実武一家言抄録 / 日本の地勢と外圧
(一)我日本の國たるや、支那の東南海中に在て、西は京都の偏西十度餘りなる琉球の入表島より起りて東は京都の偏東十六度程なる蝦夷の厄獨渡布島に至り、南は赤道下を北に距ると廿五度に當れる琉球の宮古島より起て、五十度程なる蝦夷の葛隸弗多島の中央に至る、東西廿六度南北廿五度の海中に盤踞し、山水香麗、氣候溫和、土地極て膏腴にして、物產甚だ豐饒なり、四邊皆海に濱するを以、其漕運の便利なる事天下に比すべきの國なし、誠に世界無双の富饒地也、是を以中古は蒙古の世祖忽必烈なる者混同の志を起し、其後に波爾杜尾爾の波天連等種々奸計を行ひ、近來は魯西亞諳厄利亞等の□□も又皆晴に併呑の念を懷きて、不斷に罅隙を窺ふ事既に年久敷事也、海邊諸國は警めずんばあるべからず、
新字:(一)我日本の国たるや、支那の東南海中に在て、西は京都の偏西十度余りなる琉球の入表島より起りて東は京都の偏東十六度程なる蝦夷の厄独渡布島に至り、南は赤道下を北に距ると廿五度に当れる琉球の宮古島より起て、五十度程なる蝦夷の葛隸弗多島の中央に至る、東西廿六度南北廿五度の海中に盤踞し、山水香麗、気候温和、土地極て膏腴にして、物産甚だ豊饒なり、四辺皆海に浜するを以、其漕運の便利なる事天下に比すべきの国なし、誠に世界無双の富饒地也、是を以中古は蒙古の世祖忽必烈なる者混同の志を起し、其後に波爾杜尾爾の波天連等種々奸計を行ひ、近来は魯西亜諳厄利亜等の□□も又皆晴に併呑の念を懐きて、不断に罅隙を窺ふ事既に年久敷事也、海辺諸国は警めずんばあるべからず、
書き下し
(一)我日本の國たるや、支那の東南海中に在て、西は京都の偏西十度餘りなる琉球の入表島より起りて東は京都の偏東十六度程なる蝦夷の厄獨渡布島に至り、南は赤道下を北に距ると廿五度に當れる琉球の宮古島より起て、五十度程なる蝦夷の葛隸弗多島の中央に至る、東西廿六度南北廿五度の海中に盤踞し、山水香麗、氣候溫和、土地極て膏腴にして、物產甚だ豐饒なり、四邊皆海に濱するを以、其漕運の便利なる事天下に比すべきの國なし、誠に世界無双の富饒地也、是を以中古は蒙古の世祖忽必烈なる者混同の志を起し、其後に波爾杜尾爾の波天連等種々奸計を行ひ、近來は魯西亞諳厄利亞等の□□も又皆晴に併呑の念を懷きて、不斷に罅隙を窺ふ事既に年久敷事也、海邊諸國は警めずんばあるべからず、
現代語訳
(一)わが日本の国は、中国の東南の海中にあって、西は京都の西偏およそ十度余りの琉球の入表島から始まり、東は京都の東偏十六度ほどの蝦夷の厄獨渡布島に至り、南は赤道から北へ二十五度にあたる琉球の宮古島から始まり、五十度ほどの蝦夷の葛隷弗多島の中央に至る。東西二十六度、南北二十五度の海中に根を張り、山水は美しく、気候は温和で、土地はきわめて肥沃で、産物は非常に豊かである。四方みな海に面するので、水運の便利さは天下に比べるべき国がない。まことに世界に並ぶものなき豊かな土地である。このため中古には蒙古の世祖忽必烈という者が天下を一つにする志を起こし、その後にはポルトガルの宣教師らがさまざまな奸計を行い、近年はロシアやイギリスなどの(底本で判読できない字)も皆、日本を併呑しようとの思いを抱き、絶えず隙をうかがうことがすでに長年に及んでいる。海辺の諸国は警戒しなければならない。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『実武一家言抄録』・露英の膨張と弱みを見せる害(四)魯西亞國は、我享保元文の頃次第に東方を經略し、止白亞の地を取盡して葛謨撒都加に大港を開き、此港より船軍を出して鳩刻里斯吉亞の諸島を取、我蝦夷の辣苴哇島に至り、東は亞列烏多斯吉亞の諸島を取、北亞墨利加州の角利句里尼亞國の北境より亞尼俺峽の邊迄を經畧せり、其地本國の都伯多路勃爾孤の城を距事啻に萬里のみに非ず、又諳厄利亞國は兵威頻りに强くして他國を切取し事極て多く、近來南海諸島を經略し、日本の正南千二百里許隔りたる大國を取本國より數萬の軍兵を移して是を新諳厄利亞國と名づけ、所々に城郭を築き守令を置て土人を敎化歸服せしめ、此國を以て基根として近隣の諸島を經略し、國土を切取事次第に廣くし、今の世に當て世界の事體は右の如く吞併の倉の强國多きを以、油斷して萬一弱身を見せ、彼等に日本の武威も最早衰弱せりと思はるゝに至ては、其評判忽ち世界中に流聞して、
