回天詩史 / 世子擁立と出府・急を知らせる手紙と同志の集結
邸中用事者。日夜出入於閣老(所謂老中。下倣之)之沼津侯(水野出羽守)之第。事情不測。倘使山野邊氏(名義觀。稱兵庫。當時以門子別賜俸祿。列國老之班。雖不預政事。而愛賢下士。研究文武。屹爲一國之望)在江邸。則足以破有司之姦謀。辭甚激切。而寄彪及杉山士元(名思亮。稱千太郞。身長六尺豪爽有大志。初從古賀彌助而學。後遊於先子之門)之書也。彪謂此國家大事。志士授命報國之秋。直詣山野邊氏。竊示仲德書。且謂曰事急矣。夫子壺與士元謀。士元大夫所信。大夫領焉。彪歸家祭先子於寢。(每月朔望。蚤登城則退公之後。祭於寢。是日亦然)且告以實。筮南上赴急不吉。彪投策曰。見吉而行。見不吉而止者。尋常人事耳。至於大事。則固不可以吉凶變其節。今旣決死。則不吉旣兆。又復何筮。乃謝神主。急裁書會二三同志於梅巷之宅。川瀨(名敎德。稱七郞衞門。其人雖不讀書。而剛毅有膽略。與先子交最深。嘗以剛腸獲罪。禁錮者七年。當時遇赦而出。爲小普請組)會澤(名安。字伯民。稱恒藏。爲人篤實純孝。而有大志。於先子之門爲高弟。所著有新論及迪彝篇等諸書)吉成(名信貞。字履善。稱又右衞門。爲人忠愨。尤重名節。有幹事之才。初從大竹子虛而學。後遊於先子之門)飛田(名勝。字子健。稱勝太郞。以文章才學稱。嘗從太田才佐而遊。後出入於先子之門)鈴木(名宜尊。字子賢。稱莊藏。幼從先子而學。爲人溫醇。而有氣槩。子賢。子健。士元。當時皆爲史館編修。伯民方出爲敎授)諸子往往來集。
新字:邸中用事者。日夜出入於閣老(所謂老中。下倣之)之沼津侯(水野出羽守)之第。事情不測。倘使山野辺氏(名義観。称兵庫。当時以門子別賜俸禄。列国老之班。雖不預政事。而愛賢下士。研究文武。屹為一国之望)在江邸。則足以破有司之姦謀。辞甚激切。而寄彪及杉山士元(名思亮。称千太郎。身長六尺豪爽有大志。初従古賀弥助而学。後遊於先子之門)之書也。彪謂此国家大事。志士授命報国之秋。直詣山野辺氏。窃示仲徳書。且謂曰事急矣。夫子壺与士元謀。士元大夫所信。大夫領焉。彪帰家祭先子於寝。(毎月朔望。蚤登城則退公之後。祭於寝。是日亦然)且告以実。筮南上赴急不吉。彪投策曰。見吉而行。見不吉而止者。尋常人事耳。至於大事。則固不可以吉凶変其節。今既決死。則不吉既兆。又復何筮。乃謝神主。急裁書会二三同志於梅巷之宅。川瀨(名教徳。称七郎衛門。其人雖不読書。而剛毅有胆略。与先子交最深。嘗以剛腸獲罪。禁錮者七年。当時遇赦而出。為小普請組)会沢(名安。字伯民。称恒蔵。為人篤実純孝。而有大志。於先子之門為高弟。所著有新論及迪彝篇等諸書)吉成(名信貞。字履善。称又右衛門。為人忠愨。尤重名節。有幹事之才。初従大竹子虚而学。後遊於先子之門)飛田(名勝。字子健。称勝太郎。以文章才学称。嘗従太田才佐而遊。後出入於先子之門)鈴木(名宜尊。字子賢。称荘蔵。幼従先子而学。為人温醇。而有気槩。子賢。子健。士元。当時皆為史館編修。伯民方出為教授)諸子往往来集。
書き下し
邸中の用事者、日夜閣老(所謂老中。下も之に倣う)の沼津侯(水野出羽守)の第に出入す。事情測られず。倘し山野辺氏(名は義観、兵庫と称す。当時、門子を以て別に俸禄を賜い、国老の班に列す。政事に預からずと雖も、賢を愛し士に下り、文武を研究し、屹として一国の望と為る)をして江邸に在らしめば、則ち以て有司の姦謀を破るに足らん。辞、甚だ激切なり。而して彪及び杉山士元(名は思亮、千太郎と称す。身長六尺、豪爽にして大志有り。初め古賀弥助に従いて学び、後に先子の門に遊ぶ)に寄するの書なり。彪謂えらく、此れ国家の大事、志士の命を授けて国に報ずるの秋なりと。