十八史略 / 『十八史略』後漢・光武帝・置之度外と恩を忘れぬ心
將軍吳漢等擊斬劉永所立海西王董憲及叛將龐萌等江淮山東悉平時惟隗囂公孫述未平上積苦兵閒謂諸將曰且當置此兩子於度外耳馮異自長安入朝上謂公卿曰是我起兵時主簿也為吾披荊棘定關中詔勞異曰倉卒蕪蔞亭豆粥滹沱河麥飯尊意久不報
新字:将軍呉漢等撃斬劉永所立海西王董憲及叛将龐萌等江淮山東悉平時惟隗囂公孫述未平上積苦兵閒謂諸将曰且当置此両子於度外耳馮異自長安入朝上謂公卿曰是我起兵時主簿也為吾披荊棘定関中詔労異曰倉卒蕪蔞亭豆粥滹沱河麦飯尊意久不報
書き下し
将軍呉漢ら、劉永の立てし所の海西王董憲、及び叛将龐萌らを撃ちて斬る。江淮・山東、悉く平らぐ。時に惟だ隗囂・公孫述のみ未だ平らがず。上、兵間に積苦し、諸将に謂いて曰く、且く当に此の両子を度外に置くべきのみ、と。馮異、長安より入朝す。上、公卿に謂いて曰く、是れ我が起兵の時の主簿なり。吾が為に荊棘を披き、関中を定む、と。詔して異を労いて曰く、倉卒の蕪蔞亭の豆粥、滹沱河の麦飯、尊意、久しく報いず、と。
現代語訳
将軍の呉漢らは、劉永が立てた海西王の董憲と、反逆した将の龐萌らを撃って斬りました。長江・淮河の一帯と山東は、すべて平定されました。このとき残っていたのは隗囂と公孫述だけで、まだ平らげられていませんでした。光武帝は長い戦いに苦しんできたので、諸将に言いました。「この二人は、しばらく度外に置いておこう」。馮異が長安から都に参内しました。帝は公卿たちに言いました。「この者は、私が兵を起こしたときの主簿だ。私のために茨を切り開き、関中を平定してくれた」。そして詔を下して馮異をねぎらいました。「あわただしかった蕪蔞亭の豆粥、滹沱河の麦飯。そなたの厚いお心に、長いあいだ報いることができずにいた」。
解説

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