十八史略 / 『十八史略』後漢・馬援・君も臣を選び臣も君を選ぶ
囂自更始初年起兵至建武初據天水自稱西州上將軍後嘗遣馬援往成都觀公孫述援與述舊謂當握手歡如平生時述已稱帝四年矣援既至盛陳陛衛以延援援謂其屬曰天下雌雄未定公孫不吐哺迎國士反修飾邊幅如偶人形此何足久稽天下士乎因辭歸謂囂曰子陽井底蛙耳而妄自尊大不如專意東方囂乃使援奉書雒陽初到良久即引入上自殿廡下岸幘迎笑曰卿遨遊二帝閒今見卿使人大慚援頓首曰當今非但君擇臣臣亦擇君臣與公孫述同縣少相善臣前至蜀述陛戟而後進臣臣今遠來陛下何知非刺客姦人而簡易若是帝笑曰卿非刺客顧說客耳援曰天下反覆盜名字者不可勝數今見陛下恢廓大度同符高祖乃知帝王自有真也
新字:囂自更始初年起兵至建武初拠天水自称西州上将軍後嘗遣馬援往成都観公孫述援与述旧謂当握手歓如平生時述已称帝四年矣援既至盛陳陛衛以延援援謂其属曰天下雌雄未定公孫不吐哺迎国士反修飾辺幅如偶人形此何足久稽天下士乎因辞帰謂囂曰子陽井底蛙耳而妄自尊大不如専意東方囂乃使援奉書雒陽初到良久即引入上自殿廡下岸幘迎笑曰卿遨遊二帝閒今見卿使人大慚援頓首曰当今非但君択臣臣亦択君臣与公孫述同県少相善臣前至蜀述陛戟而後進臣臣今遠来陛下何知非刺客姦人而簡易若是帝笑曰卿非刺客顧説客耳援曰天下反覆盗名字者不可勝数今見陛下恢廓大度同符高祖乃知帝王自有真也
書き下し
囂、更始の初年より兵を起こす。建武の初めに至り、天水に拠り、自ら西州上将軍と称す。後、嘗て馬援を遣わして成都に往き、公孫述を観しむ。援、述と旧あり、当に手を握りて歓ぶこと平生の如くなるべしと謂う。時に述、已に帝を称すること四年なり。援、既に至るや、盛んに陛衛を陳べて以て援を延く。援、其の属に謂いて曰く、天下の雌雄、未だ定まらず。公孫、哺を吐きて国士を迎えず、反って辺幅を修飾すること、偶人の形の如し。此れ何ぞ久しく天下の士を稽むるに足らん、と。因りて辞し帰り、囂に謂いて曰く、子陽は井底の蛙のみ。而るに妄りに自ら尊大なり。意を東方に専らにするに如かず、と。囂、乃ち援をして書を奉じて雒陽に使いせしむ。初め到るや、良や久しくして即ち引き入る。上、殿廡の下より、幘を岸げて迎え笑いて曰く、卿は二帝の間に遨遊す。今、卿を見て、人をして大いに慚じしむ、と。援、頓首して曰く、当今は但だ君の臣を択ぶのみに非ず、臣も亦君を択ぶ。臣、公孫述と同県にして、少きより相善し。臣、前に蜀に至るに、述、戟を陛にして後に臣を進む。臣、今遠く来たる。陛下、何ぞ刺客・姦人に非ざるを知りて、簡易なること是の若き、と。帝、笑いて曰く、卿は刺客に非ず、顧って説客なるのみ、と。援曰く、天下反覆し、名字を盗む者、勝げて数うべからず。今、陛下を見るに、恢廓大度にして、高祖に同符す。乃ち知る、帝王には自ずから真有るを、と。
現代語訳
隗囂は更始帝の初めのころから兵を挙げ、建武の初めには天水に拠って、自ら西州上将軍と名乗っていました。のちに隗囂は馬援を成都へ遣わし、公孫述の人物を見させました。馬援は述と旧知で、手を握って昔のように喜び合えるはずだと思っていました。このとき述はすでに帝を称して四年になっていました。馬援が着くと、述は護衛の儀仗を盛大に並べて迎えました。馬援は仲間に言いました。「天下の勝敗はまだ決まっていない。公孫述は、口の中の食べ物を吐き出してでも国士を迎える、ということをせず、かえって身なりを飾り立てて、人形のように構えている。これでは天下の士を長く引き留められるはずがない」。そこで辞去して帰り、隗囂に言いました。「子陽(公孫述)は井戸の底の蛙にすぎません。それなのにむやみに尊大です。東方(光武帝)に心を専らにするほうがよいでしょう」。隗囂は馬援に書簡を持たせて雒陽へ遣わしました。到着してしばらく待たされたのち、すぐに奥へ通されました。光武帝は殿舎の廊下から、頭巾を押し上げて迎え、笑って言いました。「あなたは二人の帝の間を自由に行き来している。いま会ってみると、人を大いに恥じ入らせるな」。馬援は頭を下げて言いました。「いまの世は、君主が臣を選ぶだけではありません。臣もまた君主を選びます。私は公孫述と同じ県の出身で、若いころから仲のよい間柄でした。私が以前蜀に行きますと、述は戟を持った兵を階段に並べてから、ようやく私を通しました。いま私は遠くから参りましたが、陛下はどうして私が刺客や悪人でないと分かって、これほど気軽に会ってくださるのですか」。帝は笑って言いました。「あなたは刺客ではなく、むしろ説客だな」。馬援は言いました。「天下は覆り、名や称号を盗む者は数えきれません。いま陛下にお会いしますと、度量が広く大きく、高祖と符合しています。それで、帝王にはおのずと本物がいると分かりました」。
解説

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