直ちに山野辺氏に詣り、竊かに仲徳の書を示し、且つ謂いて曰く、事急なり。夫子壺、士元と謀れ。士元は大夫の信ずる所、大夫、領せよと。彪、家に帰りて先子を寝に祭る(毎月朔望、蚤に登城すれば、則ち退公の後、寝に祭る。是の日も亦然り)。且つ告ぐるに実を以てす。筮して南上して急に赴くを問うに吉ならず。彪、策を投じて曰く、吉を見て行き、不吉を見て止むるは、尋常の人事のみ。大事に至りては、則ち固より吉凶を以て其の節を変うべからず。今既に死を決す。則ち不吉既に兆す。又復た何ぞ筮せんと。乃ち神主に謝し、急に書を裁して二三の同志を梅巷の宅に会す。川瀬(名は教徳、七郎衛門と称す。其の人、書を読まずと雖も、剛毅にして胆略有り。先子と交り最も深し。嘗て剛腸を以て罪を獲、禁錮せらるる者七年。当時、赦に遇いて出で、小普請組と為る)・会沢(名は安、字は伯民、恒蔵と称す。人と為り篤実純孝にして大志有り。先子の門に於いて高弟たり。著す所に新論及び迪彝篇等の諸書有り)・吉成(名は信貞、字は履善、又右衛門と称す。人と為り忠愨にして、尤も名節を重んず。幹事の才有り。初め大竹子虚に従いて学び、後に先子の門に遊ぶ)・飛田(名は勝、字は子健、勝太郎と称す。文章才学を以て称せらる。嘗て太田才佐に従いて遊び、後に先子の門に出入す)・鈴木(名は宜尊、字は子賢、荘蔵と称す。幼にして先子に従いて学ぶ。人と為り温醇にして気概有り。子賢・子健・士元は、当時皆史館編修たり。伯民は方に出でて教授と為る)の諸子、往往にして来たり集まる。
現代語訳
屋敷の中の実力者たちは、日夜、老中(いわゆる閣老。以下同じ)の沼津侯(水野出羽守)の邸に出入りしています。事情は計り知れません。もし山野辺氏(名は義観、兵庫と称する。当時、門子の身分で別に俸禄を賜り、国老の列に入っていた。政務には関わらないが、賢者を愛し、人に謙虚で、文武を研究し、一国の人望を集めていた)が江戸屋敷にいれば、役人たちの悪だくみを破るに十分だろう。文面はたいへん激しく切実です。それは私(彪)と杉山士元(名は思亮、千太郎と称する。身長は六尺で豪快、大志があった。はじめ古賀弥助に学び、のち父の門に遊んだ)に宛てた手紙でした。私は、これは国家の大事で、志士が命を捧げて国に報いる時だと考えました。すぐに山野辺氏のもとへ行き、ひそかに仲徳の手紙を見せて言いました。「事は急を要します。あなたは、士元と相談してください。士元は大夫(山野辺氏)が信頼する人で、大夫もご承知おきください」。私は家に帰り、父を寝所で祭りました(毎月一日と十五日は早朝に登城するので、退出後に寝所で祭る。この日もそうした)。そして事情を告げました。占いで、江戸へ急ぎ向かうことを問うと、吉ではありませんでした。私は筮竹を投げ出して言いました。「吉と出たら行き、不吉と出たら止めるのは、ふつうの人の事柄だ。大事となれば、吉凶で節操を変えてはならない。すでに死を覚悟している。不吉の兆しはすでに出ている。もう一度占う必要があろうか」。そこで神主(位牌)に別れを告げ、急いで書状を書き、二、三の同志を梅巷の家に集めました。川瀬(名は教徳、七郎衛門と称する。書は読まないが剛毅で胆力と知略があった。父と最も親しく、かつて剛直な性格のため罪を得て七年間禁錮された。のち赦されて出て小普請組となった)、会沢(名は安、字は伯民、恒蔵と称する。人柄は誠実で孝行、大志があった。父の高弟で、著書に『新論』や『迪彝篇』などがある)、吉成(名は信貞、字は履善、又右衛門と称する。人柄は忠実で誠実、とくに名誉と節操を重んじた。実務の才があった。はじめ大竹子虚に学び、のち父の門に遊んだ)、飛田(名は勝、字は子健、勝太郎と称する。文章と学才で知られた。かつて太田才佐に従って遊び、のち父の門に出入りした)、鈴木(名は宜尊、字は子賢、荘蔵と称する。幼いころから父に学んだ。人柄は温厚で気概があった。子賢・子健・士元は当時みな史館の編修で、伯民はちょうど出て教授になっていた)らが、次々に集まってきました。
