価原 / 『価原』経済とは利用厚生正徳・陶冶と土鉄
サル程ニ國家ニ長トシテ社稷ヲ守ルノ人ハ國家ハ祖宗ノ國家ニシテ社稷ハ民生ノ社稷其一身ヲ奉ズルガ爲ニ非ザルヲ知ベシ天地ノ大德ヲ生ト云生ノ德ヲ害スル者乃天地ニ悖ルモノナリ此故ニ漢書ニ背本而趣末、食者甚衆、是天下之大殘也、淫侈之俗、日日以長、是天下之大賤也、トアリ人貴賤ノ隔アレドモ齊シク天地ノ子ナレバ大人モ小人モ天ニ敬シミ事ルニハ隔ナシ天地ノ大德ヲ害スルハ最恐ルベキ事ナリ然レバ各其分ニ應ジ殘ヲフセギ賊ヲイマシムベキコトナリ其事乃經濟也、廼利用厚生正德ナリサレバ利用厚生ニ何程ヨキ道ヲ得テモ己德ヲ正サザレバ令スル所好ム所ニ反スレバ民從ハザル習ニテ禮讓廉恥ノ風ヲコラスイカナル良圖善謀アリテモコレヲ起スニ從ヒテ下吏諸有司金設ケノ趣向トナリコレヲ餌トシテ惡徒財ヲツリ人ヲ虐タゲ今マデアラヌ害ナド引出シ功ナラザルノミカ世ノ笑トハナリ侍ル此故三事利用ヲ初トシ厚生ヲ本トシ正德ヲ主トス德正シキ時ハ人感化ス其指揮水ノ壑ニヲモムクガ如シ何レノコトカナラザラン君ハスナハチ陶冶也下ハ則土鐵也ソノ器ヲナシ用ヲナサンコトハ全ク陶冶ノ手中ニアリ
新字:サル程ニ国家ニ長トシテ社稷ヲ守ルノ人ハ国家ハ祖宗ノ国家ニシテ社稷ハ民生ノ社稷其一身ヲ奉ズルガ為ニ非ザルヲ知ベシ天地ノ大徳ヲ生ト云生ノ徳ヲ害スル者乃天地ニ悖ルモノナリ此故ニ漢書ニ背本而趣末、食者甚衆、是天下之大残也、淫侈之俗、日日以長、是天下之大賤也、トアリ人貴賤ノ隔アレドモ斉シク天地ノ子ナレバ大人モ小人モ天ニ敬シミ事ルニハ隔ナシ天地ノ大徳ヲ害スルハ最恐ルベキ事ナリ然レバ各其分ニ応ジ残ヲフセギ賊ヲイマシムベキコトナリ其事乃経済也、廼利用厚生正徳ナリサレバ利用厚生ニ何程ヨキ道ヲ得テモ己徳ヲ正サザレバ令スル所好ム所ニ反スレバ民従ハザル習ニテ礼譲廉恥ノ風ヲコラスイカナル良図善謀アリテモコレヲ起スニ従ヒテ下吏諸有司金設ケノ趣向トナリコレヲ餌トシテ悪徒財ヲツリ人ヲ虐タゲ今マデアラヌ害ナド引出シ功ナラザルノミカ世ノ笑トハナリ侍ル此故三事利用ヲ初トシ厚生ヲ本トシ正徳ヲ主トス徳正シキ時ハ人感化ス其指揮水ノ壑ニヲモムクガ如シ何レノコトカナラザラン君ハスナハチ陶冶也下ハ則土鉄也ソノ器ヲナシ用ヲナサンコトハ全ク陶冶ノ手中ニアリ
書き下し
さる程に、国家に長として社稷を守るの人は、国家は祖宗の国家にして、社稷は民生の社稷、その一身を奉ずるがために非ざるを知るべし。天地の大徳を生といい、生の徳を害する者は、乃ち天地に悖るものなり。この故に漢書に「本に背きて末に趣き、食う者甚だ衆し、これ天下の大残なり。淫侈の俗、日日以て長ず、これ天下の大賊なり」とあり。人貴賤の隔てあれども、斉しく天地の子なれば、大人も小人も天に敬しみ事うるには隔てなし。天地の大徳を害するは、最も恐るべき事なり。然れば各々その分に応じ、残を防ぎ賊を戒むべきことなり。その事、乃ち経済なり、廼ち利用・厚生・正徳なり。されば利用厚生に何程よき道を得ても、己が徳を正さざれば、令する所、好む所に反すれば、民従わざる習いにて、礼譲廉恥の風を起こす、いかなる良図善謀ありても、これを起こすに従って、下吏諸有司、金設けの趣向となり、これを餌として悪徒財を釣り、人を虐げ、今までなき害など引き出し、功ならざるのみか、世の笑いとはなり侍る。この故に三事は、利用を初めとし、厚生を本とし、正徳を主とす。徳正しき時は、人感化す。その指揮、水の壑に赴くがごとし。何れの事かならざらん。君は即ち陶冶なり。下は則ち土鉄なり。その器をなし用をなさんことは、全く陶冶の手中にあり。
