十八史略 / 『十八史略』後趙・石勒・石勒の自己評価と読書
後趙石勒稱天王尋稱帝嘗大饗群臣問曰朕可方古何主或曰過於漢高勒笑曰人豈不自知卿言太過若遇高帝當北面事之與韓彭比肩耳若遇光武當並驅中原未知鹿死誰手大丈夫行事當磊磊落落如日月皎然終不效曹孟德司馬仲達欺人孤兒寡婦狐媚以取天下也勒雖不學好使人讀書而聽之時以其意論得失聞者悅服嘗聽讀漢書至酈食其勸立六國後驚曰此法當失何以遂得天下及聞張良諫乃曰賴有此耳
新字:後趙石勒称天王尋称帝嘗大饗群臣問曰朕可方古何主或曰過於漢高勒笑曰人豈不自知卿言太過若遇高帝当北面事之与韓彭比肩耳若遇光武当並駆中原未知鹿死誰手大丈夫行事当磊磊落落如日月皎然終不効曹孟徳司馬仲達欺人孤児寡婦狐媚以取天下也勒雖不学好使人読書而聴之時以其意論得失聞者悦服嘗聴読漢書至酈食其勧立六国後驚曰此法当失何以遂得天下及聞張良諫乃曰頼有此耳
書き下し
後趙の石勒、天王を称し、尋いで帝を称す。嘗て大いに群臣を饗し、問いて曰く、朕は古の何れの主に方ぶ可きか、と。或るひと曰く、漢の高祖に過ぐ、と。勒、笑いて曰く、人、豈に自ら知らざらんや。卿の言は太だ過ぎたり。若し高帝に遇わば、当に北面して之に事え、韓信・彭越と肩を比ぶるのみ。若し光武に遇わば、当に中原に並び駆け、未だ鹿の誰が手に死ぬかを知らず。大丈夫の事を行うは、当に磊磊落落として日月の如く皎然たるべし。終に曹孟徳・司馬仲達が人の孤児寡婦を欺き、狐媚して以て天下を取るを効わざるなり、と。勒、学ばずと雖も、好みて人をして書を読ましめて之を聴き、時に其の意を以て得失を論ず。聞く者、悦服す。嘗て漢書を読むを聴き、酈食其の六国の後を立てんことを勧むるに至り、驚きて曰く、此の法は当に失うべし。何を以て遂に天下を得たるや、と。張良の諫むるを聞くに及び、乃ち曰く、此れ有るに頼るのみ、と。
現代語訳
後趙の石勒は天王を名乗り、のちに皇帝と称しました。ある時、大宴会を開いて群臣に尋ねました。「朕は昔のどの君主に並べるだろうか」。ある者が「漢の高祖をも超えます」と答えると、石勒は笑って言いました。「人は自分のことをよく分かっているものだ。そなたの言は大げさすぎる。もし高祖に会えば、臣下として仕え、韓信や彭越と肩を並べる程度だろう。もし光武帝に会えば、中原で並んで駆け、鹿が誰の手に落ちるかは分からないというところだ。大丈夫の行いは、日月のようにさっぱりと明るくあるべきで、決して曹操や司馬懿のように、孤児や寡婦をだまして天下を取る真似はしない」。石勒は学問はありませんでしたが、人に書物を読ませて聴くことを好み、時に自分の考えで得失を論じ、聞く者を感服させました。ある時、漢書の朗読を聴き、酈食其が六国の後裔を立てるよう勧める箇所に来ると、驚いて言いました。「この方法は失敗する。どうして天下を取れたのか」。張良が諫めたと聞くと、「この人がいてくれたからだな」と言いました。
解説

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十八史略・『十八史略』漢・高祖・高祖が天下を取った理由酒を洛陽の南宮に置く。上曰く、徹侯・諸将、皆言え。吾の天下を得し所以の者は何ぞ、項氏の天下を失いし所以の者は何ぞ、と。高起・王陵対えて曰く、陛下は人をして城を攻め地を掠めしめ、因りて之に与え、天下と其の利を同じうす。項羽は然らず、功有る者は之を害し、賢者は之を疑い、戦い勝ちて人に功を予えず、地を得て人に利を与えず、と。上曰く、公は其の一を知りて、未だ其の二を知らず。夫れ籌を帷幄の中に運らし、勝ちを千里の外に決するは、吾、子房に如かず。国家を填め、百姓を撫し、餽餉を給して、糧道を絶たざるは、吾、蕭何に如かず。百万の衆を連ね、戦えば必ず勝ち、攻むれば必ず取るは、吾、韓信に如かず。此の三人は、皆人傑なり。吾能く之を用う。此れ吾の天下を取りし所以なり。項羽は一范増有れども用うる能わず。此れ其の我が禽と為りし所以なり、と。群臣悦服す。
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『長短経』覇図石勒なる者は、上党の羯胡なり。趙に拠る。幽州牧王浚、百官を署置す。勒、并呑の意有り、先ず使いを発して以て之を観んと欲す。議する者僉な曰く「宜しく羊祜・陸抗の事の如く、亢書して相い聞ゆべし」と。時に張賓、疾有り。勒、就きて之を謀る。賓曰く「王浚は三部の力を仮り、南面を称せんと図る。晋の藩と曰うと雖も、実は僭逆の志を懐く。必ず英雄と協し、事業を図り済さんことを思わん。将軍は威、海内に振るう。去就は存亡と為り、所在は軽重と為る。浚の将軍を欲するは、猶お楚の韓信を招くがごとし。今、権譎して使いを遣わすも、誠款の形無くんば、脱り猜疑を生じ、之を図るの兆露れなば、後に奇略有りと雖も、設くる所無からん。夫れ大事を立つるは、必ず先ず之が為に卑くす。当に藩と称して推奉すべし。尚お信ぜられざるを恐る。羊・祜の事は、臣、未だ其の可なるを見ざるなり」と。勒曰く「君侯の計、是なり」と。
