至情なり。時に五月十六日。梅雨濛濛として、黯雲慘澹たり。杜鵑、其の間に悲鳴す。筆を投じて悵然たること、良や久し。
-
『回天詩史』・刀水・修学・父の死と藩主への召対伯父の病に嬰りて危篤なるを聞き、驚きて郷に帰る。伯父、彪を見て頗る病苦を慰む。先子大いに喜び、与に病蓐に侍す。居ること二三日にして、伯父舎を捐つ。彪、郷に在ること二旬餘。先子謂う、文武の研精は時を失うべからずと。彪をして復た往きて吉田翁の舎に寓せしむ。居ること四五日にして、急足来たりて告ぐ、先子も亦篤疾に嬰ると。時に彪、擊剣場に在り。狼狽憂懼し、日夜兼行して家に帰れば、則ち先子復た見るべからず。数日前に教えを膝下に受けし者、忽ち遺訓と為る。悲哀号慟し、旻天罔極なり。既に五旬を過ぎ、則ち仕途に就く。乃ち私かに心制を持すること三年。己丑の冬、哀公疾病す。彪、今の亜卿山野辺氏等と、間行して小石川邸に赴き、居ること数日にして帰る。天保庚寅の冬、彪、郡宰を以て、同僚川瀬・会沢・吉成の三子と、召に応じて江邸に到る。屢〻召対を賜う(初め同じく四人を召し、後に或いは分かちて二人を召し、或いは一人を召す。召対毎に、未だ嘗て晷を移さずんばあらず)。時に公、方に銳意治を図り、唯だ時を失わんことを恐る。召対の間、安民固本の説より、以て脩文奮武の論に至るまで、往往にして職事の外に及ぶ。而れども公、少しも以て意とせず。四人も亦感激して言を尽くし、避くる所無し。事を竣えて帰らんとするに将りて、公、手ずから親筆を賜う(堯典の克明俊徳章三十字を分かちて四幅と為す。各〻家に藏せらる)。勧勉具に至る。恩を拝して退く。壬辰の夏、彪、通事(今の小姓頭取)に転じ、家を江戸に徙す。既にして政府の吏と為る。公、将に経界を正して以て民産を制し、又学校を建てて以て士風を化せんとす。而るに両地の政府、依違して決せず、徒らに文移往復を費やす。乃ち彪をして水戸の政府に就き、公の盛意を達せしめ、且つ館職及び郡宰と相会して協議せしむ。是に於いて戊戌・己亥、
-
『回天詩史』・世子擁立と出府・急を知らせる手紙と同志の集結邸中の用事者、日夜閣老(所謂老中。下も之に倣う)の沼津侯(水野出羽守)の第に出入す。事情測られず。倘し山野辺氏(名は義観、兵庫と称す。当時、門子を以て別に俸禄を賜い、国老の班に列す。政事に預からずと雖も、賢を愛し士に下り、文武を研究し、屹として一国の望と為る)をして江邸に在らしめば、則ち以て有司の姦謀を破るに足らん。辞、甚だ激切なり。而して彪及び杉山士元(名は思亮、千太郎と称す。身長六尺、豪爽にして大志有り。初め古賀弥助に従いて学び、後に先子の門に遊ぶ)に寄するの書なり。彪謂えらく、此れ国家の大事、志士の命を授けて国に報ずるの秋なりと。直ちに山野辺氏に詣り、竊かに仲徳の書を示し、且つ謂いて曰く、事急なり。夫子壺、士元と謀れ。士元は大夫の信ずる所、大夫、領せよと。彪、家に帰りて先子を寝に祭る(毎月朔望、蚤に登城すれば、則ち退公の後、寝に祭る。是の日も亦然り)。且つ告ぐるに実を以てす。筮して南上して急に赴くを問うに吉ならず。彪、策を投じて曰く、吉を見て行き、不吉を見て止むるは、尋常の人事のみ。大事に至りては、則ち固より吉凶を以て其の節を変うべからず。今既に死を決す。則ち不吉既に兆す。又復た何ぞ筮せんと。乃ち神主に謝し、急に書を裁して二三の同志を梅巷の宅に会す。川瀬(名は教徳、七郎衛門と称す。其の人、書を読まずと雖も、剛毅にして胆略有り。先子と交り最も深し。嘗て剛腸を以て罪を獲、禁錮せらるる者七年。当時、赦に遇いて出で、小普請組と為る)・会沢(名は安、字は伯民、恒蔵と称す。人と為り篤実純孝にして大志有り。先子の門に於いて高弟たり。著す所に新論及び迪彝篇等の諸書有り)・吉成(名は信貞、字は履善、又右衛門と称す。人と為り忠愨にして、尤も名節を重んず。幹事の才有り。初め大竹子虚に従いて学び、後に先子の門に遊ぶ)・飛田(名は勝、字は子健、勝太郎と称す。文章才学を以て称せらる。嘗て太田才佐に従いて遊び、後に先子の門に出入す)・鈴木(名は宜尊、字は子賢、荘蔵と称す。幼にして先子に従いて学ぶ。人と為り温醇にして気概有り。子賢・子健・士元は、当時皆史館編修たり。伯民は方に出でて教授と為る)の諸子、往往にして来たり集まる。

人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見る