十八史略 / 『十八史略』漢・高祖・蕭何、韓信を追う
信從之又數以策干項羽不用乃歸漢為治粟都尉數與蕭何語何奇之王至南鄭將士皆謳歌思歸多道亡者信度何已數言王王不用即亡去何自追之人曰丞相何亡王怒如失左右手何來謁王罵曰若亡何也何曰追韓信王曰諸將亡者以十數公無所追追信詐也何曰諸將易得耳信國士無雙王必欲長王漢中無所事信必欲爭天下非信無可與計事者王曰吾亦欲東耳安能鬱鬱久居此乎何曰計必東能用信信即留不然信終亡耳王曰吾為公以為將何曰不留也王曰以為大將何曰幸甚王素慢無禮拜大將如呼小兒此信所以去乃設壇場具禮諸將皆喜人人自以為得大將至拜乃韓信也一軍皆驚
新字:信従之又数以策干項羽不用乃帰漢為治粟都尉数与蕭何語何奇之王至南鄭将士皆謳歌思帰多道亡者信度何已数言王王不用即亡去何自追之人曰丞相何亡王怒如失左右手何来謁王罵曰若亡何也何曰追韓信王曰諸将亡者以十数公無所追追信詐也何曰諸将易得耳信国士無双王必欲長王漢中無所事信必欲争天下非信無可与計事者王曰吾亦欲東耳安能鬱鬱久居此乎何曰計必東能用信信即留不然信終亡耳王曰吾為公以為将何曰不留也王曰以為大将何曰幸甚王素慢無礼拝大将如呼小児此信所以去乃設壇場具礼諸将皆喜人人自以為得大将至拝乃韓信也一軍皆驚
書き下し
信、之に従う。又数しば策を以て項羽に干むるも、用いられず。乃ち漢に帰し、治粟都尉と為る。数しば蕭何と語り、何、之を奇とす。王、南鄭に至るや、将士皆謳歌して帰らんことを思い、道に亡ぐる者多し。信、何已に数しば王に言うも、王用いざるを度り、即ち亡げ去る。何、自ら之を追う。人曰く、丞相何亡げたり、と。王怒り、左右の手を失うが如し。何来たりて謁す。王罵りて曰く、若の亡げしは何ぞや、と。何曰く、韓信を追えり、と。王曰く、諸将の亡ぐる者、十を以て数う、公は追う所無し。信を追うは詐りなり、と。何曰く、諸将は得易きのみ。信の如きは、国士無双なり。王、必ず長く漢中に王たらんと欲せば、信を事とする所無し。必ず天下を争わんと欲せば、信に非ざれば、与に事を計るべき者無し、と。王曰く、吾も亦東せんと欲するのみ、安んぞ能く鬱鬱として久しく此に居らんや、と。何曰く、計必ず東せば、能く信を用いん。信即ち留まらん。然らずんば、信は終に亡げんのみ、と。王曰く、吾公の為に以て将と為さん、と。何曰く、留まらざるなり、と。王曰く、以て大将と為さん、と。何曰く、幸甚なり、と。王は素より慢にして礼無く、大将を拝すること小児を呼ぶが如し。此れ信の去る所以なり。乃ち壇場を設け礼を具う。諸将皆喜び、人人自ら大将を得たりと以為えり。拝するに至れば、乃ち韓信なり。一軍皆驚く。
現代語訳
韓信は項梁に従い、のちに項羽にもたびたび策を献じましたが、用いられませんでした。そこで漢に身を寄せ、治粟都尉(兵糧を扱う役人)となりました。しばしば蕭何と語り合い、蕭何は彼を非凡な人物だと見ました。漢王が南鄭に入ると、将兵たちは歌いながら故郷への帰還を思い、道中で逃げ出す者が多く出ました。韓信は、蕭何がすでに何度も王に推薦してくれたのに王が用いないと見切りをつけ、逃げ去りました。蕭何は自らこれを追いかけました。ある人が王に、「丞相の蕭何が逃げました」と告げると、王は両腕を失ったかのように怒りました。数日して蕭何が戻って謁見すると、王は罵って言いました。「お前が逃げたのはどういうわけだ」。蕭何は「逃げたのではありません。