十八史略 / 『十八史略』後漢・曹操・治世の能臣、乱世の姦雄
操父嵩為宦者曹騰養子或云夏侯氏子也操少機警有權數任俠放蕩不治行業汝南許劭與從兄靖有高名共覈論鄉黨人物每月輒更其題品故汝南俗有月旦評操往問劭曰我何如人劭不答劫之乃曰子治世之能臣亂世之姦雄操喜而去
新字:操父嵩為宦者曹騰養子或云夏侯氏子也操少機警有権数任侠放蕩不治行業汝南許劭与従兄靖有高名共覈論郷党人物毎月輒更其題品故汝南俗有月旦評操往問劭曰我何如人劭不答劫之乃曰子治世之能臣乱世之姦雄操喜而去
書き下し
操の父嵩は、宦者曹騰の養子たり。或いは云う、夏侯氏の子なり、と。操、少くして機警、権数有り。任俠放蕩にして、行業を治めず。汝南の許劭、従兄靖と高名有り。共に郷党の人物を覈論す。毎月、輒ち其の題品を更む。故に汝南の俗に月旦評有り。操、往きて劭に問いて曰く、我は何如なる人ぞ、と。劭、答えず。之を劫して乃ち曰く、子は治世の能臣、乱世の姦雄なり、と。操、喜びて去る。
現代語訳
曹操の父の曹嵩は、宦官の曹騰の養子でした。夏侯氏の子だと言う人もいます。曹操は若いころから機転が利き、策略の才があり、任侠を好んで放蕩し、まともな仕事に励みませんでした。汝南の許劭は、従兄の許靖とともに高い名声がありました。二人は郷里の人物を論じ、毎月その品評を改めました。このため汝南には「月旦評」という習わしがありました。曹操は許劭を訪ねて尋ねました。「私はどんな人間ですか」。許劭は答えませんでした。しつこく迫られて、ようやく言いました。「あなたは、治世なら有能な臣、乱世なら悪賢い英雄だ」。曹操は喜んで去りました。
解説
のちに魏の基礎を築く曹操が、若いころ、人物鑑定で知られた許劭を訪ねた場面です。曹操は宦官の養子の子という出自で、機転が利き、型にはまらない放蕩者として知られていました。許劭は毎月人物の評価を改める「月旦評」で有名でした。最初は答えず、迫られて初めて「治世の能臣、乱世の姦雄」と評し、曹操は喜んで去ったと伝えます。同じ人物が、平時には有能な臣、乱世には野心家と映るという見立てです。人材の価値は時代と環境で変わるという視点を教えてくれます。

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本の中身を見るこの章句が説くこと
曹操許劭月旦評治世の能臣乱世の姦雄人物鑑定
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『長短経』君徳炎精競わずより、宇県分崩す。曹孟徳は天子を挟みて諸侯に令し、劉玄徳は蜀漢の阻に憑り、孫仲謀は江淮の固に負き、天下を三分して鼎足して立つ。皆な肇めて王業を開き、覇図を光啓す。三方の君、孰れか優劣有らん。虞南曰く「曹公の兵機智算は、殆ど与に敵し難し。故に能く迹を肇め基を開き、中に居て相と作る。実に英雄の才有り。然れども譎詭常ならず、雄猜にして忌むこと多し。伏后を殺し荀彧を鴆し、孔融を誅し崔琰を戮するに至る。婁生は一言に斃れ、桓邵は下拝に労す。徳を棄て刑に任じ、其の虐已に甚だし。坐して西伯を論ずるに、実に其の人に非ず。許劭の所謂『治世の能臣、乱世の姦雄』とは、斯の言当たれりと為す」と。
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『智囊』億中・曹操曹公の東征するや、議者は軍出でて袁紹其の後を襲い、進みて戦うを得ず、退きて拠る所を失わんことを懼る。公曰く、「紹の性は遅くして疑い多し、来たるは必ず速やかならず。劉備は新たに起こり、衆心未だ附かず。急に之を撃たば必ず敗らん。此れ存亡の機にして、失うべからず」と。卒に東して備を撃つ。田豊は果たして紹に説きて曰く、「虎の方に鹿を捕らうるに、熊は其の穴に拠りて其の子を啖う。虎は進みて鹿を得ず、退きて其の子を得ず。今、操は自ら備を征し、国を空しくして去る。将軍は長戟百万、胡騎千群、直ちに許都を指して其の巣穴を搗かば、百万の師は天より下り、炎火を挙げて以て飛蓬を焦がし、滄海を覆して以て漂炭に沃ぐが若し、消滅せざる者有らんや。兵機の変は斯須に在り、軍情は枹鼓より捷し。操聞かば、必ず備を舎てて許に還らん。我、其の内に拠り、備、其の外を攻めば、逆操の頭は必ず麾下に懸からん。此れを失いて図らずんば、操は国に帰るを得て、兵を休め民を息め、穀を積み士を養わん。方今、漢道は陵遲し、綱紀は弛絶す。而して操は梟雄の資を以て、跋扈の勢いに乗じ、虎狼の欲を恣にし、篡逆の謀を成す。百道より攻撃すと雖も、図るべからざるなり」と。紹は子の疾を以て辞し、許さず。豊は杖を挙げて地を撃ちて曰く、「夫れ此の難遇の機に遭いて、嬰児の故を以て其の会を失う、惜しい哉」と。
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