価原 / 『価原』利休の悖逆と茶・猿楽が広まるさま
此時二條院ノ御陵洛北舟岡山ニアリケリ然ルヲ利休ソノ御塔石ヲトリヨセテ茶亭ノカザリトシ餘レル石ヲ以テ手水鉢ナドニ用ヒシガ如何思ヒシニヤ蹈石ニマデハセザリシ由ナリ昔周室衰エタリシ時楚子鼎ノ輕重ヲ問シダニ淸議コレヲ許サズイカニ朝家ノ權武家ニ歸シタリトテ天ツ日嗣ハ未地ニ墜ズ宗易ガ茶天下ノ觀ヲ極ムトモ伯夷ハ酌ジト覺エ侍ル文王ハ土中ノ枯骨ヲ得給ヒテモ深クコレヲ埋メ給ヒキ王者ノ政ハ孟春ノ月ニハ掩骼埋胔事、恩枯骨ニ及ブ也加藤淸正ハ身武人タリト云ヘドモ南面シテ孤ト稱ス人ノ仰ギ瞻テ法ヲトル所也然ルニ山科元慶、寺ニ有シ僧正遍照ノ塔ヲ本國寺勸持院ニ引テ燈籠トナシ喫茶ノ興ヲ助スケシトゾ悖逆ヲ論ズレバ利休ノ下ニツクトイヘドモ其任ヲ論ズレバ其身君師ノ責アリ國祚ノ長カラザルモ故アルコトニヤト思ハル茶義政ニ成リテ利休ニ至ル其人ヲ見テ其道ヲ思フベシ高貴茶ヲ賞シテヨリ終ニ天下日用ノ具トナル精麁品ヲ同ジフセズトイヘドモ終ニ一日モスツベカラザル者トナル近來髮ニ膏ヲ用ルト神祠ニ燈籠ヲ點ズルト同ジク廢シガタキノ品トナル猿樂ハ昔ハ唯怪シクヲカシキコトナリシヲ義政修シテ觀世觀阿彌作リ出シ能ト云者ニナリヌ武家古樂ヲ廢セシカバ今ハ武家ノ樂トナリヌ然レバ當時小笠原ノ禮ト聊禮樂ニ備フベシ
新字:此時二条院ノ御陵洛北舟岡山ニアリケリ然ルヲ利休ソノ御塔石ヲトリヨセテ茶亭ノカザリトシ余レル石ヲ以テ手水鉢ナドニ用ヒシガ如何思ヒシニヤ蹈石ニマデハセザリシ由ナリ昔周室衰エタリシ時楚子鼎ノ軽重ヲ問シダニ清議コレヲ許サズイカニ朝家ノ権武家ニ帰シタリトテ天ツ日嗣ハ未地ニ墜ズ宗易ガ茶天下ノ観ヲ極ムトモ伯夷ハ酌ジト覚エ侍ル文王ハ土中ノ枯骨ヲ得給ヒテモ深クコレヲ埋メ給ヒキ王者ノ政ハ孟春ノ月ニハ掩骼埋胔事、恩枯骨ニ及ブ也加藤清正ハ身武人タリト云ヘドモ南面シテ孤ト称ス人ノ仰ギ瞻テ法ヲトル所也然ルニ山科元慶、寺ニ有シ僧正遍照ノ塔ヲ本国寺勧持院ニ引テ灯籠トナシ喫茶ノ興ヲ助スケシトゾ悖逆ヲ論ズレバ利休ノ下ニツクトイヘドモ其任ヲ論ズレバ其身君師ノ責アリ国祚ノ長カラザルモ故アルコトニヤト思ハル茶義政ニ成リテ利休ニ至ル其人ヲ見テ其道ヲ思フベシ高貴茶ヲ賞シテヨリ終ニ天下日用ノ具トナル精麁品ヲ同ジフセズトイヘドモ終ニ一日モスツベカラザル者トナル近来髪ニ膏ヲ用ルト神祠ニ灯籠ヲ点ズルト同ジク廃シガタキノ品トナル猿楽ハ昔ハ唯怪シクヲカシキコトナリシヲ義政修シテ観世観阿弥作リ出シ能ト云者ニナリヌ武家古楽ヲ廃セシカバ今ハ武家ノ楽トナリヌ然レバ当時小笠原ノ礼ト聊礼楽ニ備フベシ
書き下し
