価原 / 『価原』金銀の権を正し本を問う道
是故ニ財ヲ生ズル大道生之者衆シトハ天下ノ財日日地ヨリ出デテ民生ノ用ヲナス物ナリ其品ハ水穀魚鹽ヲ始トシ麻絮竹木等ノ類ヨリ工人ノ造リ出セル物ナリ夫權ヲ執ル人ハ輕重己カ手ニ從フムカシ亂世武猛ノ俗モ今ハ昇平游惰ノ民トナレリ是ニ由テ思ヘバ今タトヒ權金銀ニ歸シタリトモ大有力ヲシテ衡ヲ持セシメバ終ニ其鍾ヲ移シ人儉勤ニ復リ廉耻禮讓ノ風興ルモナドカ難カラン輕重ニ從ツテ權ヲ移ス人ハ其病根ヲシルニアリモシ其本ニ本ヅカズ唯金銀ヲ增減シテ其平ヲ持セントナラバ懸ル者ノ重キヲ見テ錘ヲ重クシ輕キヲ見テ錘ヲ輕クスルノ道ニシテ無術ト謂ツベシ宋ノ頃錢ヒタスラニ增ス程ニ後ハ小ク輕クナリテ綎環錢トテ縷ニ貫キ水ニ入ルレバ縷ニ引レテ沈ミヤラヌ程ニナリ物ノ價シキリニ貴クナリテ後ニハ一斗ノ米價一萬錢ニイタリシトカヤ近年錢ハ鐵トナリ銀ハ鈔トナル程物價騰躍スル者綎環錢ト同意ニテ衡傾キシ故ナルベシモシ其柄ヲ正サズシテ其低昂ニ從ントナラバ金銀愈多クシテ富家ハ則愈金ヲ積ミ貧家ハ則愈債ヲ重ネン惡幣盛ンニ世ニ行ハルレバ精金皆隱ル
新字:是故ニ財ヲ生ズル大道生之者衆シトハ天下ノ財日日地ヨリ出デテ民生ノ用ヲナス物ナリ其品ハ水穀魚塩ヲ始トシ麻絮竹木等ノ類ヨリ工人ノ造リ出セル物ナリ夫権ヲ執ル人ハ軽重己カ手ニ従フムカシ乱世武猛ノ俗モ今ハ昇平游惰ノ民トナレリ是ニ由テ思ヘバ今タトヒ権金銀ニ帰シタリトモ大有力ヲシテ衡ヲ持セシメバ終ニ其鍾ヲ移シ人倹勤ニ復リ廉耻礼譲ノ風興ルモナドカ難カラン軽重ニ従ツテ権ヲ移ス人ハ其病根ヲシルニアリモシ其本ニ本ヅカズ唯金銀ヲ增減シテ其平ヲ持セントナラバ懸ル者ノ重キヲ見テ錘ヲ重クシ軽キヲ見テ錘ヲ軽クスルノ道ニシテ無術ト謂ツベシ宋ノ頃銭ヒタスラニ增ス程ニ後ハ小ク軽クナリテ綎環銭トテ縷ニ貫キ水ニ入ルレバ縷ニ引レテ沈ミヤラヌ程ニナリ物ノ価シキリニ貴クナリテ後ニハ一斗ノ米価一万銭ニイタリシトカヤ近年銭ハ鉄トナリ銀ハ鈔トナル程物価騰躍スル者綎環銭ト同意ニテ衡傾キシ故ナルベシモシ其柄ヲ正サズシテ其低昂ニ従ントナラバ金銀愈多クシテ富家ハ則愈金ヲ積ミ貧家ハ則愈債ヲ重ネン悪幣盛ンニ世ニ行ハルレバ精金皆隠ル
書き下し
この故に財を生ずる大道、生ずる者衆しとは、天下の財日々地より出でて民生の用をなす物なり。その品は水穀魚塩を始めとし、麻絮竹木等の類より、工人の造り出せる物なり。夫れ権を執る人は軽重己が手に従う。昔、乱世武猛の俗も、今は昇平遊惰の民となれり。これによりて思えば、今たとい権金銀に帰したりとも、大有力をして衡を持たしめば、ついにその鍾を移し、人倹勤に復り、廉恥礼譲の風興るもなどか難からん。軽重に従って権を移す人は、その病根を知るにあり。もしその本に本づかず、ただ金銀を増減してその平を持せんとならば、懸かる者の重きを見て錘を重くし、軽きを見て錘を軽くするの道にして、無術と謂いつべし。宋の頃、銭ひたすらに増すほどに、後は小さく軽くなりて、綎環銭とて縷に貫き水に入るれば、縷に引かれて沈みやらぬほどになり、物の価しきりに貴くなりて、後には一斗の米価一万銭に至りしとかや。近年、銭は鉄となり、銀は鈔となるほど、物価騰躍する者、綎環銭と同意にて、衡傾きし故なるべし。もしその柄を正さずして、その低昂に従わんとならば、金銀いよいよ多くして、富家は則ちいよいよ金を積み、貧家は則ちいよいよ債を重ねん。悪幣盛んに世に行わるれば、精金みな隠る。
