十八史略 / 『十八史略』蜀・後主・白帝城の託孤
名禪字公嗣昭烈皇帝子也年十七即位改元建興丞相諸葛亮受遺詔輔政昭烈臨終謂亮曰君才十倍曹丕必能安國家終定大事嗣子可輔輔之如其不可君可自取亮涕泣曰臣敢不竭股肱之力效忠貞之節繼之以死亮乃約官職修法制下教曰夫參署者集衆思廣忠益也若遠小嫌難相違覆曠闕損矣
新字:名禅字公嗣昭烈皇帝子也年十七即位改元建興丞相諸葛亮受遺詔輔政昭烈臨終謂亮曰君才十倍曹丕必能安国家終定大事嗣子可輔輔之如其不可君可自取亮涕泣曰臣敢不竭股肱之力効忠貞之節継之以死亮乃約官職修法制下教曰夫参署者集衆思広忠益也若遠小嫌難相違覆曠闕損矣
書き下し
名は禅、字は公嗣。昭烈皇帝の子なり。年十七にして即位し、建興と改元す。丞相諸葛亮、遺詔を受けて政を輔く。昭烈、終に臨み、亮に謂いて曰く、君の才は曹丕に十倍す。必ず能く国家を安んじ、終に大事を定めん。嗣子、輔くべくんば之を輔けよ。如し其れ不可ならば、君、自ら取るべし、と。亮、涕泣して曰く、臣、敢えて股肱の力を竭くし、忠貞の節を効し、之に継ぐに死を以てせざらんや、と。亮、乃ち官職を約し、法制を修め、教を下して曰く、夫れ参署なる者は、衆思を集め忠益を広むるなり。若し小嫌を遠ざけ、相違覆し難しとせば、曠闕して損あらん、と。
現代語訳
名は禅、字は公嗣。昭烈皇帝の子です。十七歳で即位し、建興と改元しました。丞相の諸葛亮が遺詔を受けて政治を補佐しました。昭烈帝は臨終のとき、亮に言いました。「君の才能は曹丕の十倍だ。必ず国家を安定させ、最後には大事を成し遂げるだろう。跡継ぎが補佐するに足りるなら、これを補佐してほしい。もしそうでなければ、君が自ら取ってよい」。亮は涙を流して言いました。「私は、手足となって力を尽くし、忠義と貞節を示し、命をかけてこれに続けないはずがありません」。亮は役職を整理して簡素にし、法制を整え、教えを下して言いました。「参署(協議に加わること)とは、多くの考えを集めて、忠言の益を広げるためのものである。もし些細な嫌疑を避けて、互いに誤りを正し合うことが難しくなれば、欠落が生じて損失となる」。
解説

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『長短経』三国権後主禅、位に即く。〔詔を下して曰く「朕聞く、善の積む者は昌え、禍の積む者は喪ぶ、古今の常数なり、と。曩者、漢祚中ごろ微にして、網は凶慝を漏らす。董卓は難を造りて、京畿を震蕩し、曹操は禍に階りて、天衡を竊み執る。子の丕は孤豎にして、敢えて乱階を尋ね、神器を盗み拠り、姓を更め物を改め、世々其の凶を済す。此の時に当たりて、天下に主無く、則ち我が帝命、下に殞越す。昭烈皇帝は文武を光演し、祖業を存復し、誕いに皇綱を膺けて、地に墜ちず。万国未だ靖まらざるに、早世して遐かに殂す。朕は幼沖を以て鴻業を継統し、未だ保傅の訓を習わずして、祖宗の重きに嬰る。前緒を光載するも、未だ済す攸有らず。朕甚だ焉を懼る。諸葛丞相は弘毅忠壮にして、身を忘れて国を憂う。今、之に授くるに旄鉞の重きを以てし、之に付するに専命の権を以てし、歩騎二十万の衆を統領し、元戎を董督し、龔んで天罰を行わしむ。患いを除き乱を寧んじ、旧都を克復するは、此の行に在り。其の元帥を伐ち、其の残人を弔い、他は詔書律令の如くせよ」と。〕
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十八史略・『十八史略』蜀・諸葛亮・出師の表に見る賞罰と諫言漢の丞相亮、諸軍を率いて北伐す。発するに臨みて上疏して曰く、今、天下三分し、益州疲弊す。此れ危急存亡の秋なり。宜しく聖聴を開張すべく、宜しく忠諫の路を塞ぐべからず。宮中・府中は、倶に一体為り。陟罰臧否、宜しく異同すべからず。若し姦を作し科を犯す、及び忠善なる者有らば、宜しく有司に付し、其の刑賞を論じ、以て平明の治を昭らかにすべし。賢臣を親しみ小人を遠ざくるは、此れ先漢の興隆せし所以なり。小人を親しみ賢臣を遠ざくるは、此れ後漢の傾頽せし所以なり。臣は本と布衣、躬ら南陽に耕し、苟くも性命を乱世に全うし、聞達を諸侯に求めず。先帝、臣の卑鄙なるを以てせず、猥りに自ら枉屈し、臣を草廬の中に三顧し、臣に諮るに当世の事を以てす。是に由りて感激し、先帝に許すに駆馳を以てす。先帝、臣の謹慎なるを知り、崩ずるに臨みて寄するに大事を以てす。命を受けて以来、夙夜憂懼し、付託の効あらずして、以て先帝の明を傷つけんことを恐る。故に五月瀘を渡り、深く不毛に入る。今、南方已に定まり、兵甲已に足る。当に三軍を奨率して、北のかた中原を定め、漢室を興復して旧都に還すべし。此れ臣の先帝に報いて陛下に忠なる所以の職分なり。