この時、二条院の御陵、洛北舟岡山にありけり。然るを、利休その御塔石を取り寄せて茶亭の飾りとし、余れる石をもって手水鉢などに用いしが、如何思いしにや、踏石まではせざりし由なり。昔、周室衰えたりし時、楚子鼎の軽重を問いしだに、清議これを許さず。いかに朝家の権、武家に帰したりとて、天つ日嗣はいまだ地に墜ちず。宗易が茶、天下の観を極むとも、伯夷は酌まじと覚え侍る。文王は土中の枯骨を得給いても、深くこれを埋め給いき。王者の政は、孟春の月には掩骼埋胔、事、恩枯骨に及ぶなり。加藤清正は、身武人たりといえども、南面して孤と称す。人の仰ぎ瞻て法を取る所なり。然るに山科元慶寺にありし僧正遍照の塔を、本国寺勧持院に引きて燈籠となし、喫茶の興を助けしとぞ。悖逆を論ずれば、利休の下につくといえども、その任を論ずれば、その身、君師の責あり。国祚の長からざるも、故あることにやと思わる。茶、義政に成りて利休に至る。その人を見て、その道を思うべし。高貴、茶を賞してより、ついに天下日用の具となる。精麁品を同じゅうせずといえども、ついに一日も捨つべからざる者となる。近来、髪に膏を用いると、神祠に燈籠を点ずると同じく、廃し難きの品となる。猿楽は、昔は唯怪しくおかしきことなりしを、義政修して、観世・観阿弥作り出して、能という者になりぬ。武家古楽を廃せしかば、今は武家の楽となりぬ。然れば、当時小笠原の礼と、いささか礼楽に備うべし。
現代語訳
このとき、二条院の御陵が洛北の舟岡山にあった。ところが利休は、その御陵の塔石を取り寄せて茶室の飾りとし、余った石を手水鉢などに用いたが、どう思ったのか、踏み石にまではしなかったということである。昔、周王室が衰えたとき、楚の王が鼎の軽重を問うただけでも、世の正しい議論はこれを許さなかった。朝廷の権が武家に移ったからといって、天つ日嗣はまだ地に落ちていない。宗易の茶が天下の見ものを極めたとしても、伯夷は酌むまいと思われる。文王は土の中の枯れ骨を得たときでも、深くこれを埋めなさった。王者の政治は、孟春の月に、骨や死体を覆い埋め、恩が枯れた骨にまで及ぶものである。加藤清正は、身は武人であるが、南面して孤と称した。人々が仰ぎ見て、手本とする立場である。それなのに、山科の元慶寺にあった僧正遍照の塔を、本国寺の勧持院に引いて燈籠とし、茶を飲む楽しみを助けたということである。道に背いた罪を論じれば、利休の下に付くとしても、その任を論じれば、その身は君師の責任がある。国の運が長く続かなかったのも、わけがあることかと思われる。茶は義政に始まって利休に至った。その人を見て、その道を思うべきである。高貴な人が茶を賞美してから、ついに天下の日用の道具となった。精粗の品は同じではないが、ついに一日も捨てられないものとなった。近ごろ、髪に油を用いることと、神社に燈籠を点すことと同じように、廃しがたい品となった。猿楽は、昔はただ怪しく滑稽なことであったのを、義政が修めて、観世・観阿弥が作り出して、能というものになった。武家が古楽を廃したので、今は武家の楽となった。そうであれば、当時の小笠原の礼と合わせて、少し礼楽に備えることができるだろう。
解説

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