価原 / 『価原』自鳴鐘の始まりと天主教の渡来
慶長十五年ノ秋コノ新伊斯把儞亞ノ商船風ニ放タレテ我國ニ漂ヒ着キタリ官ヨリ其船ヲ修理シ資糧ヲ具シ放チ還サシメ給ヒシガ同ジキ十七年ノ夏其國ヨリ使船ヲ遣ハシテ恩ヲ謝シタリ其時ノ禮物トシテ自鳴鍾ヲ獻ジタリコレ自鳴鐘ノ始メナリ是等ノ類ハ傳ヘテ重寶トスル所ナリ天主敎西洋ノ人ハキリステアント云和人ハ切死丹ト云漢ニハ明ノ隆慶萬曆ノ頃泰西ノ利瑪竇ト云者明ヘワタリ浙江府ノ內ニテ荒地ノ有リケルニ一宇ヲ作リ學文シ書ナド著シ人ヲ誑シケルニ追追龐廸我ト云者又來リ金銀ナド授テススメケル故次第ニ其道廣マレリ
新字:慶長十五年ノ秋コノ新伊斯把儞亜ノ商船風ニ放タレテ我国ニ漂ヒ着キタリ官ヨリ其船ヲ修理シ資糧ヲ具シ放チ還サシメ給ヒシガ同ジキ十七年ノ夏其国ヨリ使船ヲ遣ハシテ恩ヲ謝シタリ其時ノ礼物トシテ自鳴鍾ヲ献ジタリコレ自鳴鐘ノ始メナリ是等ノ類ハ伝ヘテ重宝トスル所ナリ天主教西洋ノ人ハキリステアント云和人ハ切死丹ト云漢ニハ明ノ隆慶万暦ノ頃泰西ノ利瑪竇ト云者明ヘワタリ浙江府ノ内ニテ荒地ノ有リケルニ一宇ヲ作リ学文シ書ナド著シ人ヲ誑シケルニ追追龐廸我ト云者又来リ金銀ナド授テススメケル故次第ニ其道広マレリ
書き下し
慶長十五年の秋、この新伊斯把儞亜の商船、風に放たれて我が国に漂い着きたり。官よりその船を修理し、資糧を具し、放ち還さしめ給いしが、同じき十七年の夏、その国より使船を遣わして恩を謝したり。その時の礼物として自鳴鐘を献じたり。これ自鳴鐘の始めなり。これらの類は伝えて重宝とする所なり。天主教は、西洋の人はキリステアントといい、和人は切死丹という。漢には明の隆慶・万暦の頃、泰西の利瑪竇という者、明へ渡り、浙江府の内にて荒地のありけるに一宇を作り、学問し、書など著し、人を誑しけるに、おいおい龐廸我という者また来たり、金銀など授けて勧めける故、次第にその道広まれり。
現代語訳
慶長十五年の秋、このニュースペインの商船が風に流されて、わが国に漂着した。幕府はその船を修理し、食糧や資材を整えて、送り帰してくださったが、同じく慶長十七年の夏に、その国から使いの船を送って、恩に感謝した。そのときの贈り物として自鳴鐘を献上した。これが自鳴鐘の始まりである。これらの類は、伝わって重宝とされるものである。天主教は、西洋の人はキリスト教といい、日本人は切死丹という。中国では明の隆慶・万暦のころ、西洋の利瑪竇という者が明に渡り、浙江の内で荒れ地があったところに一つの建物を造って、学問をし、書物などを著して、人をたぶらかしていたが、そのうち龐廸我という者もまた来て、金銀などを授けて勧めたため、次第にその教えが広まった。
解説

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