十八史略 / 『十八史略』漢・文帝・宰相の仕事は何か
帝益明習國家事朝而問右丞相勃曰天下一歳決獄幾何勃謝不知又問一歳錢穀出入幾何勃又謝不知惶愧汗出沾背上問左丞相平平曰有主者陛下即問決獄責廷尉問錢穀責治粟内史上曰君所主者何事平謝曰陛下使待罪宰相宰相者上佐天子理陰陽順四時下遂萬物之宜外鎮撫四夷内親附百姓使卿大夫各得其職焉帝稱善勃大慙謝病免
新字:帝益明習国家事朝而問右丞相勃曰天下一歳決獄幾何勃謝不知又問一歳銭穀出入幾何勃又謝不知惶愧汗出沾背上問左丞相平平曰有主者陛下即問決獄責廷尉問銭穀責治粟内史上曰君所主者何事平謝曰陛下使待罪宰相宰相者上佐天子理陰陽順四時下遂万物之宜外鎮撫四夷内親附百姓使卿大夫各得其職焉帝称善勃大慚謝病免
書き下し
帝、益ます国家の事に明習し、朝して右丞相勃に問いて曰く、天下一歳に獄を決すること幾何ぞ、と。勃、謝して知らず。又問う、一歳の銭穀の出入は幾何ぞ、と。勃、又謝して知らず。惶愧して汗出で背を沾す。上、左丞相平に問う。平曰く、主る者有り。陛下即し獄を決するを問わば、廷尉に責め、銭穀を問わば、治粟内史に責めよ、と。上曰く、君の主る所の者は何事ぞ、と。平、謝して曰く、陛下、臣をして罪を宰相に待たしむ。宰相なる者は、上は天子を佐けて陰陽を理め四時を順にし、下は万物の宜しきを遂げしめ、外は四夷を鎮撫し、内は百姓を親附せしめ、卿・大夫をして各おの其の職を得しむ、と。帝、善と称す。勃、大いに慙じ、病と謝して免ぜらる。
現代語訳
文帝はますます国の政務に習熟し、朝廷で右丞相の周勃に尋ねました。「天下で一年に裁かれる訴訟はどれほどか」。周勃は謝って、知りませんと答えました。また、「一年の金銭と穀物の出入りはどれほどか」と尋ねましたが、周勃はまた知りませんと謝り、恐れ入って背中に汗をかきました。文帝は左丞相の陳平に尋ねました。陳平は言いました。「それぞれ担当する者がおります。陛下が訴訟の数をお尋ねになるなら廷尉に、金銭や穀物をお尋ねになるなら治粟内史にお聞きください」。文帝が「ではあなたが司るのは何事か」と聞くと、陳平は謝って言いました。「陛下は私を宰相の職に就けてくださいました。宰相とは、上は天子を助けて陰陽を整え四季を順調にし、下は万物がそれぞれ適した形で育つようにし、外は周辺の異民族を鎮め、内は民を慕い従わせ、卿や大夫にそれぞれの職務を果たさせる者です」。文帝はこれをよしとしました。周勃は深く恥じ、病気を理由に職を退きました。
解説

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『晏子春秋』諫上・景公從畋十八日不返國晏子諫景公、署梁に畋し、十有八日にして返らず。晏子、国より往きて公に見ゆ。至るに比び、衣冠正しからず。衣冠を革めず、遊を望みて馳す。公、晏子を望み見、車を下りて逆え労いて曰く、「夫子、何ぞ遽かなる。国家に故有ること無きか」と。晏子対えて曰く、「亦急ならずや。然りと雖も、嬰、復すること有らんことを願う。国人皆君を以て野に安んじて国に安んぜず、獣を好みて民を悪むと為す。乃ち不可ならざらんや」と。公曰く、「何ぞや。吾、夫婦の獄訟の正しからざるが為ならば、則ち泰士子牛存せり。社稷宗廟の享けざるが為ならば、則ち泰祝子遊存せり。諸侯賓客の之に応ずる莫きが為ならば、則ち行人子羽存せり。田野の辟かれず、倉庫の実たざるが為ならば、則ち申田存せり。国家の余り有り不足あるを聘うが為ならば、則ち吾が子存せり。寡人の五子有るは、猶お心の四支有るがごとし。心に四支有り、故に心は佚を得たり。今、寡人に五子有り、故に寡人は佚を得たり。豈に不可ならんや」と。晏子対えて曰く、「嬰之を聞く、君の言とは異なり。若し乃ち心に四支有りて、心は佚を得ば、則ち可なり。四支をして心無からしめて、十有八日、亦久しからずや」と。公、是に於いて畋を罷めて帰る。
