実武一家言抄録 / 武威の評判と秀吉の功
西は大明國の山東江南福建廣東廣西より、南は安南廣南古城東玻塞暹羅等の諸國及呂宋澈泥諸島に至る迄、皆此海賊に困まざるはなし、外國の書に倭寇と稱して畏れたる者は即此海賊の事也、其後文祿元年より豐臣關白秀吉公朝鮮國を征伐して其國王を追出し、大明國の大軍と戰ひ數々是を打破り、其威を世界に轟かせり、其後慶長十四年に肥前國島原の城主有馬修理太夫晴信、亞馬港船を燒打して波爾杜瓦爾國の人數四五百を長崎の西海に燒沈たり、此頃薩摩の國主島津修理太夫義久水軍を出し、南海の諸島を經略し次第に南征して琉球國を攻打終に其王を降し、琉球を薩摩の屬國とせり、二百年以前迄の日本の武威は萬國の震ひ恐れたる事也、元來其時代の人は何れも軍事に考練し極て血戰に勇猛なりしを以て、西洋諸國の夷人等も皆其評判を傳へ聞て今に其餘威を畏れ敢て手を出す事能はざる也、是に由て是を觀れば秀吉公の朝鮮を征伐有しは日本總國に於て無窮の大功たる事を知る、盛んなる哉、
新字:西は大明国の山東江南福建広東広西より、南は安南広南古城東玻塞暹羅等の諸国及呂宋澈泥諸島に至る迄、皆此海賊に困まざるはなし、外国の書に倭寇と称して畏れたる者は即此海賊の事也、其後文禄元年より豊臣関白秀吉公朝鮮国を征伐して其国王を追出し、大明国の大軍と戦ひ数々是を打破り、其威を世界に轟かせり、其後慶長十四年に肥前国島原の城主有馬修理太夫晴信、亜馬港船を焼打して波爾杜瓦爾国の人数四五百を長崎の西海に焼沈たり、此頃薩摩の国主島津修理太夫義久水軍を出し、南海の諸島を経略し次第に南征して琉球国を攻打終に其王を降し、琉球を薩摩の属国とせり、二百年以前迄の日本の武威は万国の震ひ恐れたる事也、元来其時代の人は何れも軍事に考練し極て血戦に勇猛なりしを以て、西洋諸国の夷人等も皆其評判を伝へ聞て今に其余威を畏れ敢て手を出す事能はざる也、是に由て是を観れば秀吉公の朝鮮を征伐有しは日本総国に於て無窮の大功たる事を知る、盛んなる哉、
書き下し
西は大明國の山東江南福建廣東廣西より、南は安南廣南古城東玻塞暹羅等の諸國及呂宋澈泥諸島に至る迄、皆此海賊に困まざるはなし、外國の書に倭寇と稱して畏れたる者は即此海賊の事也、其後文祿元年より豐臣關白秀吉公朝鮮國を征伐して其國王を追出し、大明國の大軍と戰ひ數々是を打破り、其威を世界に轟かせり、其後慶長十四年に肥前國島原の城主有馬修理太夫晴信、亞馬港船を燒打して波爾杜瓦爾國の人數四五百を長崎の西海に燒沈たり、此頃薩摩の國主島津修理太夫義久水軍を出し、南海の諸島を經略し次第に南征して琉球國を攻打終に其王を降し、琉球を薩摩の屬國とせり、二百年以前迄の日本の武威は萬國の震ひ恐れたる事也、元來其時代の人は何れも軍事に考練し極て血戰に勇猛なりしを以て、西洋諸國の夷人等も皆其評判を傳へ聞て今に其餘威を畏れ敢て手を出す事能はざる也、是に由て是を觀れば秀吉公の朝鮮を征伐有しは日本總國に於て無窮の大功たる事を知る、盛んなる哉、
現代語訳
西は大明国の山東・江南・福建・広東・広西から、南は安南・広南・古城・東埔寨・暹羅などの諸国および呂宋・渤泥の諸島に至るまで、この海賊に苦しまないところはなかった。外国の書に倭寇と称して恐れたものは、すなわちこの海賊のことである。その後、文禄元年から豊臣関白秀吉公が朝鮮国を征伐してその国王を追い出し、大明国の大軍と戦ってしばしばこれを打ち破り、その威を世界に轟かせた。その後、慶長十四年に、肥前国島原の城主有馬修理太夫晴信が、マカオの船を焼き討ちして、ポルトガルの人数四、五百を長崎の西の海に焼き沈めた。このころ、薩摩の国主島津修理太夫義久が水軍を出して南海の諸島を経略し、しだいに南征して琉球国を攻め、ついにその王を降し、琉球を薩摩の属国とした。二百年以前までの日本の武威は、万国が震え恐れたものである。もともとその時代の人は、みな軍事に鍛錬を重ねて血戦に勇猛であったので、西洋諸国の外国人らもみなその評判を伝え聞いて、今にその余威を恐れて、あえて手を出すことができないのである。これによって見れば、秀吉公が朝鮮を征伐したことは、日本全国にとって限りない大功であったことが分かる。盛んなことだ。
