回天詩史 / 同志と江戸出立・人物評でたどる同志の顔ぶれ
增子(名淑茂。字子柏。稱幸八郞。爲人寬厚易簡。有不可奪之節)大嶺(名廣貞。稱大八。以膽略稱於世)仗義不惑則白石(名重隆。稱又右衞門。所謂如先生之長子)小原(名俊彦。稱忠次郞)山中(名幸當。稱市郞衞門)坂場(名時敏。稱彦助)安島(名信順。稱彦之允)明毅幹事則石河(名幹忠。字公恕。稱德五郞)金子(名敎孝。稱孫次郞。川瀨翁之次子。出冒金子氏)文雅有才則村田(名正定。字子經。稱彌一郞。翠軒先生門人)秋山(名盛恭。字子謙。稱彌九郞。初從高橋子大而學。後遊於先子之門。氣力絶人。人或忌之。唯吉成桑原及彪。相交尤深)守節不變則太田(名政德。稱彦五郞。後更甚太夫)池原(名正重。稱八作)岡野(名貞行。稱軍藏)見義敢爲則馬場(名盛。稱祜介)小戶田(名忠誨。稱彌次郞。忠敞之弟。今冒安島氏。〇冠以小字者以別於其父兄。下倣之)岡本(名秀俊。稱平九郞)菊池(名德馨。稱秀介)狷介有守則後藤(名則敬。稱安兵衞)小瀨(名則行。稱軍藏)小川瀨(名敎忠。稱隼太。川瀨翁之長子)小吉成(名亭。稱十次郞。信貞之弟)陪臣而有義則小田野(名篤。稱權之介。松平氏家臣)小官而有志則中村(名雅言。稱三郞。後更三五衞門)蓋皆一時之選。其留在水戶。抑而不發。隱然致禦侮之力者。亦不尠云。是夜哀公薨。
新字:增子(名淑茂。字子柏。称幸八郎。為人寛厚易簡。有不可奪之節)大嶺(名広貞。称大八。以胆略称於世)仗義不惑則白石(名重隆。称又右衛門。所謂如先生之長子)小原(名俊彦。称忠次郎)山中(名幸当。称市郎衛門)坂場(名時敏。称彦助)安島(名信順。称彦之允)明毅幹事則石河(名幹忠。字公恕。称徳五郎)金子(名教孝。称孫次郎。川瀨翁之次子。出冒金子氏)文雅有才則村田(名正定。字子経。称弥一郎。翠軒先生門人)秋山(名盛恭。字子謙。称弥九郎。初従高橋子大而学。後遊於先子之門。気力絶人。人或忌之。唯吉成桑原及彪。相交尤深)守節不変則太田(名政徳。称彦五郎。後更甚太夫)池原(名正重。称八作)岡野(名貞行。称軍蔵)見義敢為則馬場(名盛。称祜介)小戸田(名忠誨。称弥次郎。忠敞之弟。今冒安島氏。〇冠以小字者以別於其父兄。下倣之)岡本(名秀俊。称平九郎)菊池(名徳馨。称秀介)狷介有守則後藤(名則敬。称安兵衛)小瀨(名則行。称軍蔵)小川瀨(名教忠。称隼太。川瀨翁之長子)小吉成(名亭。称十次郎。信貞之弟)陪臣而有義則小田野(名篤。称権之介。松平氏家臣)小官而有志則中村(名雅言。称三郎。後更三五衛門)蓋皆一時之選。其留在水戸。抑而不発。隠然致禦侮之力者。亦不尠云。是夜哀公薨。
書き下し
増子(名は淑茂、字は子柏、幸八郎と称す。人と為り寛厚簡易にして、奪うべからざるの節有り)・大嶺(名は広貞、大八と称す。胆略を以て世に称せらる)は、義に仗りて惑わず。則ち白石(名は重隆、又右衛門と称す。所謂如先生の長子)・小原(名は俊彦、忠次郎と称す)・山中(名は幸当、市郎衛門と称す)・坂場(名は時敏、彦助と称す)・安島(名は信順、彦之允と称す)は、明毅にして事を幹む。則ち石河(名は幹忠、字は公恕、徳五郎と称す)・金子(名は教孝、孫次郎と称す。川瀬翁の次子にして、出でて金子氏を冒す)は、文雅にして才有り。則ち村田(名は正定、字は子経、弥一郎と称す。翠軒先生の門人)・秋山(名は盛恭、字は子謙、弥九郎と称す。初め高橋子大に従いて学び、後に先子の門に遊ぶ。気力人に絶す。人或いは之を忌む。唯だ吉成・桑原及び彪のみ、相交ること尤も深し)は、節を守りて変ぜず。則ち太田(名は政徳、彦五郎と称し、後に甚太夫と更む)・池原(名は正重、八作と称す)・岡野(名は貞行、軍蔵と称す)は、義を見て敢えて為す。則ち馬場(名は盛、祜介と称す)・小戸田(名は忠誨、弥次郎と称す。忠敞の弟。今安島氏を冒す。〇冠するに小の字を以てするは、其の父兄に別たんが為なり。下も之に倣う)・岡本(名は秀俊、平九郎と称す)・菊池(名は徳馨、秀介と称す)は、狷介にして守る有り。則ち後藤(名は則敬、安兵衛と称す)・小瀬(名は則行、軍蔵と称す)・小川瀬(名は教忠、隼太と称す。川瀬翁の長子)・小吉成(名は亭、十次郎と称す。信貞の弟)は、陪臣にして義有り。則ち小田野(名は篤、権之介と称す。松平氏の家臣)は、小官にして志有り。則ち中村(名は雅言、三郎と称し、後に三五衛門と更む)、蓋し皆一時の選なり。其の水戸に留在し、抑えて発せず、隠然として侮りを禦ぐの力を致す者も、亦尠からずと云う。是の夜、哀公薨ず。