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『実武一家言抄録』・外寇なき実拠と倭寇(二)右に說たる如く、海外の□□皆我日本の豐饒なるを羨みて併呑せんと欲る者多し、然共是迄數百年來絶て外寇といふ者無りし事は何の故ぞと考るに大に實據の有事なり、其實據とは古し神功皇后親く兵を將ひて大海を渡り、高麗新羅百濟任那等を征伐し玉ひて、悉く其酋を降し、日本の屬國と爲し、威名一時西土を震動す、其後四五百年の間、朝鮮は皇國の屬地にして、時々叛く者有每に兵を出して是を討ち、三韓の間に勇戰せし事幾度といふ事を知らず、其後後宇多天皇の弘安年中に、蒙古の世祖忽必烈既に南宋を滅して支那を一統し、連勝の勢に乘じて皇國をも取らん事を欲して、十餘萬の精兵を以て西海道に寇せしが、九州の武士に打破られて全軍悉く沒し、死せずして逃歸る者僅に三人也き、其後伊豫國の住人久留島野島因島の鄕士等、各其一族を集め徒黨を相結び年々船を海外に出し、外國を劫妨して財物賃品を奪取、以て各自の家を富し、是を以て産業として海賊を働きし事多年の事也、
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『実武一家言抄録』・水寨と護国の策以後來寇を爲すものは年々次第に多くなるべきは必定の事也、然れば防海の備を怠るは優々しき後の大患を招くべし、故に異國の船の來る每に嚴しく是を打攘て、益々日本の武威を示し、以て夷狄の魂魄を奪ふは、護國第一の良策なるべし、故に予彼賊を取の武備を工夫して玆に其用意を論ず、凡海國の津港には必ず水寨を建て水軍を調練すべし、調練熟習せざれば以て用を爲すべからざるなり、總て天地間の事勢、其力の餘りある者は嫌に人を倒し、其力の足らざる者は恆に人に制せらる、故に護國の最も嚴重なるは、恆に他國を攻伐を以て自國の護りとするより嚴重なるはなし、予が云、此書に論ずる所は只是自國を護るの事のみ、若夫他國を攻伐する法を知らん事を欲せば、予が先年著したる混同秘策四卷あり、今の時代に當ては予が此一家言すら能く用る者有事なし、是永く一家言たる所以也、況や混同秘策に於てをや、豐臣大閤已に死す、嗚呼已ぬる哉、
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『海国兵談抄録』・自序・ロシアの動きと文武両全の勧め竊に憶へば、若くは此以後の清主、無內患の時に乘じ、且つ元の古業を思合せて、如何なる無主義を起す間じきにもあらず、其時に至ては、貪欲を本とすれば、日本の仁政にも不可懐、又兵馬億萬の多きを恃めば、日本の武威にも不可畏、是明迄の唐山と、同じからざるわけ也、又近頃歐羅巴の莫斯哥未亞、其勢ひ無雙にして、遠く韃靼の北地を侵掠し、此ごろは室韋の地方を略して、東の限り加模西葛杜加(即カムサスカ也蝦夷の東北に在)迄、押領したり、然ルに加模西葛杜加より東には此上取べき國土なし、此故に又西に顧みて蝦夷國の東なる千島を手に入るべき機しありと聞及べり、既に明和辛卯の年、莫哥斯未亞より加模西葛杜加え遣し置る豪傑、バロンマオリッツ、アラアダルハン、ベンゴロウといふ者、加模西葛杜加より船を發して、日本え押渡り、港々え下繩して、其の深サを計りながら、日本を過半乘廻したる事あり、就中、土佐の國に於ては、日本國に在合、阿蘭陀人えと認し書を遺置たることもある也、是等の事、其心根可憎可恐、是海國なるがゆへに、來る間敷船も乘る人の機轉次第にて、心易く來らるゝなりと察すべし、さて海國のわけと唐山の時勢とを辨じ得たる上に、又一ッの心得あり、其心得といふは偏武に不陷して、文武兩全なるべき事を欲し願ふべし、偏武なれば野也、無智也、元より兵者凶器也、然れども死生存亡の係る所にして、國の大事是に過るものはなきゆへ、野にして無智なる偏武の輩に任せ難き事也、此故に日本の古代は都には鼓吹司と淳和、獎學の兩院を置、國々には軍團と鄕學とを置て、皆文武を敎られたり、又孔子も文武兩全の意を述て、
