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回天詩史 / 世子擁立と出府・無断の出府と守山侯への訴え

士元則在山野邊氏之宅。亦時往來於彪廬。議南上策。蓋不乞而出境者。國有刑典。以故其議紛紜不決。川瀨翁長於決斷。慨然曰。使吾輩幸不死而蒙出境之罪。則社稷之福孰大焉。議遂決矣。時山野邊氏父義質(稱主水正。良公庶子左膳君之子。出嗣山野邊氏)方以亞卿執國政。告以實則不獲發也。乃陽爲禱公病於靜神社。乘夜跨馬而出。途過梅巷。川瀨會澤杉山吉成及彪。褰裳而俱出矣。時旣五更。至長岡驛。則吉成後矣。蓋歸而激監察戶田忠敞(稱銀次郞)戶田固沈深有義氣。振袂俱上途云。彪等與山野邊氏。以三日甲子之夕抵江戶。皆謂執政有司。旣不足與責。所可倚賴。唯有守山侯耳。是夜山野邊氏詣小石川邸。候公病狀。彪等四人則至吹上第。請謁守山侯。侯蓋難之。其臣遲塚九二八。周旋尤力。侯遂延四人於燕室而見之。四人具陳飛語紛紜事情不測之狀。因請立敬三郞君爲世子。侯謙遜持重。不肯爲果斷之言。徐曰。本宗大事。寡人敢不竭力。然若其成否則非寡人所可豫言也。辭意慇懃慰諭具至。四人感激而退。然猶竊憾其自任之或不厚也。夜旣過三更。乃投劍客齋藤彌九郞於飯田街。彌九郞與彪及士元有舊。且驚且喜。延入擧劍場。供以鹽豉粥。四人鼓腹就寢。四日乙丑。黎明俱入小石川邸。叩監察今村某之門。達所以不請而南上之狀。會於仲德之舍。初有岡井翁(名謨。稱富五郞。侍講經筵)者。憂哀公無儲嗣。屢諷公請立敬三郞君爲世子。公諾焉。而以其異母弟。慮其所生相軋生隙未決。

新字:士元則在山野辺氏之宅。亦時往来於彪廬。議南上策。蓋不乞而出境者。国有刑典。以故其議紛紜不決。川瀨翁長於決断。慨然曰。使吾輩幸不死而蒙出境之罪。則社稷之福孰大焉。議遂決矣。時山野辺氏父義質(称主水正。良公庶子左膳君之子。出嗣山野辺氏)方以亜卿執国政。告以実則不獲発也。乃陽為祷公病於静神社。乗夜跨馬而出。途過梅巷。川瀨会沢杉山吉成及彪。褰裳而倶出矣。時既五更。至長岡駅。則吉成後矣。蓋帰而激監察戸田忠敞(称銀次郎)戸田固沈深有義気。振袂倶上途云。彪等与山野辺氏。以三日甲子之夕抵江戸。皆謂執政有司。既不足与責。所可倚頼。唯有守山侯耳。是夜山野辺氏詣小石川邸。候公病状。彪等四人則至吹上第。請謁守山侯。侯蓋難之。其臣遅塚九二八。周旋尤力。侯遂延四人於燕室而見之。四人具陳飛語紛紜事情不測之状。因請立敬三郎君為世子。侯謙遜持重。不肯為果断之言。徐曰。本宗大事。寡人敢不竭力。然若其成否則非寡人所可予言也。辞意慇懃慰諭具至。四人感激而退。然猶窃憾其自任之或不厚也。夜既過三更。乃投剣客斎藤弥九郎於飯田街。弥九郎与彪及士元有旧。且驚且喜。延入挙剣場。供以塩豉粥。四人鼓腹就寝。四日乙丑。黎明倶入小石川邸。叩監察今村某之門。達所以不請而南上之状。会於仲徳之舎。初有岡井翁(名謨。称富五郎。侍講経筵)者。憂哀公無儲嗣。屡諷公請立敬三郎君為世子。公諾焉。而以其異母弟。慮其所生相軋生隙未決。