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『長短経』覇図子春曰く「石将軍は英才俊抜、士馬盛強なること、実に聖旨の如し。仰いで惟うに明公は、州郡の貴望、累葉重光、出でて藩岳に鎮し、威声は八表に播る。固より以て胡越も風を欽い、華夷も徳を歌う。豈に唯だ区区たる小府のみならんや。而るに敢えて神闕に衽を斂めざる者ならんや。昔、陳嬰は豈に其れ王を鄙しみて王たらず、韓信は帝を薄しとして帝たらざらんや。但だ帝王は勇を以て致し力もて争う可からざるを以ての故なり。石将軍の明公に擬するは、猶お陰精の太陽に比し、江河の洪海に比するがごときのみ。項籍・子陽、覆車遠からず。是れ石将軍の明鑒なり。明公も亦た何ぞ怪しまんや。古自り誠に胡人にして名臣と為る者は、実に之有り。帝王は則ち未だ之有らざるなり。石将軍は帝王を悪みて明公に譲るに非ざるなり。顧うに之を取るも天下の許す所と為らざればなり。願わくは公、疑う勿かれ」と。浚、大いに悦び、使いを遣わして勒に報ず。勒、復た使いを遣わして表を浚に奉じ、親しく幽州に詣りて尊号を上らんことを期す。亦た牋を棗嵩に修め、并州牧広平公を乞い、以て必信の誠を見す。
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『長短経』大体漢の高帝曰く「夫れ籌策を幃幄の中に運らし、勝を千里の外に決するは、吾れ子房に如かず。国家を鎮め、百姓を撫し、餉餽を給して糧道を絶たざるは、吾れ蕭何に如かず。百万の軍を連ね、戦えば必ず勝ち、攻むれば必ず取るは、吾れ韓信に如かず。三人の者は皆人傑なり。吾れ能く之を用う。此れ吾が天下を有つ所以なり」と。〔人物志に曰く「夫れ一官の任は、一味を以て五味に協う。一国の政は、無味を以て五味を和す。故に臣は自ら任ずるを以て能と為し、君は能く人を用うるを以て能と為す。臣は能く言うを以て能と為し、君は能く聴くを以て能と為す。臣は能く行うを以て能と為し、君は能く賞罰するを以て能と為す。同じからざる所以の故に、能く衆能に君たるなり」と。〕
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十八史略・『十八史略』漢・高祖・蕭何、韓信を追う信、之に従う。又数しば策を以て項羽に干むるも、用いられず。乃ち漢に帰し、治粟都尉と為る。数しば蕭何と語り、何、之を奇とす。王、南鄭に至るや、将士皆謳歌して帰らんことを思い、道に亡ぐる者多し。信、何已に数しば王に言うも、王用いざるを度り、即ち亡げ去る。何、自ら之を追う。人曰く、丞相何亡げたり、と。王怒り、左右の手を失うが如し。何来たりて謁す。王罵りて曰く、若の亡げしは何ぞや、と。何曰く、韓信を追えり、と。王曰く、諸将の亡ぐる者、十を以て数う、公は追う所無し。信を追うは詐りなり、と。何曰く、諸将は得易きのみ。信の如きは、国士無双なり。王、必ず長く漢中に王たらんと欲せば、信を事とする所無し。必ず天下を争わんと欲せば、信に非ざれば、与に事を計るべき者無し、と。王曰く、吾も亦東せんと欲するのみ、安んぞ能く鬱鬱として久しく此に居らんや、と。何曰く、計必ず東せば、能く信を用いん。信即ち留まらん。然らずんば、信は終に亡げんのみ、と。王曰く、吾公の為に以て将と為さん、と。何曰く、留まらざるなり、と。王曰く、以て大将と為さん、と。何曰く、幸甚なり、と。王は素より慢にして礼無く、大将を拝すること小児を呼ぶが如し。此れ信の去る所以なり。乃ち壇場を設け礼を具う。諸将皆喜び、人人自ら大将を得たりと以為えり。拝するに至れば、乃ち韓信なり。一軍皆驚く。
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史記 淮陰侯列伝太史公曰く、「吾淮陰に如くに、淮陰の人余の為に言ふ、韓信布衣為りし時と雖も、其の志衆と異なる、と。其の母死し、貧にして以て葬る無きも、然れども乃ち高敞の地を行営し、其の旁に万家を置く可からしむ。余其の母の冢を視るに、良に然り。仮令ひ韓信道を学び謙譲し、己の功を伐らず、其の能を矜らざれば、則ち庶幾からんや、漢家に於ける勳周・召・太公の徒に比す可く、後世血食せん。此を出だすを務めずして、天下已に集まり、乃ち畔逆を謀り、宗族を夷滅す、亦た宜ならずや」と。