現代語訳
このため、財を生ずる大道(大学)に言う「生ずる者は衆し」とは、天下の財が日々地から出て、民の暮らしの用をなす物のことである。その品は、水・穀・魚・塩をはじめ、麻・綿・竹・木などの類から、職人が作り出す物までである。そもそも権(秤の力)を握る人は、物の軽重を己が手の内に従わせる。昔は乱世で武猛だった風俗も、今は太平で遊びなまける民となった。これによって思えば、今たとえ権が金銀に移ったとしても、大きな力を持つ者に秤を持たせれば、ついにその重りを動かし、人が倹約と勤労に立ち返り、廉恥礼譲の風が興ることも、どうして難しいだろうか。軽重に従って権を移す人は、その病の根を知ることにある。もしその根本に基づかず、ただ金銀を増減して釣り合いを保とうとするなら、掛けた物が重ければ重りを重くし、軽ければ重りを軽くするやり方であって、術がないというべきである。宋の頃、銭をひたすら増やしたので、後には小さく軽くなり、綎環銭といって、紐に通して水に入れれば紐に引かれて沈みきらないほどになり、物の値がしきりに高くなって、ついには一斗の米の値が一万銭に至ったという。近年、銭は鉄となり、銀は紙幣となるほど、物価が跳ね上がるのは、綎環銭と同じ意味で、秤が傾いたからであろう。もしその柄を正さず、上がり下がりに従おうとするなら、金銀がいよいよ多くなって、富家はいよいよ金を積み、貧家はいよいよ債務を重ねるだろう。悪い貨幣が盛んに世に行われれば、良質の金はみな隠れてしまう。
解説

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『翁問答』下卷之末嫂溺は非常の変にしてこれをすくふ礼法なければ、嫂溺るるときに之を援くるに手を以てするは礼なりといはずして権なりといへり、権は道の総名なれば、権即ち道、道即ち権なる故に、道也といはんために権也といへるなり、此章、男女授受するに親らせざるは礼なり、嫂溺るるときに之を援くるに手を以てするは道なりとならば、経に反して道に合ふの見あやまりあるまじ、権也といへるによつて、権の字になずみてうたがひあるなり、此章の主意、礼と権との弁をあかすにあらず、儒者の道は法におちずあとになづまず、上天時に律り下水土に襲て至善に止を本とすることを開示するものなり、淳于髡をのれが私心をもて孟子にうかゞひ、孟子は当時の諸侯の無礼をにくみつかへめされざるを見て、礼法になづみたる人なりと思ふによつて、嫂溺の事を寓言して孟子を諷したり、しかる故に孟子儒者の道は専権をもて主本として物に凝滞せず迹になづまず、活溌なることをしらしめて、その迷ひをとかんために道とはいはずして権也と論じめされたり。
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『弁名』經權先儒曰く、「湯武の放伐、伊尹の太甲を放つが如き、是れ権なり」と。仁斎先生曰く、「伊尹の太甲を放つが若きは、固より是れ権なり。湯武の放伐の如きは、之を道と謂ふべく、之を権と謂ふべからず」と。妄なるかな。所謂権とは、舜の告げずして娶るが如き是なり。伊尹の太甲を放つは、大臣の道爲り、豈に之を権と謂ふを得んや。湯武の放伐は、聖人の事なり。聖人は道の出づる所なり、故に古は湯武を論ずる者無し。後世の儒者は傲然として自ら高くし、聖智を以て自ら処り、妄りに意ふに道は天地に先だちて生ず、と。故に是の妄説有り。豈に僭ならずや。
