十八史略 / 『十八史略』東晋・明帝・長安と日、いずれが近いか
肅宗明皇帝名紹幼而聰慧嘗有使者從長安來元帝問紹曰長安近歟日近紹曰長安近但聞人從長安來不聞人從日邊來元帝奇其對一日與群臣語及之復以問紹紹曰日近元帝愕然曰何異間者之言邪紹曰擧頭見日不見長安元帝益奇之
新字:粛宗明皇帝名紹幼而聰慧嘗有使者従長安来元帝問紹曰長安近歟日近紹曰長安近但聞人従長安来不聞人従日辺来元帝奇其対一日与群臣語及之復以問紹紹曰日近元帝愕然曰何異間者之言邪紹曰挙頭見日不見長安元帝益奇之
書き下し
粛宗明皇帝、名は紹。幼にして聡慧なり。嘗て使者の長安より来たる有り。元帝、紹に問いて曰く、長安近きか、日近きか、と。紹曰く、長安近し。但だ人の長安より来たるを聞くも、人の日辺より来たるを聞かず、と。元帝、其の対を奇とす。一日、群臣と語りて之に及び、復た以て紹に問う。紹曰く、日近し、と。元帝、愕然として曰く、何ぞ間者の言に異なるや、と。紹曰く、頭を挙ぐれば日を見るも、長安を見ず、と。元帝、益ます之を奇とす。
現代語訳
粛宗明皇帝は名を紹といい、幼いころから聡明でした。あるとき、長安から使者が来ました。元帝が紹に「長安と太陽とでは、どちらが近いか」と尋ねると、紹は「長安のほうが近いです。人が長安から来たとは聞きますが、太陽のあたりから来たとは聞きません」と答えました。元帝はこの答えを不思議に思いました。ある日、群臣と話していてこのことに及び、もう一度紹に尋ねました。すると紹は「太陽のほうが近いです」と答えました。元帝は驚いて「先日の答えとなぜ違うのか」と言うと、紹は「頭を上げれば太陽は見えますが、長安は見えません」と言いました。元帝はますます感心しました。
解説
晋が北方を失い、旧都長安が遠い存在になった時代の逸話です。後の明帝となる紹は、同じ問いに二通りの答えを返し、その両方に筋道をつけてみせました。一度目は「長安が近い」と言い、群臣の前では「日が近い」と言います。要点は、同じ問いでも事実の見え方は視点で変わる、と説明できた点にあります。会議では、前に言った内容との矛盾を突かれる場面があります。そのとき言い逃れをせず、前提を言い直して整合を示せるかどうかが力量です。子どもの答えながら、思考の柔らかさを教える話です。

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本の中身を見るこの章句が説くこと
明帝元帝長安日辺聡慧機知
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