十八史略 / 『十八史略』蜀・劉備・三顧の礼と水魚の交わり
嘗於表坐起至廁還慨然流涕表怪問之備曰常時身不離鞍髀肉皆消今不復騎髀裏肉生日月如流老將至功業不建是以悲耳琅琊諸葛亮寓居襄陽隆中每自比管仲樂毅備訪士於司馬徽徽曰識時務者在俊傑此閒自有伏龍鳳雛諸葛孔明龐士元也徐庶亦謂備曰諸葛孔明臥龍也備三往乃得見亮問策亮曰操擁百萬之衆挾天子令諸侯此誠不可與爭鋒孫權據有江東國險而民附可與為援而不可圖荊州用武之國益州險塞沃野千里天府之土若跨有荊益保其巖阻天下有變荊州之軍向宛洛益州之衆出秦川孰不簞食壺漿以迎將軍乎備曰善與亮情好日密曰孤之有孔明猶魚之有水也
新字:嘗於表坐起至廁還慨然流涕表怪問之備曰常時身不離鞍髀肉皆消今不復騎髀裏肉生日月如流老将至功業不建是以悲耳琅琊諸葛亮寓居襄陽隆中毎自比管仲楽毅備訪士於司馬徽徽曰識時務者在俊傑此閒自有伏竜鳳雛諸葛孔明龐士元也徐庶亦謂備曰諸葛孔明臥竜也備三往乃得見亮問策亮曰操擁百万之衆挟天子令諸侯此誠不可与争鋒孫権拠有江東国険而民附可与為援而不可図荊州用武之国益州険塞沃野千里天府之土若跨有荊益保其巖阻天下有変荊州之軍向宛洛益州之衆出秦川孰不箪食壺漿以迎将軍乎備曰善与亮情好日密曰孤之有孔明猶魚之有水也
書き下し
嘗て表の坐に於いて、起ちて廁に至る。還りて慨然として涕を流す。表、怪しみて之を問う。備曰く、常の時は身、鞍を離れず、髀肉皆消ゆ。今は復た騎らず、髀裏に肉生ず。日月流るるが如く、老い将に至らんとす。功業建たず。是を以て悲しむのみ、と。琅琊の諸葛亮、襄陽の隆中に寓居し、毎に自ら管仲・楽毅に比す。備、士を司馬徽に訪う。徽曰く、時務を識る者は俊傑に在り。此の間に自ずから伏龍・鳳雛有り。諸葛孔明・龐士元なり、と。徐庶も亦備に謂いて曰く、諸葛孔明は臥龍なり、と。備、三たび往きて乃ち見ゆるを得たり。亮に策を問う。亮曰く、操は百万の衆を擁し、天子を挟みて諸侯に令す。此れ誠に与に鋒を争うべからず。孫権は江東に拠有し、国険にして民附く。与に援と為すべくして、図るべからず。荊州は武を用うるの国、益州は険塞沃野千里、天府の土なり。若し荊・益を跨有し、其の巌阻を保たば、天下に変有れば、荊州の軍は宛・洛に向かい、益州の衆は秦川に出でん。孰か簞食壺漿して以て将軍を迎えざらんや、と。備曰く、善し、と。亮と情好日に密なり。曰く、孤の孔明有るは、猶お魚の水有るがごとし、と。
現代語訳
(劉備は)劉表の席で、立って厠に行きました。戻ってくると、慨嘆して涙を流しました。劉表が怪しんで尋ねると、備は言いました。「ふだんは身が鞍を離れず、腿の肉がすっかり落ちていました。いまは馬に乗らなくなり、腿の内側に肉がつきました。月日は流れるように過ぎ、老いがもうすぐ来ます。それなのに功業が立たない。それで悲しんでいるのです」。琅琊出身の諸葛亮は、襄陽の隆中に身を寄せ、いつも自分を管仲や楽毅になぞらえていました。備が人材を司馬徽に尋ねると、徽は言いました。「時務をわきまえる者は、俊傑の中にいます。この土地には、伏龍と鳳雛がいます。諸葛孔明と龐士元です」。徐庶も備に言いました。「諸葛孔明は臥龍です」。備は三度訪ねて、ようやく会えました。亮に策を問うと、亮は言いました。「曹操は百万の大軍を擁し、天子を手中に置いて諸侯に命令しています。これとは、まともに鋒を争えません。孫権は江東を領有し、国は険しく民も従っています。援軍とすべきで、討ち取ろうとしてはなりません。荊州は武を用いるのによい国で、益州は険しい要害と肥えた野が千里に広がる、天府の地です。もし荊州と益州をまたいで領有し、その険しい地形を守れば、天下に変事が起きたとき、荊州の軍は宛と洛陽に向かい、益州の軍は秦川に出られます。そうなれば、誰が簞の飯と壺の飲み物を差し出して将軍を迎えないでしょうか」。備は言いました。「よし」。以来、備は亮との親交が日ごとに深まりました。備は言いました。「私に孔明がいるのは、魚に水があるようなものだ」。
解説

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