現代語訳
増子(名は淑茂、字は子柏、幸八郎と称する。人柄は寛大で飾り気がなく、奪うことのできない節操があった)、大嶺(名は広貞、大八と称する。胆力と知略で世に知られた)は、義に拠って迷わない人々でした。白石(名は重隆、又右衛門と称する。いわゆる如先生の長子)、小原(名は俊彦、忠次郎と称する)、山中(名は幸当、市郎衛門と称する)、坂場(名は時敏、彦助と称する)、安島(名は信順、彦之允と称する)は、聡明で決断力があり、事務を取りしきる人々でした。石河(名は幹忠、字は公恕、徳五郎と称する)、金子(名は教孝、孫次郎と称する。川瀬翁の次子で、他家から出て金子氏を名乗った)は、文雅で才能のある人々でした。村田(名は正定、字は子経、弥一郎と称する。翠軒先生の門人)、秋山(名は盛恭、字は子謙、弥九郎と称する。はじめ高橋子大に学び、のち父の門に遊んだ。気力は人並み外れ、人によっては彼を忌んだ。ただ吉成、桑原、そして私だけが特に親しく交わった)は、節操を守って変わらない人々でした。太田(名は政徳、彦五郎と称し、のち甚太夫と改めた)、池原(名は正重、八作と称する)、岡野(名は貞行、軍蔵と称する)は、義を見て進んで行う人々でした。馬場(名は盛、祜介と称する)、小戸田(名は忠誨、弥次郎と称する。忠敞の弟で、今は安島氏を名乗る。〇「小」の字を冠するのは、その父兄と区別するためである。以下同じ)、岡本(名は秀俊、平九郎と称する)、菊池(名は徳馨、秀介と称する)は、頑固で一本気ながら守るものがある人々でした。後藤(名は則敬、安兵衛と称する)、小瀬(名は則行、軍蔵と称する)、小川瀬(名は教忠、隼太と称する。川瀬翁の長子)、小吉成(名は亭、十次郎と称する。信貞の弟)は、陪臣(家臣の家臣)でありながら義のある人々でした。小田野(名は篤、権之介と称する。松平氏の家臣)は、小身の役人でありながら志のある人でした。中村(名は雅言、三郎と称し、のち三五衛門と改めた)もいます。おそらくみな当時の選りすぐりの人々でした。水戸に留まり、はやる心を抑えて動かず、目立たないが外からの侮りを防ぐ力になった者も少なくなかったということです。この夜、哀公が亡くなりました。
解説
この章句が説くこと
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説苑・政理子產、鄭に相たり。簡公、子產に謂いて曰く、「內政は出す毋かれ、外政は入る毋かれ。夫れ衣裘の美ならざる、車馬の飾らざる、子女の潔からざるは、寡人の醜なり。國家の治まらざる、封疆の正しからざるは、夫子の醜なり。」子產、鄭に相たり、簡公の身を終うるまで、內には國中の亂無く、外には諸侯の患無し。子產の政に從うや、能を擇びて之を使う。馮簡子は事を斷ずるに善く、子太叔は決するに善くして文あり、公孫揮は四國の為す所を知りて其の大夫の族姓を辨じ、變じて立ちどころに至り、又善く辭令を為す。裨諶は謀るに善く、野に於ては獲るも邑に於ては否らず。事有れば乃ち裨諶を載せて之と野に適き、謀りて可否を使め、告げて馮簡子をして之を斷ぜしめ、公孫揮をして之が辭令を為さしめ、成りて乃ち子太叔受けて之を行わしめ、以て賓客に應對す。是を以て鮮に敗事有り。
