価原 / 『価原』木綿と鉄砲と国崩しの伝来
木綿ハ桓武天皇ノ頃崑崙國ノ人持來リシガ殖セズ文祿年中ヨリ廣マリテ民生ニ益アルコト五穀ニツギ桑麻ノ上ニ出ヅ鐵鉋ハ後奈良帝天文癸卯八月薩州種子ガ島ノ主時堯コレヲ蠻人武良叔舍並ニ喜利志多陀孟太ト云二人ヨリ傳ヘ泉州堺橘屋又三郎ト云者鍛錬ノ法ヲ委シク傳ヘ今ニタエズ豐後ニハコレニ先達ツコト二年辛丑ニ當ツテフランスクスサベイト云者來リタリ是ハ西洋波邏多伽兒ト云國ノ者ニテ後天竺ニテ死シタリ唐ノ書ニハ佛來釋古者トイヘリ石火矢モコレガ豐後ニ傳ヘタリ始テウチシ時衆皆潰エナダレテ肝ヲケシタリ因テ國崩シト名付タリ武良叔舍、佛來釋古舍ハ皆一人ニテフランスクスノ轉音ナルヨシ白石先生ノ說ナリ尤據トスベシサテ人コレヲ大友亡國ノ兆トイヘリ
新字:木綿ハ桓武天皇ノ頃崑崙国ノ人持来リシガ殖セズ文禄年中ヨリ広マリテ民生ニ益アルコト五穀ニツギ桑麻ノ上ニ出ヅ鉄鉋ハ後奈良帝天文癸卯八月薩州種子ガ島ノ主時堯コレヲ蠻人武良叔舎並ニ喜利志多陀孟太ト云二人ヨリ伝ヘ泉州堺橘屋又三郎ト云者鍛錬ノ法ヲ委シク伝ヘ今ニタエズ豊後ニハコレニ先達ツコト二年辛丑ニ当ツテフランスクスサベイト云者来リタリ是ハ西洋波邏多伽児ト云国ノ者ニテ後天竺ニテ死シタリ唐ノ書ニハ仏来釈古者トイヘリ石火矢モコレガ豊後ニ伝ヘタリ始テウチシ時衆皆潰エナダレテ肝ヲケシタリ因テ国崩シト名付タリ武良叔舎、仏来釈古舎ハ皆一人ニテフランスクスノ転音ナルヨシ白石先生ノ説ナリ尤拠トスベシサテ人コレヲ大友亡国ノ兆トイヘリ
書き下し
木綿は桓武天皇の頃、崑崙国の人持ち来たりしが殖えず。文禄年中より広まりて、民生に益あること五穀に次ぎ、桑麻の上に出ず。鉄砲は、後奈良帝天文癸卯八月、薩州種子が島の主時堯、これを蛮人武良叔舎ならびに喜利志多陀孟太という二人より伝え、泉州堺の橘屋又三郎という者、鍛錬の法を委しく伝え、今に絶えず。豊後にはこれに先立つこと二年、辛丑に当たって、ふらんすくすさべいという者来たりたり。これは西洋波邏多伽児という国の者にて、後、天竺にて死したり。唐の書には仏来釈古者といえり。石火矢もこれが豊後に伝えたり。始めて打ちし時、衆皆潰えなだれて肝を消したり。よって国崩しと名づけたり。武良叔舎、仏来釈古舎は皆一人にて、ふらんすくすの転音なるよし、白石先生の説なり。もっとも拠とすべし。さて人これを大友亡国の兆しといえり。
現代語訳
木綿は桓武天皇の頃に、崑崙国の人が持ってきたが、根づかなかった。文禄年間から広まって、人々の暮らしへの益は五穀に次ぎ、桑や麻の上に出るほどになった。鉄砲は、後奈良天皇の天文癸卯の年の八月に、薩摩の種子島の領主時堯が、これを異国人の武良叔舎と喜利志多陀孟太という二人から伝えられ、和泉の堺の橘屋又三郎という者が、鍛えて作る方法を詳しく伝え、今も絶えていない。豊後には、これより二年先立つ辛丑の年に、フランスクスサベイという者が来た。これは西洋のポルトガルという国の者で、のちに天竺で死んだ。唐の書物には仏来釈古者とある。石火矢もこの人が豊後に伝えた。初めて撃ったときは、人々がみな腰を抜かして肝をつぶした。そこで国崩しと名づけた。武良叔舎、仏来釈古舎はみな同じ一人で、フランスクスがなまった音であるというのが、白石先生の説である。もっとももっともな根拠とすべきである。さて、人々はこれを大友氏が国を滅ぼす前兆だと言った。
解説

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