価原 / 『価原』豊後の天主教と大友義鎮・禁教
此方ニテハ佛來釋古者等豐後ニテ其道ヲススメシヨリ起リテ其流ヲ汲ム如漏法師、因果居士、無逼ナド云者專此道ヲ以テ大友義鎭ヲ誘カズ大友深ク之ヲ信ジテ筑紫ノ神祠、佛院コノ時多ク毀廢ニ及ブ此事大樹光源院義輝ニ聞エ如漏法師ヲ召シ織田信長ヲシテ其法義ヲ糺サシム信長淀ノ屋鋪ニ於テ廐ノ口ニテ其狀ヲ聞キ直ニ樫ノ棒ニテコレヲ擊殺シ其首ヲ梟セラル義鎭大ニ怖レ大德寺ヨリ眞齊和尙ヲ招キ祝髮シテ休菴宗麟ト號シタリサレドモ其流波タヘズ秀吉其民ヲ惑ハスヲ恐リ文祿ノ頃伴天連六人伴類二十餘人ヲ召捕リ肥州長崎ニ於テコレヲ磔ニス因テ海外ノ市舶ヲ停メントアリケレドモ長崎ノ民歎キ請ニ因テ其事ヤミニキサレド其道ヲ誘フ者タヘズ寛永十四年凶徒肥前島原ニ聚リテ官命ヲ拒ム翌十五年春凶徒誅ニ服シヌ其後天敎ヲ奉ズル諸國ノ市舶通ズル事ヲ許サズ禁ヲ冒シテ戮ニ陷ル者前後ニ通ジテ二十八萬人其法終ニ絶タリ
新字:此方ニテハ仏来釈古者等豊後ニテ其道ヲススメシヨリ起リテ其流ヲ汲ム如漏法師、因果居士、無逼ナド云者専此道ヲ以テ大友義鎮ヲ誘カズ大友深ク之ヲ信ジテ筑紫ノ神祠、仏院コノ時多ク毀廃ニ及ブ此事大樹光源院義輝ニ聞エ如漏法師ヲ召シ織田信長ヲシテ其法義ヲ糺サシム信長淀ノ屋鋪ニ於テ厩ノ口ニテ其状ヲ聞キ直ニ樫ノ棒ニテコレヲ撃殺シ其首ヲ梟セラル義鎮大ニ怖レ大徳寺ヨリ真斉和尚ヲ招キ祝髪シテ休菴宗麟ト号シタリサレドモ其流波タヘズ秀吉其民ヲ惑ハスヲ恐リ文禄ノ頃伴天連六人伴類二十余人ヲ召捕リ肥州長崎ニ於テコレヲ磔ニス因テ海外ノ市舶ヲ停メントアリケレドモ長崎ノ民嘆キ請ニ因テ其事ヤミニキサレド其道ヲ誘フ者タヘズ寛永十四年凶徒肥前島原ニ聚リテ官命ヲ拒ム翌十五年春凶徒誅ニ服シヌ其後天教ヲ奉ズル諸国ノ市舶通ズル事ヲ許サズ禁ヲ冒シテ戮ニ陥ル者前後ニ通ジテ二十八万人其法終ニ絶タリ
書き下し
こなたにては、仏来釈古者ら豊後にてその道を勧めしより起こりて、その流れを汲む如漏法師・因果居士・無逼など言う者、専らこの道をもって大友義鎮を誘かす。大友深くこれを信じて、筑紫の神祠・仏院、この時多く毀廃に及ぶ。この事、大樹光源院義輝に聞こえ、如漏法師を召し、織田信長をしてその法義を糺さしむ。信長、淀の屋敷において、廐の口にてその状を聞き、直ちに樫の棒にてこれを撃ち殺し、その首を梟せらる。義鎮大いに怖れ、大徳寺より真斎和尚を招き、祝髪して休菴宗麟と号したり。されどもその流れ絶えず。秀吉、その民を惑わすを怒り、文禄の頃、伴天連六人、伴類二十余人を召し捕り、肥州長崎においてこれを磔にす。よって海外の市舶を停めんとありけれども、長崎の民歎き請うに因りて、その事止みにき。されどもその道を誘う者絶えず。寛永十四年、凶徒肥前島原に聚まりて官命を拒む。翌十五年春、凶徒誅に服しぬ。その後、天教を奉ずる諸国の市舶通ずることを許さず。禁を冒して戮に陥る者、前後に通じて二十八万人、その法ついに絶えたり。
現代語訳
わが国では、仏来釈古者らが豊後でその教えを勧めたことから始まり、その流れを汲む如漏法師、因果居士、無逼などという者が、もっぱらこの教えで大友義鎮を誘った。大友氏は深くこれを信じて、筑紫の神社や寺院が、このころ多く壊し捨てられるに至った。この事が将軍光源院義輝の耳に入り、如漏法師を召して、織田信長にその教えの内容を問いただすことを命じた。信長は淀の屋敷で、馬屋の入り口でその様子を聞き、すぐに樫の棒で打ち殺し、その首をさらした。義鎮は大いに恐れ、大徳寺から真斎和尚を招いて、髪を剃り、休菴宗麟と名乗った。それでもその流れは絶えなかった。秀吉は、民を惑わすことを怒り、文禄のころ、伴天連六人とその仲間二十余人を召し捕らえ、肥前の長崎で磔にした。そこで海外の商船を止めようとしたが、長崎の民が嘆いて願い出たので、その事は止んだ。それでもその教えを誘う者は絶えなかった。寛永十四年、凶徒が肥前の島原に集まって、幕府の命令に逆らった。翌十五年の春、凶徒は討たれて服した。その後、天主教を信奉する国々の商船が通うことを許さず、禁を犯して殺された者は、前後を合わせて二十八万人で、その教えはついに絶えた。
解説

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