長短経 / 君徳
東晉自元帝以下、何主為賢?虞南曰、「晉自遷都江左、强臣擅命、垂拱南面、政非已出。王敦以盤石之宗、居上流之要、負才矜地、志懷問鼎、非肅祖之明斷、王導之忠誠、則晉祚其移于王氏矣。若使降年永久、仗任羣賢、因瀍、澗之遺黎、乘劉、石之衰運、則克復中原、不難圖也。」〔元帝值天下崩離、創立江左、後肅祖即位、大將軍王敦威震内外、將謀為逆。帝與王導、温嶠等决計征敦。敦敗死也。〕
新字:東晋自元帝以下、何主為賢?虞南曰、「晋自遷都江左、強臣擅命、垂拱南面、政非已出。王敦以盤石之宗、居上流之要、負才矜地、志懐問鼎、非粛祖之明断、王導之忠誠、則晋祚其移于王氏矣。若使降年永久、仗任羣賢、因瀍、澗之遺黎、乗劉、石之衰運、則克復中原、不難図也。」〔元帝値天下崩離、創立江左、後粛祖即位、大将軍王敦威震内外、将謀為逆。帝与王導、温嶠等決計征敦。敦敗死也。〕
書き下し
東晋、元帝より以下、何の主か賢と為す。虞南曰く「晋は都を江左に遷してより、強臣命を擅にす。垂拱して南面すれど、政は己より出でず。王敦は盤石の宗を以て、上流の要に居り、才を負み地を矜り、志に鼎を問うを懐く。粛祖の明断、王導の忠誠に非ずんば、則ち晋の祚は其れ王氏に移らん。若し年を降すこと永久にして、群賢に仗任し、瀍・澗の遺黎に因り、劉・石の衰運に乗ぜしめば、則ち中原を克復すること、図り難からざるなり」と。〔元帝、天下の崩離に値い、江左に創立す。後に粛祖即位す。大将軍王敦、威は内外を震わし、将に逆を謀らんとす。帝、王導・温嶠らと敦を征するを決計す。敦、敗死せり。〕
現代語訳
東晋の元帝から後では、どの君主が賢明か。虞世南は言った。「晋は都を江南に移してから、強い臣下が命令を思うままにした。君主は手をこまぬいて南面するだけで、政治は自分から出ていなかった。王敦は磐石のような一族をもって上流の要地に居り、才を頼み土地を誇り、志に天下を奪う思いを抱いていた。粛祖(明帝)の明らかな決断と、王導の忠誠がなければ、晋の位は王氏に移っていただろう。もし天がもっと長い寿命を与え、多くの賢者に任せ、洛陽周辺の生き残った民を頼りとし、劉曜・石勒の衰えた運に乗じていたなら、中原を回復することも難しくはなかっただろう」。〔元帝は天下が崩れ離れるのに遭い、江南に王朝を創立した。のちに粛祖が即位した。大将軍の王敦は威勢が内外を震わせ、謀反を企てようとした。帝は王導・温嶠らと王敦を討つことを決めた。王敦は敗れて死んだ。〕
解説
この章句が説くこと
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