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『翁問答』下卷之末体充曰、子曰く、与に共に学ぶべし、未だ与に道に適くべからず、与に道に適くべし、未だ与に立つべからず、与に立つべし、未だ与に権るべからず、此聖謨を以て見れば、権は初学の取さたすべきことにあらずと存候はいかゞ。師の曰、此聖謨は学者の面々のいたる所の位をよしと画して上達の志あつからざるをいましめ引たてたまふ主意なり、初学の者権を取さたすべからずとのたまふにはあらず、可与共の学は、即ち此権の道をまなぶ学なり、可与適の道も、即ち此権の道なり、可与立の道も即ち此権の道なり権の外に道なし、道の外に権なし、権の外に学なく学の外に権なし、但その受用に生熟、大小、精粗の差別あるのみ、しかる故に此聖謨の主意は、工夫成就の次第をあかして至極無上の神道を指出して、学者の準的を示たまふものなり、孟子性善を道ひ、言へば必ず堯舜を称す、公明儀曰く、文王は我が師なり、周公豈我を欺かんや、かくの如きの賢範をよく体験して明に弁知べし、若この準的をしらざるときは心学の徒なりとも、欣真落法の地に執滞して、非礼の礼多あるべし。
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『翁問答』下卷之末大賢以下の人は気質の累ありて明徳くらく、権をおこなふこと能はざる故に、聖人天下のために礼法を定たまふ、此礼法もすなはち権の道なれ共、すでに法に定ぬれば迹ありて変通の活溌なきによつて、権といはずして礼法といふなり、此意をしらず徒に礼法の迹を真実の道なりと心得て、聖人立法の本意権道の妙をさとらずして、礼法になずみて専にとりおこなひ、時中の神理にそむくをば、非礼の礼となづけて君子のせざる所なり、此非礼の礼をも真実の礼なりと迷ひたる人、聖賢の行迹礼法にちがひたるを見てうたがひをなし、礼と権は各別なりなど、得心するなり、此権の字の精義をしらざれば、心学に志ありて致知力行をはげますと云とも、必欣真落法の地にまよふべし、大学の能慮は此権を詳に分別する工夫なり、能得は此権を得心受用するものなり、法ありて法にあらず、在ゆるところなくして在ざる所なく、定ところなくして定らざる処なき権字の理味を、よくよく体認すべし。
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『翁問答』下卷之末体充曰、洪氏曰く、権は聖人の大用なり、未だ立つこと能はずして権を言ふは、猶ほ人の未だ立つこと能はずして行かんと欲するがごとし、仆れざること鮮し、此格言にて見申候へば、先生の教等をこゆる弊あるべしと存候いかゞ。師の曰、此格言は権を工夫のめあてとすることをいましむるにあらず、権の理味を心得ちがへて道のそこなひとなる人をいましめたる主意なり、権の理味を心得そこなひて道のさはりとなる人、二しなあり、一には狂見に入たる人、権道の法におちず迹になづまざる面影を見付、中庸精微の矩をわきまへず、無欲の心にまかせてあとになずまず、法におぢざるを至極の道として、神道の権にそむけり、禅を学ぶ人此心地にまよへりこれは権の体段徹頭徹尾ことごとく中庸精微の神理にして法におぢず迹になづまざるを権の景象なることをさとらず、影を認て形とする誤なり、