回天詩史 / 先子の北辺の志・洋夷の渡来と禁教の来歴
但時見帆影於遠洋窅冥之中耳。夫西北虜情之可惡。非一朝一夕之故也。天文以來。洋夷(天文十二年癸卯八月。南蠻人航海抵大隅國種子島。始傳鳥銃。蓋是爲洋吏窺覦我之始。當時稱南蠻者。蓋伊斯把爾亞。波留杜瓦留之類。併南蠻諸國。其針路皆自南方。故通稱南蠻。其實洋夷也)乘戰國擾亂。屢航海而來。漸布其邪敎。至弘治永祿間。若大友宗麟小西攝津守。亦奉其法。而布之於國中。織田氏亦嘗試其法。而其聰明忽察其姦邪。欲禁其敎而不果。豐臣氏始設其禁。務驅除邪敎之徒。而洋夷狡黠。潛匿各所者未盡除也。東照宮深察其害。大令於天下。搜索追捕。命板倉伊賀守山崎長門守。按驗畿內及諸國。苟奉其法者。皆執而斬之於五條河原。旣而又毀其敎寺在長崎及各所者。破碎其佛像及什物。而邪敎之蠱惑民心者。牢固不拔。至於寬永年間。遂有島原之變。內地之民。以奉邪敎遭刑戮者至是前
新字:但時見帆影於遠洋窅冥之中耳。夫西北虜情之可悪。非一朝一夕之故也。天文以来。洋夷(天文十二年癸卯八月。南蠻人航海抵大隅国種子島。始伝鳥銃。蓋是為洋吏窺覦我之始。当時称南蠻者。蓋伊斯把爾亜。波留杜瓦留之類。併南蠻諸国。其針路皆自南方。故通称南蠻。其実洋夷也)乗戦国擾乱。屡航海而来。漸布其邪教。至弘治永禄間。若大友宗麟小西摂津守。亦奉其法。而布之於国中。織田氏亦嘗試其法。而其聰明忽察其姦邪。欲禁其教而不果。豊臣氏始設其禁。務駆除邪教之徒。而洋夷狡黠。潜匿各所者未尽除也。東照宮深察其害。大令於天下。捜索追捕。命板倉伊賀守山崎長門守。按験畿内及諸国。苟奉其法者。皆執而斬之於五条河原。既而又毀其教寺在長崎及各所者。破砕其仏像及什物。而邪教之蠱惑民心者。牢固不抜。至於寛永年間。遂有島原之変。内地之民。以奉邪教遭刑戮者至是前
書き下し
但だ時に帆影を遠洋窅冥の中に見るのみ。夫れ西北の虜情の悪むべきは、一朝一夕の故に非ず。天文以来、洋夷(天文十二年癸卯八月、南蛮人航海して大隅国種子島に抵り、始めて鳥銃を伝ふ。蓋し是れ洋吏の我を窺覦するの始めと為す。当時南蛮と称するは、蓋し伊斯把爾亜・波留杜瓦留の類、併せて南蛮諸国なり。其の針路は皆南方より、故に通称して南蛮と曰ふ。其の実は洋夷なり)、戦国の擾乱に乗じ、屢々航海して来たり、漸く其の邪教を布く。弘治・永禄の間に至り、大友宗麟・小西摂津守の若き、亦た其の法を奉じて之を国中に布く。織田氏も亦た嘗て其の法を試みる。而れども其の聡明は忽ち其の姦邪を察し、其の教を禁ぜんと欲して果たさず。豊臣氏は始めて其の禁を設け、務めて邪教の徒を駆除せしも、洋夷の狡黠にして、各所に潜匿する者は未だ尽くは除かざるなり。東照宮は深く其の害を察し、大令を天下に下す。捜索追捕せしめ、板倉伊賀守・山崎長門守に命じて、畿内及び諸国を按験せしむ。苟も其の法を奉ずる者は、皆執へて之を五条河原に斬る。既にして又其の教寺の長崎及び各所に在る者を毀ち、其の仏像及び什物を破砕す。而れども邪教の民心を蠱惑する者は、牢固として抜けず。寛永年間に至り、遂に島原の変有り。内地の民、邪教を奉ずるを以て刑戮に遭ふ者、是に至りて前
現代語訳
ただ、時おり遠い洋上の薄暗いあたりに、帆の影が見えるだけになりました。そもそも西北の異国の様子が憎むべきものであることは、一朝一夕のことではありません。天文年間以来、洋夷は(天文12年癸卯の8月、南蛮人が航海して大隅国種子島に至り、初めて鉄砲を伝えました。これはおそらく、西洋の官吏がわが国をうかがい狙う始まりでしょう。当時、南蛮と呼んだのは、イスパニア・ポルトガルの類、あわせて南蛮諸国のことです。その航路はみな南方からだったので、通称として南蛮と呼びました。実際には洋夷です)戦国の乱れに乗じて、しばしば航海して来て、しだいに邪教を広めました。