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史記 張釈之馮唐列伝吾独り廉頗・李牧を得て時に吾が将と為さざるか。吾豈に匈奴を憂へんや」と。唐曰く、「主臣。陛下廉頗・李牧を得と雖も、用ふること能はざるなり」と。上怒り、起ちて禁中に入る。良久しくして、唐を召して譲(せ)めて曰く、「公柰何ぞ衆にて我を辱むる。独り間処無からんや」と。唐謝して曰く、「鄙人忌諱を知らず」と。是の時に当たり、匈奴新たに大いに朝那に入り、北地の都尉卬を殺す。上胡寇を以て意と為し、乃ち卒に復た唐に問ひて曰く、「公何を以て吾が廉頗・李牧を用ふること能はざるを知るや」と。唐対へて曰く、「臣聞く、上古の王者の将を遣はすや、跪きて轂を推し、曰く閫(こん)以内は寡人之を制し、閫以外は将軍之を制すと。軍功爵賞は皆外に決し、帰りて之を奏す。此れ虚言に非ざるなり。臣の大父言ふ、李牧、趙の将と為りて辺に居り、軍市の租は皆自ら用ひて士を饗し、賞賜は外に決し、中より擾されずと。委任して成功を責む。故に李牧乃ち其の智能を尽くすを得たり。選車千三百乗、彀騎万三千、百金の士十万を遣はし、是を以て北のかた単于を逐ひ、東胡を破り、澹林を滅ぼし、西のかた彊秦を抑へ、南のかた韓・魏を支ふ。是の時に当たりて、趙幾(ほと)んど霸たらんとす。其の後会(たまたま)趙王遷立つ。其の母は倡なり。王遷立ち、乃ち郭開の讒を用ひ、卒に李牧を誅し、顔聚をして之に代はらしむ。是を以て兵破れ士北(に)げ、秦の禽滅する所と為る。今臣竊かに聞く、魏尚雲中の守と為り、其の軍市の租は尽く以て士卒を饗し、[出]私養の銭もて、五日に一たび牛を椎(う)ち、賓客・軍吏・舎人を饗す。是を以て匈奴遠く避け、雲中の塞に近づかず。虜曾て一たび入る。尚、車騎を率ゐて之を撃ち、殺す所其れ衆し。夫れ士卒は尽く家人の子にして、田中より起ちて軍に従ふ。安くんぞ尺籍・伍符を知らん。終日力戦し、首を斬り虜を捕へ、功を莫府に上るに、一言相応ぜざれば、文吏法を以て之を縄す。其の賞行はれずして吏の法を奉ずるは必ず用ひらる。
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名将言行録・『名将言行録』吉川元春 攻戦は元春に任せよ○元就曰く、數萬の衆を卒る、機を兩陣の間に決し、戰へば卽ち勝ち、攻れば則ち取り、威を天下に爭ふことは、吾元春に及ばずとありて、攻戰の術は、元春に任ぜられけり。元就終に臨み、輝元に、遺言して曰く、攻戰の道は、大小となく、悉く元春に任すべく、如何なる敵に逢ふとも、危かるべからず、若し元春の意見を用ひずんば、弓箭後れ武威衰ふべしと。 ○元龜二年、尼子勝久、元就が病を聞き、伯耆に入り諸城を拔く。山中幸盛は、末石に在り、四出鈔略す。元就の死を聞くに及びて、勢頗る張れり。爰に於て、元春哭泣して曰く、敵を盡くして以て先考の靈を慰めん、其功德佛に供し、僧に飯するに愈れりと。則ち兵一萬を卒る、末石を伐んと欲し、先づ大山の僧徒を攻ると聲言し、還り末石を攻む。幸盛計窮り、出て降りしが病と伴はり、遂に圍より逸し、美作に走る。元春則ち新山を攻む。城兵潰え、勝久隱岐に奔り、遂に京師に奔る。其兵或は降り或は遁れ、雲伯悉く平ぐ。元春留て富田を鎭せり。