現代語訳
そこで、国家の長として社稷を守る人は、国家は祖先から受け継いだ国家であり、社稷は民の暮らしのための社稷であって、自分一身を養うためのものではないと知るべきである。天地の大徳を生といい、生の徳を害する者は、天地に背くものである。そこで漢書に「根本に背いて末に走り、ただ食うだけの者が非常に多いのは、天下の大きな残害である。贅沢で度を越した風俗が日に日に長ずるのは、天下の大きな賊である」とある。人には貴賤の隔てがあるが、等しく天地の子であるから、身分の高い者も低い者も、天を敬い仕えることには隔てがない。天地の大徳を害することは、最も恐るべきことである。そうであれば、各々がその分に応じて、残害を防ぎ、賊を戒めるべきである。その事こそが経済であり、すなわち利用、厚生、正徳である。そこで、利用厚生にどれほどよい道を得ても、自分の徳を正さなければ、命じるところが好むところに反するために民は従わないのが習いで、礼譲廉恥の風を起こすどのような良い計画や策があっても、これを起こすにつれて、下級役人や諸役人が金もうけの趣向にして、これを餌として悪い者が財を釣り、人を虐げ、今までなかった害を引き出し、成功しないばかりか世の笑いものとなってしまう。だから三つのことは、利用を初めとし、厚生を本とし、正徳を主とする。徳が正しいときは、人が感化される。その指揮は、水が低い谷に向かうようである。どんなことでも成らないことがあろうか。君主はすなわち陶冶する人であり、下の者はすなわち土や鉄である。それが器となり用となるのは、全く陶冶する人の手の中にある。
解説

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『新論』國體下古者百事簡易にして、四民勤動し、其の営求する所の者は、功を通じ事を易ふるに過ぎず。之を生ずること甚だ広くして、用途甚だ狭し。朝廷漸く奢靡を尚ぶに及び、国家の用を貶して、以て婦女の玩好に供し、異化の徒横肆して、天下の財を傾けて、以て堂宇を造り、天下の穀を糜して、以て浮冗を食はしむ。藤氏権を専らにして、権勢の家、私儲を営み私人を蓄へ、荘園天下に遍く、其の正税を出だして以て王事に供する者幾ばくも無し。而して権勢の私人、所謂守護地頭なる者、又財穀を私儲して富厚世を累ね、国郡に拠有して、天下の富遂に武人に移る。然れども兵なる者は民社を鎮むる所以なり。天下の武士各々私卒を養ふ、亦未だ冗食と為さず。故に古者天下乱ると雖も、而も未だ甚だしくは貧に苦しまざるなり。今天下治平にして、上下皇皇として、唯だ貧を是れ患ふる者は何ぞや。天下の財を理むること其の道を得ざればなり。
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『新論』國體下今夫れ天下米穀の賤くして貨幣の乏しきを患ふ。米穀乃ち賤きに非ざるなり、貨幣乃ち乏しきに非ざるなり、而して百物の甚だ貴きなり。設し斗米の価銀五銭にして、一衣裘も亦五銭ならしめば、則ち斗米以て一衣裘に易ふべし。今木綿の裘と雖も、六七斗を鬻ぐに非ざれば則ち其の直を償ふ能はず。是れ衣裘の貴きにして、穀の賤きに非ざるなり。穀なる者は取りて以て腹に充つるのみ。之を銷すこと限り有り。百物は新を競ひ奇を闘はせ、愈々出でて愈々窮まり無し。乃ち一婦の首飾にして中農一家の産に当たるに至る。銷すこと限り有る者を以てして、愈々出でて窮まり無き者を逐ふ。百物の皆貴き所以にして、米穀の独り賤き所以なり。