解説
この章句が説くこと
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『回天詩史』・世子擁立と出府・無断の出府と守山侯への訴え士元は則ち山野辺氏の宅に在り。亦時に彪が廬に往来し、南上の策を議す。蓋し乞わずして境を出づる者は、国に刑典有り。是を以て其の議、紛紜として決せず。川瀬翁、決断に長じ、慨然として曰く、吾が輩をして幸いに死せずして境を出づるの罪を蒙らしめば、則ち社稷の福、孰れか大ならん。議、遂に決す。時に山野辺氏の父義質(主水正と称す。良公の庶子左膳君の子にして、出でて山野辺氏を嗣ぐ)、方に亜卿を以て国政を執る。告ぐるに実を以てせば則ち発するを獲ざるなり。乃ち陽には公の病を静神社に禱ると為し、夜に乗じて馬に跨がりて出ず。途に梅巷を過ぐ。川瀬・会沢・杉山・吉成及び彪、裳を褰げて俱に出ず。時に既に五更。長岡駅に至れば、則ち吉成後れたり。蓋し帰りて監察戸田忠敞(銀次郎と称す)を激するなり。戸田は固より沈深にして義気有り。袂を振るって俱に途に上ると云う。彪等と山野辺氏とは、三日甲子の夕を以て江戸に抵る。皆謂えらく、執政有司は既に与に責むるに足らず。倚頼すべき所は、唯だ守山侯有るのみと。是の夜、山野辺氏は小石川邸に詣り、公の病状を候う。彪等四人は則ち吹上の第に至り、守山侯に謁せんことを請う。侯は蓋し之を難しとす。其の臣遅塚九二八、周旋尤も力む。侯、遂に四人を燕室に延きて之を見る。四人、具さに飛語紛紜、事情測られざるの状を陳べ、因りて敬三郎君を立てて世子と為さんことを請う。侯、謙遜持重にして、果断の言を為すを肯んぜず。徐ろに曰く、本宗の大事、寡人敢えて力を竭くさざらんや。然れども若し其の成否は則ち寡人の豫め言うべき所に非ざるなりと。辞意慇懃、慰諭具に至る。四人、感激して退く。然れども猶お竊かに其の自ら任ずるの或いは厚からざるを憾む。夜、既に三更を過ぐ。乃ち剣客斎藤弥九郎を飯田街に投ず。弥九郎は彪及び士元と旧有り。且つ驚き且つ喜び、延きて挙剣場に入れ、供するに塩豉の粥を以てす。四人、腹を鼓して寝に就く。四日乙丑、黎明、俱に小石川邸に入る。監察今村某の門を叩き、請わずして南上せし所以の状を達す。仲徳の舎に会す。初め岡井翁(名は謨、富五郎と称す。経筵に侍講す)なる者有り、哀公に儲嗣無きを憂え、屢〻公に諷して敬三郎君を立てて世子と為さんことを請う。公、諾す。而れども其の異母弟なるを以て、其の生む所の相軋りて隙を生ぜんことを慮り、未だ決せず。
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『回天詩史』・世子擁立と出府・遺された書状と江戸の志士たち親ら其の由を裁して以て翁に賜う。翁の病んで将に死せんとするに及び、以為らく、仲徳は大事を託すべしと。竊かに仲徳に示すに公の書を以てし、謂いて曰く、吾老病交〻至り、而して豚児幼稚なり。儲嗣の議、子其れ以て吾が志を紹ぐ有れと。仲徳、感激して許諾す。是に至りて仲徳、日夜憂苦し、下僚に在りと雖も(時に仲徳、下士を以て史館の生員たり)、身を以て自ら任ず。至誠、人を動かす。桑原(名は信毅、幾太郎と称す。