書き下し

士元は則ち山野辺氏の宅に在り。亦時に彪が廬に往来し、南上の策を議す。蓋し乞わずして境を出づる者は、国に刑典有り。是を以て其の議、紛紜として決せず。川瀬翁、決断に長じ、慨然として曰く、吾が輩をして幸いに死せずして境を出づるの罪を蒙らしめば、則ち社稷の福、孰れか大ならん。議、遂に決す。時に山野辺氏の父義質(主水正と称す。良公の庶子左膳君の子にして、出でて山野辺氏を嗣ぐ)、方に亜卿を以て国政を執る。告ぐるに実を以てせば則ち発するを獲ざるなり。乃ち陽には公の病を静神社に禱ると為し、夜に乗じて馬に跨がりて出ず。途に梅巷を過ぐ。川瀬・会沢・杉山・吉成及び彪、裳を褰げて俱に出ず。時に既に五更。長岡駅に至れば、則ち吉成後れたり。蓋し帰りて監察戸田忠敞(銀次郎と称す)を激するなり。戸田は固より沈深にして義気有り。袂を振るって俱に途に上ると云う。彪等と山野辺氏とは、三日甲子の夕を以て江戸に抵る。皆謂えらく、執政有司は既に与に責むるに足らず。倚頼すべき所は、唯だ守山侯有るのみと。是の夜、山野辺氏は小石川邸に詣り、公の病状を候う。彪等四人は則ち吹上の第に至り、守山侯に謁せんことを請う。侯は蓋し之を難しとす。其の臣遅塚九二八、周旋尤も力む。侯、遂に四人を燕室に延きて之を見る。四人、具さに飛語紛紜、事情測られざるの状を陳べ、因りて敬三郎君を立てて世子と為さんことを請う。侯、謙遜持重にして、果断の言を為すを肯んぜず。徐ろに曰く、本宗の大事、寡人敢えて力を竭くさざらんや。然れども若し其の成否は則ち寡人の豫め言うべき所に非ざるなりと。辞意慇懃、慰諭具に至る。四人、感激して退く。然れども猶お竊かに其の自ら任ずるの或いは厚からざるを憾む。夜、既に三更を過ぐ。乃ち剣客斎藤弥九郎を飯田街に投ず。弥九郎は彪及び士元と旧有り。且つ驚き且つ喜び、延きて挙剣場に入れ、供するに塩豉の粥を以てす。四人、腹を鼓して寝に就く。四日乙丑、黎明、俱に小石川邸に入る。監察今村某の門を叩き、請わずして南上せし所以の状を達す。仲徳の舎に会す。初め岡井翁(名は謨、富五郎と称す。経筵に侍講す)なる者有り、哀公に儲嗣無きを憂え、屢〻公に諷して敬三郎君を立てて世子と為さんことを請う。公、諾す。而れども其の異母弟なるを以て、其の生む所の相軋りて隙を生ぜんことを慮り、未だ決せず。

現代語訳

士元は山野辺氏の邸にいて、ときどき私の家にも来て、江戸へ向かう策を相談しました。藩の許可を得ずに国境を出ることには藩に刑罰の定めがあるため、議論は紛糾して決まりませんでした。川瀬翁は決断に優れ、きっぱりと言いました。「我々がうまく死なずに、国境を出た罪を受けるだけで済むなら、国家にとってこれほどの幸いはない」。こうして議は決まりました。そのとき山野辺氏の父の義質(主水正と称する。良公の庶子左膳君の子で、他家から出て山野辺氏を継いだ人)は、亜卿(次席の重職)として国政を担っていました。事情を告げれば出発できなくなります。そこで表向きは静神社に公の病気平癒を祈ると称し、夜に乗じて馬に乗って出ました。途中、梅巷を通りました。川瀬・会沢・杉山・吉成と私は、裾をからげていっしょに出ました。すでに五更(夜明け前)でした。長岡の宿場まで来ると、吉成が遅れていました。彼は家に戻って、監察の戸田忠敞(銀次郎と称する)を奮い立たせていたのです。戸田はもとより沈着で義気のある人で、袖を振るって一緒に出発したということです。私たちと山野辺氏は、三日(甲子)の夕方に江戸へ着きました。みな、執政や役人たちはもう責めても仕方がない、頼れるのは守山侯だけだと考えました。この夜、山野辺氏は小石川の邸に行って公の病状を伺いました。私たち四人は吹上の邸に行き、守山侯への面会を願いました。侯はお会いになるのを難しく思ったようです。家臣の遅塚九二八が特に力を尽くして取り持ってくれ、侯はついに四人を奥の間に通して会ってくれました。四人は、噂が乱れ飛び、情勢が測りがたい様子を詳しく述べ、敬三郎君を世子に立てるよう願いました。侯は謙遜で慎重な人で、決然とした言葉は言いません。ゆっくり「本家の大事に、私が力を尽くさないはずがない。ただ、成るか成らないかは、私があらかじめ言えることではない」と言いました。言葉は丁寧で、慰め諭す心づかいが行き届いていました。四人は感激して退出しました。それでもひそかに、侯の引き受ける覚悟が十分ではないのではと不満に思いました。夜はすでに三更(真夜中)を過ぎていました。そこで剣客の斎藤弥九郎を飯田町に訪ねました。弥九郎は私や士元の旧知で、驚き喜んで、剣術の道場に通し、塩味の粥を出してくれました。四人は腹いっぱい食べて寝ました。四日(乙丑)、夜明けにみなで小石川の邸に入りました。監察の今村某の門を叩き、許可なく江戸に来た事情を伝えました。(その後)仲徳の家で集まりました。もともと岡井翁(名は謨、富五郎と称する。経筵の侍講)という人が、哀公に跡継ぎがいないことを憂え、たびたび公に遠回しに、敬三郎君を世子にするよう申し上げていました。公はそれを承知しました。しかし異母弟であることから、それぞれの生母側が争って不和が生じることを心配し、まだ決めかねていました。

解説

この段は、藩の許可を得ない出府という重い違反を、覚悟の上で決行した場面です。作者らは罰を受けることを前提に、藩の将来を優先しました。現代の組織で規則違反を勧めることはできませんが、教訓は二つあります。一つは、規則を破る必要があると感じたとき、その責任を自分で引き受ける覚悟と、事後に説明する準備が必須だということです。もう一つは、動く前に頼るべき相手を見極め、複数の筋に事情を伝えていく粘り強さです。迷いが出たら、目的と手段を切り分けて考えることが大切です。

この章句が説くこと

回天詩史藤田東湖守山侯斎藤弥九郎無断出府責任

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