解説
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『実武一家言抄録』・外寇なき実拠と倭寇(二)右に說たる如く、海外の□□皆我日本の豐饒なるを羨みて併呑せんと欲る者多し、然共是迄數百年來絶て外寇といふ者無りし事は何の故ぞと考るに大に實據の有事なり、其實據とは古し神功皇后親く兵を將ひて大海を渡り、高麗新羅百濟任那等を征伐し玉ひて、悉く其酋を降し、日本の屬國と爲し、威名一時西土を震動す、其後四五百年の間、朝鮮は皇國の屬地にして、時々叛く者有每に兵を出して是を討ち、三韓の間に勇戰せし事幾度といふ事を知らず、其後後宇多天皇の弘安年中に、蒙古の世祖忽必烈既に南宋を滅して支那を一統し、連勝の勢に乘じて皇國をも取らん事を欲して、十餘萬の精兵を以て西海道に寇せしが、九州の武士に打破られて全軍悉く沒し、死せずして逃歸る者僅に三人也き、其後伊豫國の住人久留島野島因島の鄕士等、各其一族を集め徒黨を相結び年々船を海外に出し、外國を劫妨して財物賃品を奪取、以て各自の家を富し、是を以て産業として海賊を働きし事多年の事也、
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『艮斎閑話抄録』・元寇と朝鮮の役に見る日本の武勇神武天皇神聖英武を以海內を統壹し、億載の鴻基を建玉ひしより、日本武尊勇武を以東夷を平盪し、武內大臣精兵を提げ三韓を征討し、威稜百蠻に震ひ、外國より侵すとあたはず、唯蒙古の忽必烈吾使節を通ぜざるを憤どほり、范文虎を大將として十萬の兵を率ひ吾西陲を寇せしなり、忽必烈は一代の英主にて強悍の金源を滅し、跋扈の西夏を破り、遂に南宋を取て天下を一統す、其強大知べし、故に吾國を海心孤懸の小島なんど、輕侮し、其目中に六十餘州はなき物なりと、驕誇の心にて南宋を取し破竹の勢に乘じ、數百艘の軍艦鵬雲の起る如く攻來りしが、一敗地に塗し、十萬兵皆海底の魚腹に葬る、歸る者僅に三人なり、吾國武勇の盛りなるかくの如し、此時北條時宗鎌倉に在て指揮皆宜を得、西州の將士力戰して強敵を破りしは、吾邦萬世の名譽なり、太閤秀吉の朝鮮を征する、碧蹄館の戰ひに、小早川隆景、毛利秀包、立花宗茂は三四萬の兵にて明の李如松の二十萬の兵と格闘し、秋風の落葉を掃ふ如く猛虎の群羊を驅が如く、明兵大敗して死者四萬餘人、李如松も井上某に殆生獲せられんとす、
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『明訓一班抄抄録』・夷狄を近付べからざる事・油断と備えの教訓を元寇と朝鮮の例から読む其後人皇八十九代龜山院御宇、文永年中鎌倉將軍七代目惟京、執事時宗代、蒙古國北狄起て中華を治め元と號す、日本を從へんと、度々書翰を贈り使を立てけれども、日本にて不請、是に依て日本の武勇試に、兵船千艘渡し、九州の內を亂妨すれども、はか〱しき一戰もなく、矢種盡し故、千艘の船無事に歸帆して、日本の武威聞しよりも患也とて、建治四年(元本の儘に認るといへども弘安四年の誤りなるべし)に蒙古兵船六萬艘渡し、平戶五龍山へ着岸す、然るに八月朔日大風吹て蒙古の船こと〲く海中に吹流し、生殘る兵をば八方に散す、是偏に元の世祖弓箭に取ほこりたる故也、文永の千艘の船を手痛く當らざるは日本弓箭のおくれ也、是を手痛當ては建治の兵船は渡海せまじきぞ、右の大風は頼にならざるぞ、然る時は良將を撰み九州に置て手痛く當てよ、尤萬里の海上一帆に來る間油斷する事なかれ、乘ての覺悟第一ぞ、仔細は身