人と為り寡黙にして智略有り。博く群書を渉り、尤も韶鈴に長ず)・吉田(名は令世、字は平坦、平太郎と称す。少くして才学を以て水館の生員に補せられ、後に江邸に徙り、史館編修と為る。敬三郎君に侍講す。尤も国学に長じ、兼ねて和歌に妙なり)・岡崎(名は正忠、字は子衛、次郎兵衛と称す。少くして先子に従いて学ぶ。精敏にして強記なり。常陸稽古秘書等の著述有りと云う)・高須(名は栄済、欽之允と称し、後に源太夫と更む。節義の士なり)・吉村(名は彰常、栄蔵と称す)、善を好むの士、諸子往往にして見訪す。皆江戸の有志の士なり。適〻吉成も亦来たり、忠義慷慨、議論奮発す。又立原氏(名は任、字は子遠、甚太郎と称す。翠軒先生の長子。人と為り胸襟灑落にして威儀を修めず。頗る知人の鑑有り。聞見該博にして、尤も書画に長ず)を訪ね、頗る事情の曲折を聞くを得たり。主人、大声もて有司の用事者を罵る。家人遽かに之を止む。主人曰く、光明正大の論、唯だ聴く者の少なきを憾むのみと。四人、之が為に釈然として、大いに憤懣を泄らす。是の夜、春日街の逆旅に投ず。水戸の同志の士、期せずして南上する者、絡繹として相踵ぐ。巨室は則ち将監松平氏(今の宍戸侯)。世家は則ち三木(名は之則、庸之介と称す)・跡部(名は正生、字は伯道、彦九郎と称す。後に旧氏の武田に復す)・浅利(名は定応、字は徳操、六之進と称す。先子の門人)・鵜殿(名は忠愛、熊吉と称し、後に平太衛門と更む。亦先子の門人)。監察は則ち戸田(上に見ゆ)。近臣は則ち友部(名は好正、字は正介。翠軒先生に従いて学ぶ。篤実にして才幹有るを以て世に称せらる。当時、小納戸を以て水戸に在り)。耆老は則ち
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『回天詩史』・致仕の命と決死・死に代えて訴える決意と翻意彪が篤疾、絶に臨みて復た一点も自ら求むるの念無きを以てす。荘兵衛に因りて諸を台聴に達せば、則ち庶わくは以て頽瀾を挽回すべしと。意既に決す。然れども屢〻公の駕に従う者は、両君に謁見するの儀有り。事頗る厳密にして、輒く舎に帰るを得ず。参政府(側用人の局にして、本は中奥に在り。近来は参政と局を同じくす)に黙座して以て俟つ。将に一詩を留めて親朋に訣せんとし、君辱めらるれば臣死すべし、死豈に毫も辞すべけんやの二句を獲たり。会〻近臣の命を伝うる有り、遽かに彪を召す。趨りて公所に至れば、則ち元老中山、執政戸田、座に在り。公、反復して談論するに、大率曩日水戸の有司に言いし者の如し。中山等将に退かんとするに、公、容を改めて曰く、寡人不肖にして、士民を撫育する能わず。他事を以て罪を幕府に獲るは、固より辞する所に非ず。但だ異志を懐き禍心を蔵するを以て疑わるれば、則ち啻に寡人の辱のみならず、威公以来相伝うるの意、荒れん。寡人をして不幸にして寿無からしめば、則ち徒らに憾みを呑み恨みを懐きて死せん。苟くも天、餘年を仮さば、則ち必ず冤を洗い辱を雪ぎ、然る後に已まん。汝等其れ寡人の意を体せよと。声色倶に厲し。三人、感憤して仰ぎ視る能わずして退く。彪、参政府に帰り、幡然として謂う、吾過てり、吾過てりと。幕府の公を疑う所以の者、既に深し。其の処分、蓋し既に定まれり。仮令い公に万一不良の跡有らば、則ち彪、寸裂肢体して以て公の難に代わるは、固より其の分なり。今、公の精忠は日月と光を争う。不幸にして讒人の間する所と為る。而るに彪、死を以て之を訴うれば、則ち彼将に謂わんとす、水藩に以て自ら明らかにするに辞無し、乃ち其の臣某、自ら尽くして以て其の罪を贖うと。是れ彪、公の冤を明らかにせんと欲して、反って讒者の言を実証するなり。身を殺して国を害す。不忠不孝、孰れか大ならん。忽ち報有り、閣老、命を伝え、明朝を以て高松(松平讃州君)・守山(松平大学君)・長沼(松平播州君。皆本藩の支封なり。松平大炊君を召さざるは、当時病に移りて出でざるを以てなり)の三侯を召すと。