弘治・永禄の間には、大友宗麟や小西摂津守のような者が、その教えを奉じて領内に広めました。織田氏もかつてその教えを試みました。しかし、その聡明さですぐにその邪悪さを察し、その教えを禁じようとしましたが、果たせませんでした。豊臣氏が初めてその禁令を設け、邪教の徒を駆除することに努めましたが、洋夷は狡猾で、各所に潜み隠れている者を残らず除くことはできませんでした。東照宮(家康)は深くその害を察し、大令を天下に下しました。捜索・追捕させ、板倉伊賀守・山崎長門守に命じて、畿内および諸国を調べさせました。もしその教えを奉じる者がいれば、すべて捕らえて五条河原で斬りました。やがて、その教寺で長崎や各所にあるものを取り壊し、その仏像や道具類を破砕しました。しかし、邪教が民心を惑わすことは強固で、抜き去ることはできません。寛永年間に至り、ついに島原の変がありました。内地の民で、邪教を奉じたために刑罰を受けて殺された者は、ここに至って前
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『新論』虜情豊臣氏に至りて、胡僧及び愚民の夷教に汚るる者を駆りて、尽く諸を海外に出だす。東照宮興りて、禁を設くること殊に厳なり。故に伊斯把・諳厄利諸蕃の相踵いで至る有りと雖も、卒に夷教を以て入ること能はず(東照宮嘗て西宗真なる者を西洋に遣はし、三年にして還る。台徳公も亦揖斐某を遣はして西洋に至らしめ、七年にして還る。皆虜情を探偵する所以にして、蓋し此に由りて審らかに異言を識ると云ふ。痛く之を禁絶する所以なり。大猷公も亦嘗て訳官を遣はして天竺に往き、精舎を視しむ。疑ふらくは亦深意有らん)。寛永の初め、令を下して胡神の像を鋳、愚民の過ちを悔いて正に帰する者をして足もて之を踏ましむ。外夷も亦自ら脱するを得ざるを度り、長崎を望みて股栗す。清人の或いは胡神の堂を毀たんと欲するも、亦之を引きて以て言を為す(西湖志・台湾志等の載する所、大約此くの如し)。国家の興隆には天も亦之を保佑す。故に時に島原の賊起こりて、天下の邪徒を一城に聚め、一掃して之を殲す。余燼再び燃ゆることを得ざるは、実に此に由るなり。
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『回天詩史』・蝦夷の備え・蝦夷の備えと北門の鎖鑰後二十八万人と云ふ。其の禍毒、勝げて言ふべけんや。大猷公は東照宮の旧典を脩め、益々邪教の禁を明らかにし、又始めて外夷の禁を設く。凡そ蟹文の国は一切拒絶して、復た窺窬するを得ず。独り和蘭の教法の西洋諸夷と其の宗を異にするを以て、特に長崎に往来し有無を通ずるを許し、以て洋夷の間諜と為し、歳々其の西洋の事情を書して以て府に上らしむ。然れども虜の桀驁冥頑なる者、猶ほ或いは禁を犯して来たる者、啻に一再ならず。当時国威方に熾んにして、必ず其の船を火きて其の人を磔にし、噍類有る無し。洋夷寒胆して辺陲を窺はざること、百数十年。承平日久しく、武備稍々弛む。是に於いて鄂諳夷復た我に垂涎す。而るに我は一日の安を苟くし、或いは諭して之を還し、其の甚だしきに至りては、薪水・米菓を給して之を還す。乙酉の令微かりせば、則ち東照・大猷二公の貽謀、殆ど荒れなん。我が納言公は夙に慨然として攘夷の志有り、深く祖宗の意を体し、又洋夷の謀を洞察し、以為らく、夷の海上に出没するは、禍心測られず、其の守備は厳ならざるべからず。然れども仮使彼れ沿海の地を侵し、我が廬舎を焼き、我が人民を害すとも、勢ひ久しく内地に住まる得ず。又仮使彼れ内地に据りて要害を守らば、我が人心は憤怒激昂して勇気百倍す。苟も将帥たる者、善く其の鋒を用ゐ、機に因りて変を制し、我が長ずる所を以て彼の短なる所を衝かば、則ち我れ以て大捷を得べし。