智囊 / 迎刃・蘇頌
蘇公子容充北朝生辰國信使,在虜中遇冬至。本朝歷先北朝一日,北朝問公孰是。公曰:「歷家算術小異,遲速不同。如亥時猶是今夕,逾數刻即屬子時,為明日矣。或先或後,各從本朝之歷可也。」虜人深以為然,遂各以其日為節慶賀。使還奏,上喜曰:「此對極中事理。」
新字:蘇公子容充北朝生辰国信使,在虜中遇冬至。本朝歴先北朝一日,北朝問公孰是。公曰:「歴家算術小異,遅速不同。如亥時猶是今夕,逾数刻即属子時,為明日矣。或先或後,各従本朝之歴可也。」虜人深以為然,遂各以其日為節慶賀。使還奏,上喜曰:「此対極中事理。」
書き下し
蘇公子容、北朝の生辰国信使に充てられ、虜中に在りて冬至に遇う。本朝の暦は北朝に先んずること一日、北朝は公に孰れが是なるかを問う。公曰く、「暦家の算術は小しく異なり、遅速同じからず。亥の時の如きは猶お是れ今夕、数刻を逾ゆれば即ち子の時に属し、明日と為る。或いは先、或いは後、各おの本朝の暦に従うも可なり」と。虜人は深く以て然りと為し、遂に各おの其の日を以て節として慶賀す。使い還りて奏し、上は喜びて曰く、「此の対は極めて事理に中る」と。
現代語訳
蘇頌(字は子容)は、北朝(遼)の皇帝の誕生日を祝う国信使に任命され、遼の地で冬至を迎えた。我が朝の暦は北朝より一日先んじており、北朝は蘇公にどちらが正しいかを尋ねた。公は言った。「暦を計算する者の術は少しずつ異なり、進み方も同じではありません。たとえば亥の刻は今夕ですが、数刻を過ぎれば子の刻となり、翌日になります。先であっても後であっても、それぞれ本朝の暦に従えばよいのです」。遼の人々は深く納得し、そこでそれぞれの暦の日を節として祝賀した。使者が帰って報告すると、帝は喜んで言った。「この答えは極めて道理にかなっている」。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『宋名臣言行録』後集巻十一・蘓頌北朝生辰の國信使に充てらる。契丹に在りて冬至に遇う。本朝の厯、北朝に先んずること一日なり。北人公に問う、孰れか是なると。公曰く、厯家の算術小しく異なれば遲速同じからず。謂わく、亥の時の如きは節氣當に交わるべければ則ち猶お是れ今夕なるも、若し數刻を踰ゆれば即ち子の時に屬して明日と爲るなり、と。或いは先んじ或いは後れ、各ミ本朝の厯に從いて可なり、と。北人以て然りと爲す。遂に各ミ其の日を以て節と爲して慶賀す。使還りて之を奏す。上喜びて曰く、朕之を思うに、此れ最も處し難し。卿の對うる所、極めて事理に中たれり、と。
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『智囊』迎刃・陳希亮・蘇軾・章綸・姚夔于闐の使者入朝し、秦州を過ぎ、経略使は客礼を以て之を享す。使者は驕ること甚だしく、留まること月余、伝舎の什器を壊し、其の徒を縦ちて市に入りて飲食を掠めしむ。民戸は皆な昼に閉ず。希亮之を聞き、曰く、「吾は嘗て契丹の使を主り、其の情を得たり。使者は初めより敢えて暴横せず、皆な訳者が之を教うるなり。吾は痛く縄するに法を以てせば、訳者は懼れ、其の使は敢えて動かざらん。況んや此の小国をや」と。乃ち教練使をして符を持して訳者に告げしめて、「吾が境に入りて秋毫も法の如くならざる有らば、吾は且に若を斬らんとす」と。軍令状を取りて以て還る。使者至れば、羅拝して庭下す。希亮は両廊に坐せしめ、之に飲食し、護りて其の境を出ださしむ。一人の嘩する者無し。高麗入貢し、使者は州郡を凌蔑す。押伴使臣は皆な本路の管庫にして、勢いに乗じて驕横し、鈐轄と抗礼するに至る。時に蘇軾は杭州に通判たり、人をして之に謂わしむ、「遠方より慕化して来たる、理として必ず恭順なり。今乃ち爾く暴恣なるは、汝の導くに非ざれば是に至らず。悛めずんば、当に之を奏すべし」と。押伴者は懼れ、為に小しく戢む。使者は幣を官吏に発し、書には甲子と称す。公は之を却けて曰く、「高麗は本朝に於いて臣と称して正朔を稟けず。吾は安くんぞ敢えて受けん」と。使者は亟やかに書を易えて熙寧と称し、然る後に之を受く。
