回天詩史 / 世子擁立と出府・遺された書状と江戸の志士たち
親裁其由以賜翁。及翁病將死。以爲仲德可託大事。竊示仲德以公書。謂曰吾老病交至。而豚兒幼稚。儲嗣之議。子其有以紹吾志矣。仲德感激許諾。至是仲德日夜憂苦。雖在下僚(時仲德以下士。爲史館生員)以身自任。至誠動人。桑原(名信毅。稱幾太郞。爲人寡默。而有智略。博涉羣書。尤長於韶鈴)吉田(名令世。字平坦。稱平太郞。少以才學補水館生員。後徙江邸。爲史館編修。侍講於敬三郞君。尤長於國學。兼妙和歌)岡崎(名正忠。字子衞。稱次郞兵衞。少從先子而學。精敏強記。有常陸稽古秘書等之著述云)高須(名榮濟。稱欽之允。後更源太夫。節義之士也。)吉村(名彰常。稱榮藏)好善之士。諸子往往見訪。皆江戶有志之士。適吉成亦來。忠義慷慨。議論奮發。又訪立原氏(名任。字子遠。稱甚太郞。翠軒先生之長子。爲人胸襟灑落。不修威儀。頗有知人之鑒。聞見該博。尤長於書畫)頗得聞事情曲折。主人大聲罵有司用事者。家人遽止之。主人曰。光明正大之論。唯憾聽者之少耳。四人爲之釋然。大泄憤懣。是夜投春日街之逆旅。水戶同志之士。不期而南上者。絡繹相踵。巨室則將監松平氏(今宍戶侯)世家則三木(名之則。稱庸之介)跡部(名正生。字伯道。稱彦九郞。後復舊氏武田)淺利(名定應。字德操。稱六之進。先子之門人)鵜殿(名忠愛。稱熊吉。後更平太衞門。亦先子之門人)監察則戶田(見於上)近臣則友部(名好正。字正介。從翠軒先生而學。以篤實有才幹稱於世。當時以小納戶在水戶)耆老則
新字:親裁其由以賜翁。及翁病将死。以為仲徳可託大事。窃示仲徳以公書。謂曰吾老病交至。而豚児幼稚。儲嗣之議。子其有以紹吾志矣。仲徳感激許諾。至是仲徳日夜憂苦。雖在下僚(時仲徳以下士。為史館生員)以身自任。至誠動人。桑原(名信毅。称幾太郎。為人寡黙。而有智略。博渉羣書。尤長於韶鈴)吉田(名令世。字平坦。称平太郎。少以才学補水館生員。後徙江邸。為史館編修。侍講於敬三郎君。尤長於国学。兼妙和歌)岡崎(名正忠。字子衛。称次郎兵衛。少従先子而学。精敏強記。有常陸稽古秘書等之著述云)高須(名栄済。称欽之允。後更源太夫。節義之士也。)吉村(名彰常。称栄蔵)好善之士。諸子往往見訪。皆江戸有志之士。適吉成亦来。忠義慷慨。議論奮発。又訪立原氏(名任。字子遠。称甚太郎。翠軒先生之長子。為人胸襟灑落。不修威儀。頗有知人之鑒。聞見該博。尤長於書画)頗得聞事情曲折。主人大声罵有司用事者。家人遽止之。主人曰。光明正大之論。唯憾聴者之少耳。四人為之釈然。大泄憤懣。是夜投春日街之逆旅。水戸同志之士。不期而南上者。絡繹相踵。巨室則将監松平氏(今宍戸侯)世家則三木(名之則。称庸之介)跡部(名正生。字伯道。称彦九郎。後復旧氏武田)浅利(名定応。字徳操。称六之進。先子之門人)鵜殿(名忠愛。称熊吉。後更平太衛門。亦先子之門人)監察則戸田(見於上)近臣則友部(名好正。字正介。従翠軒先生而学。以篤実有才幹称於世。当時以小納戸在水戸)耆老則
書き下し
親ら其の由を裁して以て翁に賜う。翁の病んで将に死せんとするに及び、以為らく、仲徳は大事を託すべしと。竊かに仲徳に示すに公の書を以てし、謂いて曰く、吾老病交〻至り、而して豚児幼稚なり。儲嗣の議、子其れ以て吾が志を紹ぐ有れと。仲徳、感激して許諾す。是に至りて仲徳、日夜憂苦し、下僚に在りと雖も(時に仲徳、下士を以て史館の生員たり)、身を以て自ら任ず。至誠、人を動かす。桑原(名は信毅、幾太郎と称す。人と為り寡黙にして智略有り。博く群書を渉り、尤も韶鈴に長ず)・吉田(名は令世、字は平坦、平太郎と称す。少くして才学を以て水館の生員に補せられ、後に江邸に徙り、史館編修と為る。敬三郎君に侍講す。尤も国学に長じ、兼ねて和歌に妙なり)・岡崎(名は正忠、字は子衛、次郎兵衛と称す。少くして先子に従いて学ぶ。精敏にして強記なり。常陸稽古秘書等の著述有りと云う)・高須(名は栄済、欽之允と称し、後に源太夫と更む。節義の士なり)・吉村(名は彰常、栄蔵と称す)、善を好むの士、諸子往往にして見訪す。皆江戸の有志の士なり。適〻吉成も亦来たり、忠義慷慨、議論奮発す。又立原氏(名は任、字は子遠、甚太郎と称す。翠軒先生の長子。人と為り胸襟灑落にして威儀を修めず。頗る知人の鑑有り。聞見該博にして、尤も書画に長ず)を訪ね、頗る事情の曲折を聞くを得たり。主人、大声もて有司の用事者を罵る。家人遽かに之を止む。