に灸をすると、又飛火の心得にて、油斷と油斷せざるとはよろづ心得少々もあらば、木曾判官を釜山浦に置き日本勢を押へさせば、朝鮮進發むなしと有べけれ共、朝鮮數年治平にて、武勇悉く取失ひ、柔弱美麗なりし故、何の仔細なく攻亡されたり、秀吉彼の柔弱成事を內に聞て、弓矢に取ほこつての事なり、總て用心は太平の時成ぞ、寸善尺魔とて、異國太平成時は日本より攻か、日本治平なる時は異國より攻か、平家太平成時は源氏より攻め、源氏太平なれば平家より攻るぞ、譬へば隣家の焼るに我家の用心せざるは愚なりとの上意也、同上意に、日本國共に武道の捨らざる事、我が朝の本意なり、其故は日本太平にして武道怠る時は異國より日本を窺へ、又異國太平にして武道怠る時は韃靼日本より大唐を伺ぞ、彼の秀吉朝鮮の軍も是也、然ば日本武將は此心得第一也、
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『実武一家言抄録』・水寨と護国の策以後來寇を爲すものは年々次第に多くなるべきは必定の事也、然れば防海の備を怠るは優々しき後の大患を招くべし、故に異國の船の來る每に嚴しく是を打攘て、益々日本の武威を示し、以て夷狄の魂魄を奪ふは、護國第一の良策なるべし、故に予彼賊を取の武備を工夫して玆に其用意を論ず、凡海國の津港には必ず水寨を建て水軍を調練すべし、調練熟習せざれば以て用を爲すべからざるなり、總て天地間の事勢、其力の餘りある者は嫌に人を倒し、其力の足らざる者は恆に人に制せらる、故に護國の最も嚴重なるは、恆に他國を攻伐を以て自國の護りとするより嚴重なるはなし、予が云、此書に論ずる所は只是自國を護るの事のみ、若夫他國を攻伐する法を知らん事を欲せば、予が先年著したる混同秘策四卷あり、今の時代に當ては予が此一家言すら能く用る者有事なし、是永く一家言たる所以也、況や混同秘策に於てをや、豐臣大閤已に死す、嗚呼已ぬる哉、
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『実武一家言抄録』・日本の地勢と外圧(一)我日本の國たるや、支那の東南海中に在て、西は京都の偏西十度餘りなる琉球の入表島より起りて東は京都の偏東十六度程なる蝦夷の厄獨渡布島に至り、南は赤道下を北に距ると廿五度に當れる琉球の宮古島より起て、五十度程なる蝦夷の葛隸弗多島の中央に至る、東西廿六度南北廿五度の海中に盤踞し、山水香麗、氣候溫和、土地極て膏腴にして、物產甚だ豐饒なり、四邊皆海に濱するを以、其漕運の便利なる事天下に比すべきの國なし、誠に世界無双の富饒地也、是を以中古は蒙古の世祖忽必烈なる者混同の志を起し、其後に波爾杜尾爾の波天連等種々奸計を行ひ、近來は魯西亞諳厄利亞等の□□も又皆晴に併呑の念を懷きて、不斷に罅隙を窺ふ事既に年久敷事也、海邊諸國は警めずんばあるべからず、
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『秘本玉くしげ』下 明の援軍十万これみな世々の書にのせたる、かの国中の戸口の数、軍賦の数などを見てもよくしらるること也。すでに豊臣太閤朝鮮御征伐の時、唐土よりの加勢の軍などをも、此方の人は或は五十万百万などと聞て、おびただしきことのやうにいひふらしつれども、大なる相違にて、其時の軍兵始終十万にも過たることはなし。それほどの軍兵も、大抵の事にてはかり催しがたくて、いろいろと世話をやきてやうやうに催し立たるところ、右のごとくなりし。これみなかの国の書共に見えたる事也。さてかの時の戦ひは、此方にも小西の如き臆病神のつきたりし衆もありつればこそ、まれまれには負軍もありつれ、左様のききおぢだにせずば、始終毎度十分の勝たるべし。

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