武道便蒙録 / 卷之一・身を屈して伸びる、諸葛亮の潜伏
○易繫辭傳曰、徃者屈也、來者信也、屈信相感而利生焉、尺蠖之屈、以求信也、龍蛇之蟄、以存身也、言は尺蠖は尺とり蟲なり、尺とり蟲は、先きへのびんが爲に、身をかゞめ屈するなり、龍蛇は發するときは、雲を興し雨を降す、蟄するときは、硯の滴水中にも蟄居る也、諸葛亮孔明は、三國の亂、魏曹操、吳孫權、蜀劉備、たがひに天下を爭ひ、干戈止むことなく、騷動する故に、危邦には不入、亂邦には不居の、聖敎を心に懷き、一材一藝の者も招るゝ時なれども、身不知己の者の爲に、危めんと恐れて、光を藏し、材を韜て、不爲業に容を變、田地に勤めて耕作をなす、是れ夏の桀王の時に、伊尹が有等の野に耕すにひとし、梁父の吟を作て、己れが志を樂むなり、此時三國の一方、蜀の先主劉備と云ふ人、漢の天子の末葉なれば、吳魏二ッの逆臣を滅し、漢の系圖の絶へざる爲に、義兵を興し、義陽郡の中ちの、新野と云ふ地に、陣を張り、士卒多く屯蒐居らる時、徐庶が先主に逢て、今般の大事に群に勝れたる士を懷け、大功を立んと思はるゝならば、諸葛孔明と云隱士あり、此は今南陽の地に智を藏し、形容を埋み、世に知れんことを厭ふ、其德は龍の如き者也、龍は雲を興し雨を降し、土地を濕す、龍興ては、雲雨の信旬分と著はる、却て臥蟠まる時は、末へに何程の雲雨を催して、國土のためにせんと、不度如く、隱士になりて、其材振はぬ中は世に出たらば、如何ばかりの、國家の爲に大功を可立と不知れば、此人は臥蟠りたる龍に異ならず、奥深き頼みある者也と云、劉備此を聞て、其れ程の者ならば、幸に抱へん程に、
新字:○易繋辞伝曰、往者屈也、来者信也、屈信相感而利生焉、尺蠖之屈、以求信也、竜蛇之蟄、以存身也、言は尺蠖は尺とり虫なり、尺とり虫は、先きへのびんが為に、身をかゞめ屈するなり、竜蛇は発するときは、雲を興し雨を降す、蟄するときは、硯の滴水中にも蟄居る也、諸葛亮孔明は、三国の乱、魏曹操、呉孫権、蜀劉備、たがひに天下を争ひ、干戈止むことなく、騷動する故に、危邦には不入、乱邦には不居の、聖教を心に懐き、一材一芸の者も招るゝ時なれども、身不知己の者の為に、危めんと恐れて、光を蔵し、材を韜て、不為業に容を変、田地に勤めて耕作をなす、是れ夏の桀王の時に、伊尹が有等の野に耕すにひとし、梁父の吟を作て、己れが志を楽むなり、此時三国の一方、蜀の先主劉備と云ふ人、漢の天子の末葉なれば、呉魏二ッの逆臣を滅し、漢の系図の絶へざる為に、義兵を興し、義陽郡の中ちの、新野と云ふ地に、陣を張り、士卒多く屯蒐居らる時、徐庶が先主に逢て、今般の大事に群に勝れたる士を懐け、大功を立んと思はるゝならば、諸葛孔明と云隠士あり、此は今南陽の地に智を蔵し、形容を埋み、世に知れんことを厭ふ、其徳は竜の如き者也、竜は雲を興し雨を降し、土地を湿す、竜興ては、雲雨の信旬分と著はる、却て臥蟠まる時は、末へに何程の雲雨を催して、国土のためにせんと、不度如く、隠士になりて、其材振はぬ中は世に出たらば、如何ばかりの、国家の為に大功を可立と不知れば、此人は臥蟠りたる竜に異ならず、奥深き頼みある者也と云、劉備此を聞て、其れ程の者ならば、幸に抱へん程に、
書き下し