逃げた者を追ったのです」と答え、誰かと問われて「韓信です」と言いました。王は、「将軍で逃げた者は十人を数えるのに、お前は誰も追わなかった。韓信を追ったというのは嘘だろう」と言いました。蕭何は言いました。「将軍の代わりはいくらでも得られます。しかし韓信は、国中に並ぶ者のない人物です。王がずっと漢中の王でいるおつもりなら、韓信は必要ありません。天下を争うおつもりなら、韓信でなければ共に事を謀れる者はおりません」。王は、「私も東へ出たいのだ。どうしてこんな所で鬱々と過ごしていられようか」と言いました。蕭何は、「東へ出る計画が決まっていて、韓信を用いるなら、彼は留まります。そうでなければ、結局は去るでしょう」と言いました。王は、「お前のために将軍にしてやろう」と言いましたが、蕭何は「それでは留まりません」と答えました。王が「では大将にしよう」と言うと、蕭何は「何よりです」と言いました。王はもともと傲慢で礼を欠き、大将の任命も子どもを呼びつけるようなものでした。これが韓信が去った理由です。そこで壇を築いて礼を整えることになりました。諸将はみな喜び、それぞれ自分が大将になると思っていました。任命の儀式になって、現れたのは韓信でした。全軍が驚きました。
解説

人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見るこの章句が説くこと
関連する章句
-
『春秋左氏伝』襄公三十一年 美錦を学ばしめず子皮尹何をして邑を為めしめんと欲す。子產曰く、「少し。未だ可否を知らず」と。子皮曰く、「愿なり。吾之を愛す。吾に叛かざるなり。夫をして往きて學ばしめば、夫も亦た愈〻治を知らん」と。子產曰く、「不可なり。人の人を愛するは、之を利せんことを求むるなり。今吾子人を愛するに則ち政を以てす。猶ほ未だ刀を操ること能はずして割かしむるがごときなり。其の傷つくること實に多からん。子の人を愛する、之を傷つくるのみ。其れ誰か敢へて愛を子に求めん。子の鄭國に於けるや、棟なり。棟折れ榱崩るれば、僑將に厭されんとす。敢へて言を盡くさざらんや。子に美錦有らば、人をして製するを學ばしめず。大官大邑は、身の庇ふ所なり。而るに學者をして製せしむ。其の美錦為るや、亦た多からずや。僑聞く、學びて而る後に政に入ると。未だ政を以て學ぶ者を聞かざるなり。若し果たして此を行はば、必ず害する所有らん。譬へば田獵の如し。射御貫るれば、則ち能く禽を獲。若し未だ嘗て車に登りて射御せずんば、則ち敗績厭覆を是れ懼れん。何の暇ありてか獲るを思はん」と。子皮曰く、「善いかな。虎不敏なり。吾聞く、君子は大なる者遠き者を知るに務め、小人は小なる者近き者を知るに務むと。我は小人なり。衣服の吾が身に附在するは、我知りて之を慎む。大官大邑は、身を庇ふ所以なり。我遠ざけて之を慢る。子の言微かりせば、吾知らざりしなり。他日、我曰へり、『子は鄭國を為め、我は吾が家を為めて、以て庇はば其れ可なり』と。今にして後に足らざるを知る。今より請ふ、吾が家と雖も子に聽きて行はん」と。子產曰く、「人心の同じからざるは、其の面の如し。吾豈に敢へて子の面吾が面の如しと謂はんや。抑〻心に危ふしと謂ふ所は、亦た以て告ぐるなり」と。子皮以て忠と為す。故に政を委ぬ。子產是を以て能く鄭國を為む。
-