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『回天詩史』・老公への譴責・江戸へ向かう病身と死の覚悟今、未だ義公の十分の一をも行う能わず。(曰く十分の一とは、公の謙遜の辞なり。而れども彪、直ちに其の言を記す。観る者、辞を以て意を害せざれば可なり)而るに群議鼎沸し、僧徒の罪を獲る者は極口誹謗し、甚だしきは則ち寡人を以て異志を懐くと為す。凡そ寡人の為す所、動もすれば群疑に渉ること此の如し。而るに寡人、経意せず、自信愈〻厚し。常に謂う、形迹を慎み嫌疑を避け、陰かに武備を講じ不虞を戒むるは、所謂国主及び外諸侯の事のみ。親藩に至りては、則ち固より宜しく公然と張皇し、以て治まるも乱を忘れず、忠を宗室に効すの意を天下に示すべし。乃ち銃を郊に鋳、兵を野に閲し、臣庶に実用実効を責め、毫も隠諱有ること無し。讒人、因りて之を間つ。抑〻亦危うきかな。然れども大将軍は英明絶倫なり。豈に讒を信じて骨肉の親を疑い、破戒不律の僧をして寡人に甘心せしめんや。汝等以て何如と為すと。有司惶懼して対うる所を知らず。公曰く、台命至って厳なり。依違すべからず。其れ遽かに行装を辦ぜよと。有司、五月二日を以て発軔せんことを請う。公許す。執政結城寅寿、番頭雑賀孫市、側用人彪等、従う。彪は四月二十八日より病に臥し、是に至りて悪寒頭痛殊に甚し。衆医、其の行を難しとす。彪、心に謂う、斯の行、死すとも且つ辞せず。区区たる病痾、奚ぞ経意するに足らんと。慨然として自ら奮い、萱堂及び妻拏に告別し、心に永訣を誓う。適〻姻好の武田伯道来たりて餞す。彪の心事を揣知し、杯杓を把るに忍びずして去る。彪、家人の之を怪しまんことを慮る。故に親戚数人を呼び、強いて酒を飲む。亦醉う能わざるなり。遂に二日の黎明を以て家を辞す。蓋し行程四日間、粒食僅かに二三碗に過ぎず。其の苦、知るべきなり。五日巳の牌、公に従いて小石川邸に入る。故事、三藩の君、参府すれば、即日、大将軍、閣老を使わして第に就きて之を賀せしむ。而るに是の日は闕く。邸中失望し、皆曰く、公は必ず厳譴を獲んと。彪、竊かに謂う、事既に発せば、噬臍及ぶ無し。其の未だ発せざるに及びて、早く之が計を為すに如かずと。然れども臣子の変に処するや、身を殺して以て冤を訴うれば、則ち人或いは其の志を憐れみて其の言を信ず。徒らに口舌を以て争えば、則ち愈〻猜疑を来たして奇禍を受く。嘗て聞く、幕府の監察に桜井荘兵衛なる者有り。其の人、善を好み気概有り。洒ち従容として死に就き、一書を遺して公の冤を訴え、終うるに
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『回天詩史』・同志と江戸出立・君主不在の三日と幕府の許可同志の士、相与に号慟し、耳を歆てて命を俟つ。五日丙寅、未だ一の号令の人心を鎮むる有らず。乃ち又川・会・杉の三子と、吹上の第に詣り、侯に見えて曰く、事太だ迫れり。願わくは侯、猶予する勿れと。侯曰く、戸田・吉成・桑原・吉田の輩も、亦来たりて寡人を責む。皆卿等の言う所の若し。寡人、敢えて力を尽くさざらんや。卿等憂うる勿れと。四人、反覆陳説して退く。六日丁卯、始めて元老中山備州の幕府の閣老に詣り、敬三郎君を立てて嗣と為さんことを請うの事を聞く。