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『実武一家言抄録』・武威の評判と秀吉の功西は大明國の山東江南福建廣東廣西より、南は安南廣南古城東玻塞暹羅等の諸國及呂宋澈泥諸島に至る迄、皆此海賊に困まざるはなし、外國の書に倭寇と稱して畏れたる者は即此海賊の事也、其後文祿元年より豐臣關白秀吉公朝鮮國を征伐して其國王を追出し、大明國の大軍と戰ひ數々是を打破り、其威を世界に轟かせり、其後慶長十四年に肥前國島原の城主有馬修理太夫晴信、亞馬港船を燒打して波爾杜瓦爾國の人數四五百を長崎の西海に燒沈たり、此頃薩摩の國主島津修理太夫義久水軍を出し、南海の諸島を經略し次第に南征して琉球國を攻打終に其王を降し、琉球を薩摩の屬國とせり、二百年以前迄の日本の武威は萬國の震ひ恐れたる事也、元來其時代の人は何れも軍事に考練し極て血戰に勇猛なりしを以て、西洋諸國の夷人等も皆其評判を傳へ聞て今に其餘威を畏れ敢て手を出す事能はざる也、是に由て是を觀れば秀吉公の朝鮮を征伐有しは日本總國に於て無窮の大功たる事を知る、盛んなる哉、
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『尚武論』・武国日本と、風土に合った道我が邦は武国なり。西土は文国なり。文国は文を尚び、武国は武を尚ぶ、固より其の所なり。何を以て之を言ふ。夫れ上古数百年の間、逆臣凌がず、外寇入らず、上安く下平らかに、四方事無し。其の治、堯舜の世に孰与れぞ。当時、儒道未だ入らず、仏法未だ興らず。何を以て然るか。唯だ武の治のみ。我が邦に武有るは、我が邦自然の道なり。尚ぶべきかな。何を以て其の然るを知る。曰く、瑞穂国とは、米粟狠戻の謂なり。曰く、細戈千足国とは、武器精備の謂なり。武器精しく、米粟足る。武国に非ずして何ぞ。又曰く、礒馭廬島とは、猶ほ西土の丈夫国と曰ふがごとし。丈夫は即ち武夫の称なり。曰く、浦安国とは、外賊侵す能はず、四辺安寧の義を取るなり。此れ則ち此れ武国たる所以なり。余乃ち卦を以て之を推すに、我が邦は震卦に配す。説卦に曰く、震は龍たり、と。西川求林曰く、我が国の形、游龍の象有り、と。真に然り。我が邦は丈夫と称す、猶ほ彼の国の君子と称するがごとし。西土は文国にして、其の邦已に文を主とす、則ち君子を以て尚しと為す。自づから同じからざるのみ。我が邦の武夫、豈に君子を以て之を称すべけんや。彼も又我が邦を称して君子国と曰ふは、自ら尚ぶ所を以て之を称するなり。固より彼と此と別有るを知らざるなり。聖人の道は天に順ひ時に応ず。子丑寅の建正、忠質文の更尚、彼の土に在りて古今異なる。宜しく已に然るべし。況んや我が邦の彼の邦に於けるや、相距たること幾百里、其の風絶異し、人情同じからず。悪くんぞ其の道を同じうするを獲んや。君子は其の教へを修めて其の俗を易へず、其の政を斉へて其の宜しきを易へず。故に我が邦の武は廃棄すべからざるなり。孔子若し桴に乗りて海に浮かび、既に我が方に在らば、則ち必ず武を以て尚しと為さん。未だ必ずしも文を以て尚しと為さず。若し西土の文に拘泥して国土の道に循はず、曰く、我聖人の道を学ぶ、と。豈に之を聖人の道を知ると謂ふべけんや。聖人は礼楽を以て国を治む。彼の国の礼楽は文を主として之を制す、則ち我が邦の礼楽は宜しく武を主として之を制すべきのみ。東涯先生曰く、今日の世に在りては、今日の楽無かるべからず。何ぞ必ずしも前古の楽を襲ひて以て之を今日に用ひんや。聖人作ること有らば、必ず能く当時の楽を制し、当時の人をして視て之を楽しみ、聴きて之を悦ばしめん。亦唯だ世俗の楽に因りて之を文るのみ、と。其の言甚だ善し。然れども未だ彼と此と文武の異有るを論ずるに及ばず。孔子、韶を謂ふ、美を尽くせり、

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