実武一家言抄録 / 外寇なき実拠と倭寇
(二)右に說たる如く、海外の□□皆我日本の豐饒なるを羨みて併呑せんと欲る者多し、然共是迄數百年來絶て外寇といふ者無りし事は何の故ぞと考るに大に實據の有事なり、其實據とは古し神功皇后親く兵を將ひて大海を渡り、高麗新羅百濟任那等を征伐し玉ひて、悉く其酋を降し、日本の屬國と爲し、威名一時西土を震動す、其後四五百年の間、朝鮮は皇國の屬地にして、時々叛く者有每に兵を出して是を討ち、三韓の間に勇戰せし事幾度といふ事を知らず、其後後宇多天皇の弘安年中に、蒙古の世祖忽必烈既に南宋を滅して支那を一統し、連勝の勢に乘じて皇國をも取らん事を欲して、十餘萬の精兵を以て西海道に寇せしが、九州の武士に打破られて全軍悉く沒し、死せずして逃歸る者僅に三人也き、其後伊豫國の住人久留島野島因島の鄕士等、各其一族を集め徒黨を相結び年々船を海外に出し、外國を劫妨して財物賃品を奪取、以て各自の家を富し、是を以て産業として海賊を働きし事多年の事也、
新字:(二)右に説たる如く、海外の□□皆我日本の豊饒なるを羨みて併呑せんと欲る者多し、然共是迄数百年来絶て外寇といふ者無りし事は何の故ぞと考るに大に実拠の有事なり、其実拠とは古し神功皇后親く兵を将ひて大海を渡り、高麗新羅百済任那等を征伐し玉ひて、悉く其酋を降し、日本の属国と為し、威名一時西土を震動す、其後四五百年の間、朝鮮は皇国の属地にして、時々叛く者有毎に兵を出して是を討ち、三韓の間に勇戦せし事幾度といふ事を知らず、其後後宇多天皇の弘安年中に、蒙古の世祖忽必烈既に南宋を滅して支那を一統し、連勝の勢に乗じて皇国をも取らん事を欲して、十余万の精兵を以て西海道に寇せしが、九州の武士に打破られて全軍悉く没し、死せずして逃帰る者僅に三人也き、其後伊予国の住人久留島野島因島の郷士等、各其一族を集め徒党を相結び年々船を海外に出し、外国を劫妨して財物賃品を奪取、以て各自の家を富し、是を以て産業として海賊を働きし事多年の事也、
書き下し
(二)右に說たる如く、海外の□□皆我日本の豐饒なるを羨みて併呑せんと欲る者多し、然共是迄數百年來絶て外寇といふ者無りし事は何の故ぞと考るに大に實據の有事なり、其實據とは古し神功皇后親く兵を將ひて大海を渡り、高麗新羅百濟任那等を征伐し玉ひて、悉く其酋を降し、日本の屬國と爲し、威名一時西土を震動す、其後四五百年の間、朝鮮は皇國の屬地にして、時々叛く者有每に兵を出して是を討ち、三韓の間に勇戰せし事幾度といふ事を知らず、其後後宇多天皇の弘安年中に、蒙古の世祖忽必烈既に南宋を滅して支那を一統し、連勝の勢に乘じて皇國をも取らん事を欲して、十餘萬の精兵を以て西海道に寇せしが、九州の武士に打破られて全軍悉く沒し、死せずして逃歸る者僅に三人也き、其後伊豫國の住人久留島野島因島の鄕士等、各其一族を集め徒黨を相結び年々船を海外に出し、外國を劫妨して財物賃品を奪取、以て各自の家を富し、是を以て産業として海賊を働きし事多年の事也、
現代語訳
(二)前に説いたように、海外の(底本で判読できない字)はみな、わが日本の豊かさをうらやんで併呑しようと欲する者が多い。しかしこれまで数百年来、まったく外寇というものがなかったのはなぜかと考えると、大いに確かな根拠がある。その根拠とは、昔、神功皇后が自ら兵を率いて大海を渡り、高麗・新羅・百済・任那などを征伐され、ことごとくその首長を降し、日本の属国とされ、その威名が一時、西の国々を震わせたことである。その後四、五百年の間、朝鮮は日本の属地であって、時々背く者があるたびに兵を出して討ち、三韓の間で勇ましく戦ったことは幾度とも知れない。その後、後宇多天皇の弘安年間に、蒙古の世祖忽必烈はすでに南宋を滅ぼして中国を統一し、連勝の勢いに乗って日本をも取ろうと欲し、十余万の精兵で西海道を襲ったが、九州の武士に打ち破られて全軍がことごとく没し、死なずに逃げ帰った者はわずか三人であった。その後、伊予国の住人の久留島・野島・因島の郷士らが、それぞれ一族を集めて徒党を組み、毎年船を海外に出して外国を襲い、財物を奪い取り、それで各自の家を富ませ、これを生業として海賊を働いたことは多年に及んだ。
解説