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説苑・修文天子諸侯事無ければ則ち歲に三たび田す、一を乾豆と為し、二を賓客と為し、三を君の庖に充つと為す。事無くして田せざるを、不敬と曰い、田するに禮を以てせざるを、天物を暴うと曰う。天子は合圍せず、諸侯は群を揜わず。天子殺せば則ち大緌を下し、諸侯殺せば則ち小緌を下し、大夫殺せば則ち佐轝を止め、佐轝止まれば則ち百姓畋獵す。獺魚を祭りて、然る後漁人澤梁に入る。鳩化して鴈と為りて、然る後罻羅を設く。草木零落して、然る後山林に入る。昆蟲蟄せざれば火田せず、麛せず卵せず、殀夭せず、巢を覆さず。此れ皆聖人上に在り、君子位に在り、能者職に在るは、大德の發する所なり。是の故に皋陶大理と為るや、民各おの服して其の實を得。伯夷禮を主どり、上下皆讓る。倕工師と為り、百工功を致す。益虞を主どり、山澤辟き成る。棄稷を主どり、百穀時に茂る。契司徒を主どり、百姓親和す。龍賓客を主どり、遠人至る。十二牧行われて、九州敢えて僻違せず。禹九澤を陂き、九道を通じ、九州を定め、各おの其の職を以て來貢し、厥の宜しきを失わず、方五十里より荒服に至る。南は交趾・大發を撫し、西は析支渠・搜氐羌に、北は山戎・肅慎に至り、東は長夷・島夷に至り、四海の內皆帝舜の功を戴く。是に於て禹乃ち九韶の樂を興し、異物を致し、鳳凰來翔し、天下德を明らかにするなり。
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『長短経』量才〔清節の徳は師氏の任なり。法家の材は司寇の任なり。術家の材は三孤の任なり。臧否の材は師氏の任なり。伎倆の材は司空の任なり。儒学の材は保氏の任なり。文章の材は国史の任なり。驍雄の材は将帥の任なり。〕
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説苑・雜言仲尼曰く、「其の地に非ずして之を樹うれば、生ぜざるなり。其の人に非ずして之に語れば、聴かざるなり。其の人を得れば、沙を聚めて之に雨降らすが如く、其の人に非ざれば、聾を聚めて之に鼓するが如し」と。
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『政談』官位爵祿の次第並に勳階頭助允目の事惣して役儀は其人の得手不得手ある事なり、不得手なる役に申付たるときは役儀の捌き宜しからさるなり、さるに依て之を替んとすれは席を上くるか下くるかせねは役替られぬなり、上かりの役に申付たるは立身になる、下かりの役に申付たるは、その人のいつくするもとより褒美歟、又は懲しめのためならは、あけてもよけんとも、只其人の得手なるむきに、換ゆるまてのことにて、別に褒美にても、懲しめにてもなきに、席を上け下けすること、詮もなきこと、又害も有なり、然れは同席の役をいくつも拵へ置く時は此の差支なきなり、されとも当時は席に名無く、唯〻此役の席と云ふことなる故、役と席とを別々にすへきやうなし、其上席に名を付け置さる故、混乱して、紛はしかるへし、
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『晏子春秋』問上・景公問古之蒞國者任人如何晏子對以人不同能景公、晏子に問いて曰く、「古の国に蒞み民を治むる者は、其の人に任ずること何如」と。晏子対えて曰く、「地は生を同じくせざるに、之に任ずるに一種を以てし、其の倶に生ぜんことを責むるも得可からず。人は能を同じくせざるに、之に任ずるに一事を以てし、遍く成さんことを責む可からず。責めて已む無く、智者も給する能わざる有り。求めて饜く無く、天地も贍す能わざる有り。故に明王の人に任ずるや、諂諛は左右に邇づかず、阿党は本朝に治せず。人の長に任じて、其の短を強いず。人の工に任じて、其の拙を強いず。此れ人に任ずるの大略なり」と。

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