史記 呉王濞列伝司馬と為るを得、独り周丘のみ用ひらるるを得ず。周丘は、下邳の人なり。呉に亡命し、酒を酤りて行ひ無し。呉王濞之を薄んじ、任ぜず。周丘上謁し、王に説きて曰く、「臣無能を以て、罪を行間に待つを得ず。臣敢へて将ゐる所有るを求むるに非ず。願はくは王の一漢節を得ば、必ず以て王に報ゆる有らん」と。王乃ち之に予ふ。周丘節を得て、夜馳せて下邳に入る。下邳時に呉の反するを聞き、皆城守す。伝舎に至り、令を召す。令戸に入るや、従者をして罪を以て令を斬らしむ。遂に昆弟の善くする所の豪吏を召して告げて曰く、「呉の反兵且に至らんとす。至らば、下邳を屠ること食頃に過ぎざらん。今先に下らば、家室必ず完からん。能ある者は侯に封ぜられん」と。出でて乃ち相告げ、下邳皆下る。周丘一夜にして三万人を得、人をして呉王に報ぜしめ、遂に其の兵を将ゐて北のかた城邑を略す。城陽に至る比、兵十余万、城陽の中尉の軍を破る。呉王の敗走するを聞き、自ら度るに与に功を成す無しと、即ち兵を引きて下邳に帰る。未だ至らずして、疽背に発して死す。二月中、呉王の兵既に破れ、敗走す。是に於て天子将軍に制詔して曰く、「蓋し聞く、善を為す者は天之に報ゆるに福を以てし、非を為す者は天之に報ゆるに殃を以てすと。高皇帝親ら功徳を表し、諸侯を建立す。幽王・悼恵王は絶えて後無し。孝文皇帝哀憐して恵を加へ、幽王の子遂・悼恵王の子卬等を王とし、其の先王の宗廟を奉ぜしめ、漢の藩国と為す。徳は天地に配し、明は日月に并ぶ。呉王濞は徳に倍き義に反し、天下の亡命の罪人を誘ひ受け、天下の幣を乱し、病と称して朝せざること二十余年。有司数々濞の罪を請ふも、孝文皇帝之を寛し、其の行ひを改めて善を為さんことを欲す。
-
史記 項羽本紀項梁嘗て櫟陽(やくよう)の逮有り、乃ち蘄(き)の獄掾(ごくえん)曹咎に請ひて書もて櫟陽の獄掾司馬欣に抵(いた)さしめ、故を以て事已むを得たり。項梁人を殺し、籍と仇を呉中に避く。呉中の賢士大夫皆項梁の下に出づ。呉中に大繇役及び喪有る毎に、項梁常に主辦を為し、陰かに兵法を以て賓客及び子弟を部勒し、是を以て其の能を知る。秦の始皇帝会稽に游び、浙江を渡る、梁と籍と倶に観る。籍曰く、「彼取りて代はるべきなり。」と。梁其の口を掩ひて、曰く、「妄言する毋かれ、族せられん。」と。梁此を以て籍を奇とす。籍は長八尺余、力は能く鼎を扛(あ)げ、才気人に過ぎ、呉中の子弟と雖も皆已に籍を憚る。秦の二世元年七月、陳渉等大沢中に起こる。其の九月、会稽の守通、梁に謂ひて曰く、「江西皆反す、此れ亦天の秦を亡ぼすの時なり。吾聞く、先んずれば即ち人を制し、後るれば則ち人の制する所と為ると。吾兵を発し、公及び桓楚をして将たらしめんと欲す。」と。是の時桓楚亡げて沢中に在り。梁曰く、「桓楚亡げ、人其の処を知る莫し、独り籍のみ之を知るのみ。」と。梁乃ち出で、籍を誡めて剣を持して外に居りて待たしむ。梁復た入り、守と坐して、曰く、「請ふ籍を召し、命を受けて桓楚を召さしめん。」と。守曰く、「諾。」と。梁籍を召して入らしむ。須臾にして、梁籍に眴(めくば)せして曰く、「行ふべし。」と。是に於て籍遂に剣を抜きて守の頭を斬る。項梁守の頭を持ち、其の印綬を佩ぶ。門下大いに驚き、擾乱す、籍の撃殺する所数十百人。一府中皆慴伏し、敢へて起つ莫し。梁乃ち故より知る所の豪吏を召し、諭すに起こす所の大事を以てし、遂に呉中の兵を挙ぐ。人をして下県を収めしめ、精兵八千人を得たり。梁呉中の豪傑を部署して校尉・候・司馬と為す。一人の用ゐらるるを得ざる有り、自ら梁に言ふ。梁曰く、「前時某の喪に公をして某の事を主らしむるも、辦ずる能はず、此を以て公を任用せず。」と。衆乃ち皆伏す。是に於て梁は会稽の守と為り、籍は裨将と為りて、下県を徇ふ。