主人曰く、光明正大の論、唯だ聴く者の少なきを憾むのみと。四人、之が為に釈然として、大いに憤懣を泄らす。是の夜、春日街の逆旅に投ず。水戸の同志の士、期せずして南上する者、絡繹として相踵ぐ。巨室は則ち将監松平氏(今の宍戸侯)。世家は則ち三木(名は之則、庸之介と称す)・跡部(名は正生、字は伯道、彦九郎と称す。後に旧氏の武田に復す)・浅利(名は定応、字は徳操、六之進と称す。先子の門人)・鵜殿(名は忠愛、熊吉と称し、後に平太衛門と更む。亦先子の門人)。監察は則ち戸田(上に見ゆ)。近臣は則ち友部(名は好正、字は正介。翠軒先生に従いて学ぶ。篤実にして才幹有るを以て世に称せらる。当時、小納戸を以て水戸に在り)。耆老は則ち
現代語訳
(公は)自ら事情を書面にしたため、それを岡井翁に賜りました。翁は病んで死に近づくと、仲徳なら大事を託せると考え、ひそかに仲徳に公の書状を見せて言いました。「私は老いと病が重なり、息子はまだ幼い。跡継ぎの議について、あなたが私の志を継いでほしい」。仲徳は感激して引き受けました。ここに至って仲徳は昼夜憂え苦しみ、下級の身分(当時の仲徳は下士で史館の生員)でありながら、自分の責任として引き受けました。その誠は人を動かしました。桑原(名は信毅、幾太郎と称する。人柄は寡黙で知略があり、諸書に広く通じ、とくに兵法書(韶鈴)に優れた)、吉田(名は令世、字は平坦、平太郎と称する。若くして才学により水戸の史館生員に補され、のち江戸屋敷に移って史館編修となった。敬三郎君の侍講を務め、とくに国学に優れ、和歌にも巧みだった)、岡崎(名は正忠、字は子衛、次郎兵衛と称する。若くして父に学んだ。鋭敏で記憶力が強く、『常陸稽古秘書』などの著述があるという)、高須(名は栄済、欽之允と称し、のち源太夫と改めた。節義の士)、吉村(名は彰常、栄蔵と称する)など、善を好む人々が次々と訪ねてきました。みな江戸の有志の士です。ちょうど吉成も来て、忠義の気持ちから憤り、議論を奮い立たせました。また立原氏(名は任、字は子遠、甚太郎と称する。翠軒先生の長子。人柄はさっぱりして威儀を整えない。人を見る眼がかなりあり、見聞が広く、とくに書画に優れた)を訪ねると、事情の曲折をよく聞くことができました。主人は大声で、役人の実力者たちを罵りました。家の者があわてて止めましたが、主人は言いました。「光明正大な議論は、ただ聞く者が少ないのが残念なだけだ」。四人はこの言葉で胸のつかえが取れ、大いに憤懣を晴らしました。この夜、春日町の旅宿に泊まりました。水戸の同志で、示し合わせたわけでもなく江戸に上ってくる者が、つぎつぎに続きました。大身の家では将監松平氏(今の宍戸侯)。世襲の家では三木(名は之則、庸之介と称する)、跡部(名は正生、字は伯道、彦九郎と称する。のち元の氏の武田に戻った)、浅利(名は定応、字は徳操、六之進と称する。父の門人)、鵜殿(名は忠愛、熊吉と称し、のち平太衛門と改めた。これも父の門人)。監察では戸田(前に出ている)。近臣では友部(名は好正、字は正介。翠軒先生に学んだ。誠実で才幹があると世に称された。当時、小納戸として水戸にいた)。年長の重臣では、
解説
この章句が説くこと
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説苑・建本晋の襄公薨じ、嗣君少く、趙宣子相たり。大夫に謂いて曰わく、「少君を立つれば、多難ならんことを懼る。請う雍を立てん。雍長じ、出でて秦に在り、秦大にして、以て援と為すに足る」と。賈季曰わく、「公子楽に若かず。楽国に寵有り、先君愛して之を翟に仕えしむ、翟是を以て援と為す」と。穆嬴太子を抱きて庭に呼びて曰わく、「先君奚の罪ありや、其の嗣も亦奚の罪ありや。嫡嗣を捨てて立てずして外に君子を求む」と。朝を出でて抱きて宣子に見えて曰わく、「難きを悪みて、故に長君を立てんと欲するも、長君立ちて少君壮なれば、難乃ち至らん」と。宣子之を患い、遂に太子を立つ。