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『長短経』臣行奇策泉のごとく涌き、遂に東のかた孫権に説き、北のかた大魏に抗す。乗勝の師を以て、翼佐して蜀を取る。玄徳の臨終に及び、禅るに大位を以てす。擾攘の際に在りて、童蒙の主を立て、官を設け職を分かち、衆才を班叙す。文以て内を治め、武以て衝を折く。然る後に其の恩沢を国中の人に布く。其の軍を行るや、路に遺を拾わず、毫毛も犯さず。勲業垂れ済らんとして隕つ。其の遺文を勧むるに、謨謀弘遠なり。已に功有れば則ち下に譲り、下に闕有れば則ち躬ら自ら咎む。善を見れば則ち遷り、諫を納るれば則ち改む。故に声烈は遐邇に震うなり。孟子曰く『伯夷の風を聞けば、貪夫も自ら廉なり』と。余、以為えらく、孔明の忠を覩れば、奸臣も節を立つ。殆ど将に伊・呂と烈を争わんとす。豈に徒だ楽毅を以て伍と為さんや」と。〕
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『長短経』三国権群臣、先主に尊号を称せんことを勧むるも、先主未だ許さず。諸葛亮曰く「昔、呉漢・耿純等、世祖に帝位に即かんことを勧む。世祖辞譲すること、前後数四。耿純進みて言いて曰く『天下の英雄喁喁として、望む所有らんことを冀う。如し議に従わずんば、士大夫各々帰りて主を求め、公に従うこと無からん』と。世祖、純の言の深く至れるに感じ、遂に之を然諾す。今、曹氏漢を簒い、天下に主無し。大王は劉氏の苗族にして、世を紹ぎて起こる。帝位に即くは、乃ち其の宜なり。士大夫の久しく勤苦する者も、亦た尺寸の功名を望むこと、純の言の如きのみ」と。先主是に於て帝位に即く。
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十八史略・『十八史略』蜀・劉備・三顧の礼と水魚の交わり嘗て表の坐に於いて、起ちて廁に至る。還りて慨然として涕を流す。表、怪しみて之を問う。備曰く、常の時は身、鞍を離れず、髀肉皆消ゆ。今は復た騎らず、髀裏に肉生ず。日月流るるが如く、老い将に至らんとす。功業建たず。是を以て悲しむのみ、と。琅琊の諸葛亮、襄陽の隆中に寓居し、毎に自ら管仲・楽毅に比す。備、士を司馬徽に訪う。徽曰く、時務を識る者は俊傑に在り。此の間に自ずから伏龍・鳳雛有り。諸葛孔明・龐士元なり、と。徐庶も亦備に謂いて曰く、諸葛孔明は臥龍なり、と。備、三たび往きて乃ち見ゆるを得たり。亮に策を問う。亮曰く、操は百万の衆を擁し、天子を挟みて諸侯に令す。此れ誠に与に鋒を争うべからず。孫権は江東に拠有し、国険にして民附く。与に援と為すべくして、図るべからず。荊州は武を用うるの国、益州は険塞沃野千里、天府の土なり。若し荊・益を跨有し、其の巌阻を保たば、天下に変有れば、荊州の軍は宛・洛に向かい、益州の衆は秦川に出でん。孰か簞食壺漿して以て将軍を迎えざらんや、と。備曰く、善し、と。亮と情好日に密なり。曰く、孤の孔明有るは、猶お魚の水有るがごとし、と。
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諸葛亮集・前出師表・第一段臣亮言ふ、先帝、創業いまだ半ばならずして中道にして崩殂し、今、天下三分し、益州は疲弊す。此れ誠に危急存亡の秋なり。然れども侍衞の臣は内に懈らず、忠志の士は身を外に忘るるは、蓋し先帝の殊遇を追ひて、これに陛下に報いんと欲すればなり。