十八史略 / 『十八史略』東晋・陶侃・寸陰を惜しむ陶侃
王敦疾之左遷廣州刺史侃在州朝運百甓於齋外暮運於齋內人問其故答曰吾方致力中原故習勞耳至是復鎮荊州士女相慶侃性聰敏恭勤嘗曰大禹聖人乃惜寸陰衆人當惜分陰取諸參佐酒器摴捕博具悉投於江曰摴捕者牧猪奴戲耳嘗造船籍竹頭木屑而掌之後正會雪霽地濕以木屑布地及後有征蜀之師得侃竹頭作釘裝船其綜理微密類此
新字:王敦疾之左遷広州刺史侃在州朝運百甓於斎外暮運於斎内人問其故答曰吾方致力中原故習労耳至是復鎮荊州士女相慶侃性聰敏恭勤嘗曰大禹聖人乃惜寸陰衆人当惜分陰取諸参佐酒器摴捕博具悉投於江曰摴捕者牧猪奴戯耳嘗造船籍竹頭木屑而掌之後正会雪霽地湿以木屑布地及後有征蜀之師得侃竹頭作釘装船其綜理微密類此
書き下し
王敦、之を疾み、広州刺史に左遷す。侃、州に在りて、朝に百甓を斎外に運び、暮に斎内に運ぶ。人、其の故を問う。答えて曰く、吾、方に力を中原に致さんとす。故に労に習うのみ、と。是に至りて復た荊州に鎮す。士女、相慶ぶ。侃、性聡敏にして恭勤なり。嘗て曰く、大禹は聖人なるに、乃ち寸陰を惜しむ。衆人は当に分陰を惜しむべし、と。諸参佐の酒器・摴蒱の博具を取り、悉く江に投じて曰く、摴蒱は牧猪奴の戯のみ、と。嘗て船を造るに、竹頭・木屑を籍め、之を掌る。後、正会に雪霽れて地湿うに、木屑を以て地に布く。後に蜀を征するの師有るに及び、侃の竹頭を得て釘と作して船に装う。其の綜理の微密なること、此に類す。
現代語訳
王敦は陶侃を妬み、広州刺史に左遷しました。侃は広州で、朝には百枚のレンガを書斎の外へ運び出し、夕方にはそれを書斎の中へ運び入れました。理由を聞かれると、「私はこれから中原の回復に力を尽くすつもりだ。だから労苦に慣れておくのだ」と答えました。やがて荊州に戻ると、人々は互いに喜び合いました。侃は聡明で、慎み深く勤勉でした。あるとき言いました。「大禹は聖人であるのに、わずかな時間も惜しんだ。凡人は、さらにわずかな時間さえ惜しむべきだ」。部下たちの酒器や賭博道具をすべて川に捨てて、「賭博は豚飼いの遊びにすぎない」と言いました。また、船を造った際の竹の切れ端や木屑を取っておき、管理させました。のちに正月の祝賀で雪が止み地面がぬかるんだ時には、その木屑を地面に敷きました。さらに蜀を討つ軍が出た際には、取っておいた竹の端を釘にして船に取り付けました。細かいところまで行き届いた処理は、このようでした。
解説

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