抑も又彼をして日々海上数十里の間に往来し、艦を連ね砲を鳴らし、虚声を張りて以て内地を震驚せしむとも、其の始めや濱海騒擾して奔命に堪へず、其の終はりや肅然として動かざるに過ぎず、彼をして自ら往来に疲れしむ。要するに彼の勢ひ、陸地に上りて勝敗を決せざるを得ず。則ち我れ亦た以て志を逞しくすべし。是に由りて言へば、虜の海上に出没するは、悪むべからざるに非ざれども、其の禍は甚だ大ならず。今夫れ蝦夷地方は神州北門の鎖鑰なり。而して之を一小諸侯に委ね、諸侯又之を商賈に委ね、以て互市権場の利を貪る。今鄂夷既に府を加模沙徒加に開き、又進みて宇留図不に拠る。其の先鋒既に我が恵登呂府の北に逼る。(宇留図不の地は、蝦夷人嘗て漁猟の場と為す。既にして鄂夷も亦た来たりて互ひに漁猟す。今鄂夷は廬舎を作り、専ら其の地に拠り、蝦夷人は復た往くを得ずと云ふ。寛政戊午、幕府は近藤十蔵守重をして蝦夷を按ぜしむ。北のかた恵登呂府に到るに、鄂夷既に其の十字柱を是の地に建つ。時に我が水戸の木村謙、守重に従ひて行く。守重、謙に命じて十字柱を抜き、易ふるに木標を以てせしむ。謙は執りて大いに書す、大日本恵登呂府、と。今を距つること四十七年にして、鄂夷の用心、既に此くの如し。嗚呼孰(たれ)か北虜に南を図るの志無しと謂はんや)万一彼れ稍々蠶食し、
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『新論』虜情各国益々強梁なるに及びて、乃ち始めて中国を覬覦す。其の首めて内地に入る者は波爾杜瓦なり。波爾杜瓦は伊斯把の属国にして、天文・弘治の間張ること甚だしく、南海の諸島を略し、新たに海東の地を闢くこと最も多し。次を以て豊薩の諸国に来たりて夷教を唱へ、蠢氓を煽動す。而して土を有つ者も亦往々にして欺罔せらる。大友・小西の徒、首めて之に帰向し、織田氏も亦嘗て寺を京師に創りて、以て胡僧を延く。其の法漸く中州に浸淫し、夷輩因りて困窮を賑恤して、務めて民心を収む。織田氏其の異図有るを暁り、胡寺を毀ち胡僧を逐はんと欲して、未だ果たさずして世を即く(織田氏の胡寺を創るや、其の臣刑部正則諌むれども聴かず。蓋し用ひて以て隣国を傾けんと欲す、邪徒を遣はして荒木の君臣を離間するが如き是なり。既にして自ら悔いて曰く、凡そ仏を信ずる者は、檀家財物を奉じて、以て僧侶に布施す。未だ僧の檀家に奉ずるを聞かざるなり。且つ其の初め来たるや、貿易を以て名と為す。今利を収むることを為さずして、賑恤是れ務む、必ず将に人の国家を傾けんとす、正則の言果たして験ありと)。
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『退食閑話』・邪教の禁と実の事他國には一向專念の徒横行して、加越歴世の邦君も是が爲に滅亡す、長島石山等の一揆には、織田殿の英明なるすら大に手を摧き、土呂針崎の亂には、參河武士の忠義の名を天下に得るすら、君父に對して弓矢を執り、西洋の邪徒來りしに及むてば、詭術を以て民心を迷し、 神明の邦を變じて狄夷の屬とせんことを謀る、然るに、織田殿山門以下諸國の惡僧を討ち平げ、西洋の姦謀を覺り、邪徒をも卻げんとす、豐臣家邪徒を海外に逐ひ退け、 東照宮に至りては邪徒の禁いよ〱嚴にして、其後寛永の時に至りて盡く是を殄滅して、遂に其根柢を絶給ふ、此段外夷も傳聞て曰、日本人は三眼有りとて、震ひ恐れしとなり、是又神明の敎正しく、人倫の道は天地の間に廢すべからざる自然の大道なるによりて、再び正しき道に反り、夷狄も卒服すべき道理にあらずや、然れば、 寳祚の無窮、國體の尊嚴、蒼生の安寧、戎狄の卒服、何れも空言にあらず、其實事これありしなり、