又立原氏の説に因り、始めて先公に遺書有るを詳らかにす。題して朶雲片片と曰う。首に敬三郎君を立つるの事を載す。且つ厚葬を戒め、美謚を奉る。士皆感泣し、人心頗る安んず。其の逆旅に在る者、稍稍北に帰る。同行の士も、亦或いは引き去らんと欲す。彪、不可なりと曰く、先公の遺言を以てし、元老の請有り。則ち事既に緒に就く。乃ち其の愈允を俟つ、亦善からずやと。忽ち浮説有り。曰く、小斂の儀節、主喪者を載せず、事情測り難しと。人心復た騒然たり。向に北に帰る者、之を聞き、或いは途より反って南上す。八日己巳に至り、始めて幕府の敬三郎君を立てて嗣と為すことを允すの令有り。藩邸の士、争って其の令を写し、逆旅に到りて相示す。悲歎交〻至り、覚えず涕泗横流するなり。時に既に未の牌を過ぐ。皆明日を以て途に上らんと欲す。彪又曰く、既に請わずして境を出で、又相率いて都下を震驚せしむ。其の罪細からず。然れども信宿して今に至る者は、其の君無きを以てなり。今既に君有り。宜しく暫くも躊躇すべからずと。川瀬翁、深く彪の言を是とし、即時に相促す。同志の士三十人許り(既に北に帰る者十人許り)と、春日街を発し、葛西の新宿に至りて投ず。十日辛未を以て家に還る。是の時に当たり、堂堂たる大藩、君無きこと三日三夜。疎外の小臣は廟謨を知らず、浮説巷に満ち、事情測られず。其の間、日夕会議し、反覆論難す。身を殺して仁を成すの説に非ざれば、
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『回天詩史』・同志と江戸出立・世子誕生の慶びと天保十五年の召喚則ち高蹈遠引の計なり。図らざりき、納言公の立つを得て、又世子及び公子の振振として此の如く盛んなるを見んとは。(公、辛卯の夏、有栖川親王の妹を娶る。是れ登美宮夫人たり。鶴千代麻呂君・二郎君・七郎君を生む。山野辺氏は二郎君・八郎君・十郎君を生む。松波氏は三郎君・五郎君・九郎君を生む。某氏は六郎君を生む。立原氏は餘一君を生む。不幸にして二郎君・三郎君・二郎君・六郎君は早夭す。而れども鶴千代麻呂君及び六公子は強健にして、威公の胤、是に於いて益〻広し)此れ彪が死を決して而も死せざるの二なり。今玆、天保甲辰、彪、年三十有九。公、国に在り。四月二十日、幕府の閣老、連署(土井大炊頭・阿部伊勢守・牧野備前守。其の真田信濃守の署せざるは、蓋し其の病に移るを以てなり)して宜しく参府すべきの命を伝う。所謂奉書なる者にして、本月十八日に発する所なり。是れより先、一二日、閣老阿部勢州、我が元老中山備州を招き、詰るに七事を以てす。其の旨、頗る公の或いは異志を挟むを疑うに類す。公、寅賓閣に在りて之を聞き、速やかに城に還りて、有司に謂いて曰く、寡人、庚子の歳を以て国に就く。例として当に翌年を以て参府すべし。而るに経界を正し学校を建つること、事頗る繁雑なり。因りて更に一年の暇を乞う。適〻文恭公薨ず。寡人、奔りて其の喪に請う。幕府に旨有り。遂に果たさず。幾ばくも亡く、幕府大いに紀綱を張り、庶政一新し、翕然として中興の勢い有り。一二月を越えて、閣老太田備州、書を寄せて寡人に参府を慫慂す。寡人、心に謂えらく、幕府をして寡人を用いしめんとするか。宜しく閣老連署して台命を伝うべし。倘し其れをして寡人を忌まんとせば、寡人既に故将軍の喪に奔らず。而るに備州一人の言に因り、自ら参府を請わば、則ち躁進の謗りを招かんことを恐る。如かず、恬退自ら守りて以て命を俟たんにはと。遜りて実を以て備州に報ず。何

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