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『留魂録』第九条又鮎沢伊太夫は水藩の士にして堀江と同居す。余に告げて曰く、「今足下の御沙汰も未だ測られず、小子は海外に赴けば、天下の事総て天命に付せんのみ。但し天下の益となるべき事は、同志に托し後輩に残し度きことなり」と。此の言大いに吾が志を得たり。吾の祈念を籠むる所は、同志の士甲斐甲斐しく吾が志を継紹して、尊攘の大功を建てよかしなり。吾死すとも、堀・鮎二子の如きは、海外に在りとも獄中に在りとも、吾が同志たらん者願はくは交を結べかし。又本所亀沢町に山口三輶と云ふ医者あり、義を好む人と見えて、堀・鮎二子の事など外間に在りて大いに周旋せり。尤も及ぶべからざるは、未だ一面もなき小林民部の事、二子より申し遣はしたれば、小林の為めにも亦大いに周旋せり。此の人想ふに不凡ならん。且つ三子への通路は此の三輶老に托すべし。
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『武士道』第十六章 武士道の命脈・七百年に蓄積したる動量其メーソニック・サイン明亮なることは、個々の間、暗号を有せずしてなお能く直ちに感通するを得るに足るものあり、となす。武士道の我国民、特に士林に印象したる性格は、之を以て種属の具有する不変の要素を形成するものなりと称するを得ずと雖、なお之れが活力を保有せることは、復た疑を容れず。武士道もしただ物理力に過ぎずとすとも、なお既往七百年の間に蓄積したる動量は、俄然停止するを得べきに非ず。武士道はただ遺伝によりてのみ継承したりとすとも、其感化の範囲はすこぶる広大ならずんばあらず。試みに思へ、仏国経済学者ケソン氏が、仮に一世紀を人間三代と定めて打算せば、『吾人は各自其血管中に、紀元一千年に生存したる、少くも二千万人の血液を伝ふるものなり』と云へるを。
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『墨子』耕柱公孟子曰く、「君子は作らず、術ぶるのみ」と。子墨子曰く、「然らず。人の其れ君子ならざる者は、古の善き者は誅がず、今や善き者は作らず。其の次に君子ならざる者は、古の善き者は遂げず、已に善有れば則ち之を作り、善の己より出でんことを欲す。今、誅ぎて作らざるは、是れ遂ぐるを好まずして作る者に異なる所無きなり。吾れ以為えらく、古の善き者は則ち之を誅ぎ、今の善き者は則ち之を作り、善の益ます多からんことを欲すと」と。
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尚書・伊訓惟れ元祀(げんし)十有二月乙丑、伊尹先王に祠(まつ)り、嗣王を奉じて祗(つつし)みて厥(そ)の祖に見(まみ)えしむ。侯甸(こうでん)の群后咸(みな)在り、百官己を総べて以て冢宰(ちようさい)に聴く。伊尹乃ち明らかに烈祖の成徳を言ひ、以て王を訓(をし)へて曰く、「嗚呼(ああ)、古(いにしへ)の有夏の先后、方(まさ)に厥の徳を懋(つと)め、天災有る罔(な)し。山川鬼神も亦寧(やす)からざる莫(な)く、鳥獣魚鼈(ぎよべつ)に暨(およ)ぶまで咸若(したが)ふ。其の子孫に于(お)いて率(したが)はず、皇天災を降し、手を我が命有るものに仮る。攻を造(はじ)むるは鳴条よりし、朕が哉(はじ)めは亳よりす。惟れ我が商王、聖武を布昭し、虐に代ふるに寛を以てし、兆民允(まこと)に懐く。今王厥の徳を嗣ぐは、初めに在らざる罔し。
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説苑・修文春秋に曰く、「壬申、公高寢に薨ず。」傳に曰く、「高寢とは何ぞ?正寢なり。曷為れぞ或いは高寢と言い、或いは路寢と言うか?曰く、諸侯の正寢三つ、一に曰く高寢、二に曰く左路寢、三に曰く右路寢。高寢とは、始めて封ぜられし君の寢なり。二つの路寢とは、體を繼ぐ君の寢なり。其の二つなるは何ぞ?曰く、子父の寢に居らず、故に二寢あり。體を繼ぐ君は世世高祖の寢に居るべからず、故に高寢有り、名づけて高と曰う。路寢其の立つこと奈何?高寢中に立ち、路寢左右す。」と。春秋に曰く、「天王成周に入る。」傳に曰く、「成周とは何ぞ?東周なり。然らば則ち天子の寢奈何?曰く、亦二つの承明あり、體を繼ぎ文を守る君の寢、左右の路寢と曰う。之を承明と謂うは何ぞ?曰く、明堂の後に承くる者なり。故に天子諸侯三寢立ちて名實正しく、父子の義章らかに、尊卑の事別れ、大小の德異なるなり。」

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