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『宋名臣言行録』後集巻九・蘇軾杭州を通判す。時に髙麗入貢す。使者幣を官吏に發するに書は甲子を稱す。公之を却けて曰く、髙麗は本朝に於いて臣と稱して正朔を稟けず。吾安んぞ敢えて受けんと。使者亟かに書を易えて熙寧を稱す。然る後に之を受く。時に以て體を得たりと爲す。
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『顔氏家訓』省事前に修文令曹に在り、山東の学士と関中の太史と暦を競う有り。凡そ十余人、紛紜として歳を累ぬ。内史牒して議官に付して之を平らげしむ。吾論を執りて曰く、「大抵諸儒の争う所は、四分と并減分の両家のみ。暦象の要は、晷景を以て之を測るべし。今其の分至薄蝕を験すれば、則ち四分は疎にして減分は密なり。疎なる者は則ち政令に寛猛有り、運行盈縮を致すと称し、算の失に非ざるなりと。密なる者は則ち日月に遅速有り、術を以て之を求めば、預め其の度を知る、災祥無きなりと云う。疎を用うれば則ち奸を蔵して信ならず、密を用うれば則ち数に任せて経に違う。且つ議官の知る所は、訟者よりも精なる能わず。浅きを以て深きを裁たば、安んぞ肯えて服する有らんや。既に格令の司る所に非ず。幸わくは当たること勿かれ」と。
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『智囊』善言・梁適・孫沔契丹使いを遣わして中国に書を与う、称する所の「大宋」「大契丹」は、兄弟の国に非ざるに似たり。今輒ち易えて「南朝」「北朝」と曰う。上中書に詔し、密院と共に議せしむ。輔臣多く言う、「従わずんば将に隙を生ぜんとす」と。梁荘粛曰く、「此れ屈し易きのみ。但だ答えて、宋は蓋し本朝命を受けし土、契丹も亦た北朝の国号なり、故無くして自ら去るは、佳兆に非ず、と言えば可なり」と。其の年賀正使来たり、復た「大宋」と称すること故の如し。皇祐の末、契丹太廟の楽人を観んことを請う。帝以て宰相に問う。対えて曰く、「恐らくは享祀に非ざれば、習うべからざらん」と。枢密副使孫公沔曰く、「当に礼を以て之を折るべし。云えらく、『廟楽の作は、皆な本朝の祖宗の功徳を歌詠する所以なり。他国用うべけんや。使人如し能く吾が祭りを助けば、乃ち之を観よ』と」と。仁宗其の言に従い、使者敢えて復た請わず。
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『智囊』通簡・杜紘・蘇頌杜紘は鄆州に知たり。嘗て幟を城隅に掲げ、妖言を其の上に著し、期して変を為す者有り。州民は皆な震う。俄にして草場に白昼火あり、蓋し掲ぐる所の一事なり。民は益々恐る。或るひと大いに城中を索めんと謂う。紘は笑いて曰く、「奸計は正に是に在り。吾が攪擾に因りて発せんと冀う。奈何ぞ其の術中に墮ちん。彼は為す能う無きなり」と。居ること何ほども無く、盗を獲、乃ち奸民の妖を為せるなり。遂に之を誅す。蘇頌は度支判官に遷り、契丹使を送りて恩州に宿す。駅舎に火あり、左右は出でて火を避けんことを請うも、頌は許さず。州兵は入りて火を救わんと欲するも、亦た許さず。但だ防卒をして之を撲滅せしむ。初め火ありし時、郡中洶洶として、使者に変有りと謂い、救兵も亦た因りて事を生ぜんと欲す。頌の動かざるに頼りて止む。
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