-
史記 張丞相列伝年十歳なり。高祖、即(も)し万歳の後に全からざらんことを憂ふ。趙堯は年少くして、符璽御史為り。趙人方与公、御史大夫周昌に謂ひて曰く、「君の史趙堯は、年少しと雖も、然れども奇才なり。君必ず之を異とせよ。是れ且に君の位に代はらんとす」と。周昌笑ひて曰く、「堯は年少く、刀筆の吏のみ。何ぞ能く是に至らんや」と。居ること頃之(しばらく)して、趙堯、高祖に侍す。高祖独り心楽しまず、悲歌す。群臣、上の然る所以を知らず。趙堯進みて請ひ問ひて曰く、「陛下の楽しまざる所以は、趙王年少くして戚夫人と呂后と卻(げき)有るが為に非ずや。万歳の後に趙王自ら全うすること能はざらんことを備ふるにあらずや」と。高祖曰く、「然り。吾私かに之を憂ふれども、出づる所を知らず」と。堯曰く、「陛下独り宜しく趙王の為に貴彊の相を置くべし。呂后・太子・群臣の素より敬憚する所に及べば乃ち可なり」と。高祖曰く、「然り。吾之を念ひて是くの如くせんと欲す。而れども群臣誰か可なる者ぞ」と。堯曰く、「御史大夫周昌、其の人堅忍質直にして、且つ呂后・太子及び大臣より皆素より之を敬憚す。独り昌のみ可なり」と。高祖曰く、「善し」と。是に於て乃ち周昌を召して、謂ひて曰く、「吾固く公を煩はさんと欲す。公彊ひて我が為に趙王に相たれ」と。周昌泣きて曰く、「臣初めて起ちて陛下に従ふ。陛下独り柰何ぞ中道にして之を諸侯に棄つるや」と。高祖曰く、「吾極めて其の左遷なるを知る。然れども吾私かに趙王を憂ふ。念ふに公に非ずんば可なる者無し。公已むを得ず彊ひて行け」と。是に於て御史大夫周昌を徙して趙の相と為す。既に行きて之を久しくして、高祖御史大夫の印を持ちて之を弄びて曰く、「誰か以て御史大夫と為すべき者ぞ」と。趙堯を孰視して曰く、「以て堯に易ふる無し」と。遂に趙堯を拝して御史大夫と為す。堯も亦前に軍功の食邑有り。御史大夫を以て従ひて陳豨を撃ちて功有るに及び、封ぜられて江邑侯と為る。高祖崩じ、呂太后、使をして趙王を召さしむ。其の相周昌、王をして疾と称して行かざらしむ。
-
『長短経』知人〔桓範曰く「夫れ帝王の君、歴代相踵ぎ、覇王の賢に任ずるを慕い、亡国の士を失うを悪まざるは莫し。然り而して猶お凶愚に任を授け、破亡相属くは、其の故は何ぞや。人を取るに道に合うを求めずして、己に合うを求むるに由るなり」と。
-
史記 衛康叔世家衛の康叔、名は封、周の武王の同母の少弟なり。其の次に尚ほ冉季有り、冉季最も少し。武王已に殷の紂に克ち、復た殷の余民を以て紂の子武庚禄父を封じ、諸侯に比し、以て其の先祀を奉じて絶ゆること勿からしむ。武庚未だ集まらざるが為に、其の賊心有らんことを恐れ、武王乃ち其の弟管叔・蔡叔をして武庚禄父に傅相として、以て其の民を和せしむ。武王既に崩じ、成王少し。周公旦成王に代はりて治め、国に当たる。管叔・蔡叔周公を疑ひ、乃ち武庚禄父と乱を作し、成周を攻めんと欲す。周公旦成王の命を以て師を興して殷を伐ち、武庚禄父・管叔を殺し、蔡叔を放ち、武庚の殷の余民を以て康叔を封じて衛君と為し、河・淇の間の故の商墟に居らしむ。