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『回天詩史』・神皇の道と中葉以降・中葉以降の衰えと異端排斥の功尤も祭祀を重んじ、之を政教に配す。而るに釈氏は既に祭祀の権を奪ひ、之を朝野に用ゐ、之を政教に施す。神皇の道は僅かに祠官に委ね、周孔の教は降りて博士の業と為る。皇風の振はず、大道の明らかならざるは、職として是れに由る。中葉以降、皇綱解紐し、権は藤氏に帰す。藤氏衰へて平氏盛んに、平氏滅びて源氏興り、而して兵馬の権は、遂に武人に帰す。後醍醐天皇は陪臣の跋扈を憤り、英偉の略を奮ひ、忠義の力を藉り、天下翕然として、再び太平の隆を仰望す。而るに中興は遂げず、併せて其の政柄・兵権は覇府の有と為る。其の間、政体は万変し、運に汚隆有り。而して皇室の衰へし所以は、未だ嘗て大義明らかならず人心正しからず、異端邪説の風俗を蠱惑するの故に由らずんばあらず。応仁以来、海内麻のごとく乱れ、豪傑並び争ふ。民の塗炭に苦しむこと亦た甚だし。織田右府は雄断果決にして、深く仏氏の害を悪み、伽藍を焼き僧徒を戮す。天台・浄土は胆奪はれ気索く。我が東照宮は聡明英武にして、民を水火より救ひ、以て太平の基を開き、洞に西洋邪教の害を察して其の禁令を厳にす。大猷公は其の遺緒を脩め、一切狡黠の夷類を拒絶す。二公の邪教に於けるや、芟夷駆除し、夷戮殄滅して、永く其の根本を絶ち、種を神州に遺さしめず。其の功烈、豈に大ならずや。我が義公も亦た異端の風俗を傷ふを悪み、大いに淫祠を廃し、奸僧を逐ふ。其の仏寺を毀つこと、千を以て数ふ。今納言公、其の緒を脩め、又僧を逐ひ寺を毀つこと若干。蓋し欽明帝の伽藍を焼き仏像を毀ちしより千百余年、而して始めて織田氏有り。尋いで東照・大猷二公有り。又尋いで義公有り。又百数十年にして納言公有り。東照・大猷二公の功烈は、敢へて賛する所に非ざるなり。而して納言公と義公とは、覇府の権・将軍の威有るに非ず、僅かに東藩弾丸の地を守り、千余年の宿弊を一国一郡の間に除かんと欲す。其の勢ひ実に難し。織田氏は其の権威有りと雖も、禍毒の由りて来たる所を察せず、徒らに兵力を以て之を鋤かんと欲す。抑も亦た難し。欽明帝に至りては、則ち其の禍は猶ほ小に、其の毒は猶ほ浅し。苟も当時をして芟夷駆除すること、慶長・寛永の洋教に於けるが若くせしめば、則ち蘇我驕ると雖も、僧徒狡なりと雖も、将に
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『慎思録』巻之三本邦の民は、素より学識無くして、生死輪廻の説を信ず。且つ奇異を好みて、平常を厭ふ者は、俗人の通情なり。是を以て邪術を好みて、正道を悪む。此れ天主の教の入り易く迷ひ易くして、聖人の道の暁り難く明らかにし難き所以なり。苟も厳禁重刑有るに非ずんば、則ち闔国の人、咸彼の為に陥溺せらるること必せり。然らば則ち本邦尽く妖邪の徒、凶逆の賊と為り、其の害挙げて言ふべからず。豈に特に被髪左衽のみならんや。近世彼の説を奉ずる者は、豊州の牧大友宗麟を以て最先と為す。其の統領する所の州郡に於けるや、宗廟を毀ち神祠を火き、殆ど亡滅して尽く。其の余の彼の教を宗とする者の為す所も、往往皆是の如し。苟も天下の人牧をして禁防せずして、其の為す所に任せしめば、則ち吾が邦振古以来建つる所の宗廟社稷、及び后世祭祀する所の海内の神祠、弾尽して余り無からん。明君の禁防有るに頼りて、天下後世斯の禍を免れ、民長く其の賜を受く。豈に億兆の大幸に非ずや。定めて知る、此の禁防の厳制、万世に至るまで、改変有るべからざることを。詩に云ふ、愆らず忘れず、旧章に率ひ由る、と。此の謂なり。

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