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『新論』國體下且つ夫れ都会も亦多く無用の穀を儲ふる能はず。故に都会の穀と雖も、亦以て都会の人を食はしめて稍余り有るに過ぎざるのみ。其の実は甚だしくは多からざるなり。凡そ盈縮の数、其の実は甚だしくは相遠からずして、其の勢は相霄壌たるが如き者有り。之を啖ひて飽く者に譬ふ。既に腹に充つれば、稍一分を多くすれば、則ち甚だ余り有るが如し。未だ飽くに及ばざれば、一分を少なくすれば、則ち大いに足らざるが如し。是れ其の過不及の差為ること眇少なるのみ。然れども其の足らざる者を取りて、之を余り有る者に比すれば、盈虚の相去ること、大いに相懸たるが如き者は勢なり。故に曰く、天下の穀未だ嘗て多からず、而して都会の穀も亦未だ甚だしくは多からざるなりと。
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価原・『価原』経済は義を利とする穆公の話夫れ天下国家を有する人の豊饒と言うは、全く金銀の上にあらず。金銀を有して豊饒とするは、商買のことなり。この故に今は上下交々利を射て錙銖を争うほどに、悪しく心得たる人は、政を執れる身にも、商賈の術をもって国を治めんとする人もあり。乾没と経済と、同じく利を求むる者なり。その差別、商賈は利をもって利とし、経済は義をもって利とす。昔、鄒の穆公、鳧雁の類を畜われしに、粟をば用いず、常に粃を用いられしに、折ふし粃尽きたり。有司これを民間に求めしに、民、粃一石をもって粟二石に替えんと言う。有司これを損なりとして、粟をもって鳥に畜わんと請う。穆公、否、なんじが知る所に非ず。夫れ百姓の手を煦して耕し、背を曝して耘ること、あに鳥獣のためにせんや。粟米はこれ民の上食なり。何とて鳥には飼うべきぞ。汝、小計を知って大会を知らず。周の諺にも「囊漏れて中に貯う」と言えり。夫れ君は民の父母なり。倉の粟を取りて民に移す。民に有ても我が粟なり。鳥もし鄒の粃をはまば、これ我が粃を食むなり。何ぞ鄒の粟を害わんと有しかば、これより下に至るまで、上のことに思いつきて、上下一体の思いをなしけり。
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『新論』國體下夫れ天下の米穀未だ嘗て多からざるなり。而して甚だ多きが如き者は、其の勢之をして然らしむるのみ。凡そ物散じて之を各所に蔵すれば、其の数多しと雖も、未だ其の甚だ多きを見ること有らず。聚めて之を一所に陳ぬれば、寡しと雖も亦猶多きがごとし。是れ自然の勢なり。故に一石の米を家に蔵するは、未だ以て多しと為すに足らざるも、万家にして之を鬻ぎ、万石を市に陳ぬれば、未だ嘗て視て以て夥しと為さずんばあらず。而して武士都城に聚処し、終歳の俸を尽くして、以て口腹に奉じ婦女を悦ばしめ、甲兵を繕ひ徒卒を養ふを得ず。故に米穀家に蔵せず、挙げて之を市に鬻ぐ。農民困乏して奢惰なるも、亦歳収を挙げて之を鬻ぐ。鬻ぐ所愈々多ければ、則ち米価愈々賤し。賤しければ則ち其の鬻ぐこと多からざるを得ず。之を鬻ぐこと愈々多くして、直を得ること旧に益さず。是を以て民流亡して地余り有り。地余り有りて租賦減ぜず。其の税其の鬻、一家の産を傾くと雖も、猶且つ足らず。故に之を鬻ぐこと日に多くして、天下の穀日に耗る。天下の穀日に耗りて、都会の穀日に盈つ。都会の盈つるを見れば、則ち天下の虚知るべきなり。