○易繫辭傳曰、徃者屈也、來者信也、屈信相感而利生焉、尺蠖之屈、以求信也、龍蛇之蟄、以存身也、言は尺蠖は尺とり蟲なり、尺とり蟲は、先きへのびんが爲に、身をかゞめ屈するなり、龍蛇は發するときは、雲を興し雨を降す、蟄するときは、硯の滴水中にも蟄居る也、諸葛亮孔明は、三國の亂、魏曹操、吳孫權、蜀劉備、たがひに天下を爭ひ、干戈止むことなく、騷動する故に、危邦には不入、亂邦には不居の、聖敎を心に懷き、一材一藝の者も招るゝ時なれども、身不知己の者の爲に、危めんと恐れて、光を藏し、材を韜て、不爲業に容を變、田地に勤めて耕作をなす、是れ夏の桀王の時に、伊尹が有等の野に耕すにひとし、梁父の吟を作て、己れが志を樂むなり、此時三國の一方、蜀の先主劉備と云ふ人、漢の天子の末葉なれば、吳魏二ッの逆臣を滅し、漢の系圖の絶へざる爲に、義兵を興し、義陽郡の中ちの、新野と云ふ地に、陣を張り、士卒多く屯蒐居らる時、徐庶が先主に逢て、今般の大事に群に勝れたる士を懷け、大功を立んと思はるゝならば、諸葛孔明と云隱士あり、此は今南陽の地に智を藏し、形容を埋み、世に知れんことを厭ふ、其德は龍の如き者也、龍は雲を興し雨を降し、土地を濕す、龍興ては、雲雨の信旬分と著はる、却て臥蟠まる時は、末へに何程の雲雨を催して、國土のためにせんと、不度如く、隱士になりて、其材振はぬ中は世に出たらば、如何ばかりの、國家の爲に大功を可立と不知れば、此人は臥蟠りたる龍に異ならず、奥深き頼みある者也と云、劉備此を聞て、其れ程の者ならば、幸に抱へん程に、
現代語訳
『易』繋辞伝に「往くものは屈であり、来るものは信(伸)である。屈と信が相感じて利が生じる。尺蠖(しゃくとりむし)が屈するのは伸びるためであり、龍や蛇が蟄(ひそ)むのは身を保つためである」とあります。この言葉の意味は、尺蠖は尺取り虫のことで、前へ伸びようとして身を屈めるのだということです。龍や蛇は、発するときは雲を興して雨を降らせ、蟄するときは硯の滴水の中にもひそんでいます。諸葛亮孔明は、三国の乱れた世、魏の曹操、呉の孫権、蜀の劉備がたがいに天下を争い、戦が止まず騒がしかったので、「危うい国には入らず、乱れた国には住まず」という聖人の教えを心に抱きました。一芸一材のある者でも招かれる時勢でしたが、自分を知らない者のために危うい目に遭うことを恐れ、光を隠し、才をつつみ、仕事ではないことに姿を変えて田畑を耕しました。これは夏の桀王の時代に、伊尹が有莘(ゆうしん)の野で耕したのと同じです。梁父吟を作って自分の志を楽しんでいたのです。このとき三国の一方、蜀の先主劉備は漢の天子の末裔でしたので、呉・魏の二人の逆臣を滅ぼし、漢の系図が絶えないために義兵を起こし、義陽郡の中の新野という地に陣を張って、士卒が多く集まっていました。徐庶が先主に会って、今度の大事に抜きん出た士を味方につけて大功を立てようとお思いなら、諸葛孔明という隠士がいます、と言いました。孔明は今、南陽の地で智を隠し姿を埋め、世に知られることを嫌っていて、その徳は龍のようだというのです。龍は雲を興し雨を降らせ、土地を潤します。龍が興れば雲雨の恵みは確かに現れますが、臥して蟠(わだかま)っているときには、のちにどれほどの雲雨を起こして国土のためにするかは測れません。隠士となってその才が振るわないうちは、世に出たらどれほど国家のために大功を立てるか分からないので、この人は臥した龍と異なりません、奥深く頼みになる人です、と言いました。劉備はこれを聞いて、それほどの者ならば幸い召し抱えようと思うので、
解説

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