価原 / 『価原』煙草と微瘡と禁令の繰り返し
微瘡相思同ジク西洋ヨリ入テ今ニタエズカルタナドモ其國ノ物ナリ蓋煙草ノ其始ハ南亞墨利加ノ內亞勒利西那ト云地アリ其海中ニ十八ノ島アリ總ジテコレヲマリカランダト云其內ノ一島セントヘンセントト云コノ島ヨリ創メテ作リ出セル草也我國ニハ天正ノ初ノ頃トモ又慶長ノ十年ニ渡リシトモ云リウエ始メタル事ハ肥ノ長崎櫻馬場ニ作リソメシヨリ廣マル由西川子ハイヘリ酒色ノ二ツハ古人ノ訓戒ソナハレバ今更改メ云ニ及バズ煙草ハ酒ナドノ樣ニ人ノ心ヲ蕩カス者ニハ非ラザレドモ其味辛ク其氣臭クコレヲ服スル者ハ口氣甚惡シ一能ヲ見ズ男女婬奔ノ媒ヲナシ動モスレバ火ヲ失シテ大ナル者ハ數千家ニ至ル然シテ今ノ失火半ハ烟火ニ屬ス土地ヲ費シ糞壤ヲ食ミ金帛技巧費用甚廣シ國家其失ヲ監ミ給ヒ慶長十三年令ヲ下シテ禁ジ給ヒシカドモヤマズ元和二年ニハ烟草品ニツクルコトヲ許サズ禁ヲ犯ス者ハ牢舍其處ノ代官過料五貫文其村中ノ百姓一人ニツキ過料百文宛ト命ゼラレシカドモヤマズ終ニハ高貴ノ玩トナリヌ微瘡烟草誠ニ天主ノ遺毒最ニクムベキ者也
新字:微瘡相思同ジク西洋ヨリ入テ今ニタエズカルタナドモ其国ノ物ナリ蓋煙草ノ其始ハ南亜墨利加ノ内亜勒利西那ト云地アリ其海中ニ十八ノ島アリ総ジテコレヲマリカランダト云其内ノ一島セントヘンセントト云コノ島ヨリ創メテ作リ出セル草也我国ニハ天正ノ初ノ頃トモ又慶長ノ十年ニ渡リシトモ云リウエ始メタル事ハ肥ノ長崎桜馬場ニ作リソメシヨリ広マル由西川子ハイヘリ酒色ノ二ツハ古人ノ訓戒ソナハレバ今更改メ云ニ及バズ煙草ハ酒ナドノ様ニ人ノ心ヲ蕩カス者ニハ非ラザレドモ其味辛ク其気臭クコレヲ服スル者ハ口気甚悪シ一能ヲ見ズ男女婬奔ノ媒ヲナシ動モスレバ火ヲ失シテ大ナル者ハ数千家ニ至ル然シテ今ノ失火半ハ烟火ニ属ス土地ヲ費シ糞壤ヲ食ミ金帛技巧費用甚広シ国家其失ヲ監ミ給ヒ慶長十三年令ヲ下シテ禁ジ給ヒシカドモヤマズ元和二年ニハ烟草品ニツクルコトヲ許サズ禁ヲ犯ス者ハ牢舎其処ノ代官過料五貫文其村中ノ百姓一人ニツキ過料百文宛ト命ゼラレシカドモヤマズ終ニハ高貴ノ玩トナリヌ微瘡烟草誠ニ天主ノ遺毒最ニクムベキ者也
書き下し
微瘡・相思、同じく西洋より入りて今に絶えず。かるたなどもその国の物なり。けだし煙草のその始めは、南亜墨利加の内、亜勒利西那という地あり。その海中に十八の島あり。総じてこれをまりからんだという。その内の一島、せんとへんせんとという、この島より創めて作り出せる草なり。我が国には天正の初めの頃とも、また慶長の十年に渡りしともいえり。植え始めたる事は、肥の長崎桜馬場に作りそめしより広まる由、西川子はいえり。酒色の二つは古人の訓戒そなわれば、今さら改め言うに及ばず。煙草は、酒などの様に人の心を蕩かす者にはあらざれども、その味辛く、その気臭く、これを服する者は口気甚だ悪し。一能を見ず。男女淫奔の媒をなし、ともすれば火を失して、大なる者は数千家に至る。しかして今の失火、半ばは烟火に属す。土地を費やし、糞壌を食み、金帛・技巧、費用甚だ広し。国家その失を鑑み給い、慶長十三年令を下して禁じ給いしかども、止まず。元和二年には、烟草を品につくることを許さず、禁を犯す者は牢舎、其処の代官は過料五貫文、その村中の百姓は一人につき過料百文ずつと命ぜられしかども、止まず。ついには高貴の玩びとなりぬ。微瘡・烟草、誠に天主の遺毒、最も憎むべき者なり。
現代語訳
微瘡と相思は、同じく西洋から入ってきて、今に絶えない。カルタなどもその国のものである。思うに、煙草の始まりは、南アメリカの内に亜勒利西那という地があり、その海中に十八の島がある。それをまとめてマリカランダという。その中の一島、セントヘンセントという島から、初めて作り出された草である。わが国には、天正の初めごろとも、また慶長十年に渡ったともいう。植え始めたことは、肥前の長崎の桜馬場で作り始めてから広まったと、西川子はいっている。酒と色欲の二つは、古人の訓戒が備わっているので、今さら改めて言うまでもない。煙草は、酒などのように人の心をとろかすものではないが、その味は辛く、においは臭く、これをたしなむ者は口の臭いがひどい。取り柄は一つも見えない。男女の淫らな関係の仲立ちとなり、ともすれば火事を起こして、大きな火事では数千軒に及ぶ。そして今の火事の半ばは煙草の火に属する。土地を費やし、肥やしを食い、金や布、手間もまた、費用が甚だ広い。幕府はその損失を見て、慶長十三年に令を下して禁じたが、止まなかった。元和二年には、煙草を品として作ることを許さず、禁を犯す者は牢に入れ、その土地の代官は過料五貫文、その村中の百姓は一人につき過料百文ずつと命じられたが、それでも止まなかった。ついには高貴な人の楽しみとなった。微瘡と煙草は、まことに天主教の遺した毒であり、最も憎むべきものである。
解説

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