この章句が説くこと
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史記 周本紀成王将に崩ぜんとし、太子釗の任へざるを懼れ、乃ち召公・畢公に命じて諸侯を率ゐて以て太子を相けて之を立てしむ。成王既に崩じ、二公諸侯を率ゐ、太子釗を以て先王の廟に見えしめ、申ねて告ぐるに文王・武王の王業を為すの易からざる所以を以てし、務めは節倹に在り、多欲毋く、篤信を以て之に臨めと、顧命を作る。太子釗遂に立つ。是を康王と為す。康王即位し、遍く諸侯に告げ、宣告するに文武の業を以て之を申ね、康誥を作る。故に成康の際、天下安寧にして、刑錯きて四十余年用ゐず。康王命じて策を作らしめ、畢公をして居里を分かち、成周の郊とせしめ、畢命を作る。康王卒し、子昭王瑕立つ。昭王の時、王道微缺す。昭王南に巡狩して返らず、江上に卒す。其の卒を赴告せず、之を諱むなり。昭王の子満を立つ。是を穆王と為す。穆王即位し、春秋已に五十なり。王道衰微す。穆王文武の道の缺くるを閔み、乃ち伯臩に命じて申ねて太僕国の政を誡めしめ、臩命を作る。復た寧し。穆王将に犬戎を征せんとす。祭公謀父諫めて曰く、「不可なり。先王は徳を燿かして兵を観さず。夫れ兵は戢めて時に動く、動けば則ち威あり。観せば則ち玩ばれ、玩ばるれば則ち震ふこと無し。是の故に周文公の頌に曰く、『載ち干戈を戢め、載ち弓矢を櫜にす。我懿徳を求め、時の夏に肆ぶ。允に王之を保たん』と。先王の民に於けるや、其の徳を茂正して其の性を厚くし、其の財求を阜かにして其の器用を利し、利害の郷を明らかにし、文を以て之を修め、之をして利を務めて害を辟け、徳を懐ひて威を畏れしむ。故に能く世を保ちて以て滋大なり。昔我が先王世后稷として以て虞・夏に服事す。夏の衰ふるに及びてや、稷を棄てて務めず、我が先王不窋用て其の官を失ひて、自ら戎狄の間に竄る。
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『韓非子』守道第二十六夫れ貪盗も谿に赴きて金を掇らず。谿に赴きて金を掇らば則ち身全からず。
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荀子・大略篇斉人(せいひと)魯(ろ)を伐(う)たんと欲するも、卞荘子(べんそうし)を忌(い)みて、敢(あ)へて卞(べん)を過(よぎ)らず。晋人(しんひと)衛(えい)を伐たんと欲するも、子路(しろ)を畏(おそ)れて、敢へて蒲(ほ)を過らず。
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『韓非子』六反第四十六故に曰く、「一姦の罪を重くして、境内の邪を止む。」・・・所謂重刑とは、姦の利する所の者細にして、而も上の焉に加うる所の者大なるなり。民小利を以て大罪を加えられんとせず。故に姦は必ず止む者なり。
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『韓非子』飭令第五十三刑を行いて、其の輕き者を重くすれば、輕き者至らず、重き者來たらず。此を刑を以て刑を去ると謂う。
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呂氏春秋・期賢②趙簡子晝居し、喟然として太息して曰く、「異なるかな。吾、衛を伐たんと欲すること十年、而るに衛伐たず。」侍者曰く、「趙の大を以て、而して衛の細を伐つ、君若し欲せずんば則ち可なり。君若し之を欲せば、請う令して之を伐たんことを。」簡子曰く、「而の言の如からざるなり。衛に士十人有り、吾が所に於り。吾乃ち且に之を伐たんとすれば、十人の者、其の不義を言うなり。而して我之を伐たば、是れ我不義を為すなり。」故に簡子の時、衛十人の者を以て趙の兵を按じ、簡子の身を歿せしめたり。衛は人を用うることを知れりと謂う可し。十士を遊ばして、國家安きを得たり。簡子は好く諫に從えりと謂う可し。十士に聽きて小を侵し弱を奪うの名無し。

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