神皇正統記 / 巻六 第九十五代 後醍醐天皇
かねて時をもさとらしめ給けるにや、まへの夜より親王をば左大臣の亭へうつし奉られて、三種の神器を伝へ申さる。後の号をば、仰のまゝにて後醍醐天皇と申。天下を治給こと二十一年。五十二歳おまし〳〵き。昔仲哀天皇熊襲をせめさせ給し行宮にて神さりまし〳〵き。されど神功皇后程なく三韓をたひらげ、諸皇子の乱をしづめられて、胎中天皇の御代にさだまりき。この君聖運まし〳〵しかば、百七十余年中たえにし一統の天下をしらせ給て、御目の前にて日嗣をさだめさせ給ぬ。功もなく徳もなきぬす人世におごりて、四とせ余がほど宸襟をなやまし、御世をすぐさせ給ぬれば、御怨念の末むなしく侍りなんや。今の御門また天照太神よりこのかたの正統をうけまし〳〵ぬれば、この御光にあらそひたてまつる者やはあるべき。中〳〵かくてしづまるべき時の運とぞおぼえ侍る。
書き下し
かねて時をもさとらしめ給けるにや、まへの夜より親王をば左大臣の亭へうつし奉られて、三種の神器を伝へ申さる。後の号をば、仰のまゝにて後醍醐天皇と申。天下を治給こと二十一年。五十二歳おましましき。昔仲哀天皇熊襲をせめさせ給し行宮にて神さりましましき。されど神功皇后程なく三韓をたひらげ、諸皇子の乱をしづめられて、胎中天皇の御代にさだまりき。この君聖運ましまししかば、百七十余年中たえにし一統の天下をしらせ給て、御目の前にて日嗣をさだめさせ給ぬ。功もなく徳もなきぬす人世におごりて、四とせ余がほど宸襟をなやまし、御世をすぐさせ給ぬれば、御怨念の末むなしく侍りなんや。今の御門また天照太神よりこのかたの正統をうけましましぬれば、この御光にあらそひたてまつる者やはあるべき。中々かくてしづまるべき時の運とぞおぼえ侍る。
現代語訳
かねて時期をお悟りになっていたのであろうか、前の夜から親王を左大臣の邸にお移し申しあげて、三種の神器をお伝え申された。後の号は、仰せのままに後醍醐天皇と申す。天下を治められること二十一年。五十二歳であられた。昔、仲哀天皇は熊襲をお攻めになった行宮でお亡くなりになった。けれども神功皇后はほどなく三韓を平らげ、諸皇子の乱を鎮められて、胎中天皇(応神天皇)の御代に定まった。この君は聖運がおありになったので、百七十余年のあいだ絶えていた一統の天下をお治めになり、御目の前で日嗣をお定めになった。功もなく徳もない盗人が世に驕って、四年余りのあいだ宸襟を悩まし申し、そのまま御世をお過ごしになったのだから、御怨念の末がむなしく終わることがあろうか。今の帝もまた天照太神以来の正統をお受けになったのだから、この御光に争い申す者などあるはずがない。かえってこうして世が鎮まるべき時の運と思われる。
解説
関連する章句
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『神皇正統記』巻六 第九十五代 後醍醐天皇戊午の年即位、己未の夏四月に改元。々応と号す。はじめつかたは後宇多院の御まつりことなりしを、中二とせばかりありてぞゆづり申させ給し。それよりふるきがごとくに記録所をおかれて、夙におき、夜はにおほとのごもりて、民のうれへをきかせ給。天下こぞりてこれをあふぎ奉る。公家のふるき御政にかへるべき世にこそとたかきもいやしきも、かねてうたひ侍き。かゝりしほどに後宇多院かくれさせ給て、いつしか東宮の御方にさぶらふ人々そはそはにきこえしが、関東に使節をつかはされ天位をあらそふまでの御中らひになりにき。あづまにも東宮の御ことをひき立申輩ありて、御いきどほりのはじめとなりぬ。元亨甲子の九月のすゑつかた、やうやう事あらはれにしかども、うけたまはりおこなふ中にいふかひなき事いできにしかど、大方はことなくてやみぬ。其後ほどなく東宮かくれ給。神慮にもかなはず、祖皇の御いましめにもたがはせ給けりとぞおぼえし。今こそ此天皇うたがひなき継体の正統にさだまらせ給ひぬれ。
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『神皇正統記』巻六 第九十五代 後醍醐天皇同風のまぎれに、東をさして常陸国なる内の海につきたる船はべりき。方々にたゞよひし中に、この二のふねおなじ風にて東西にふきわけゝる、末の世にはめづらかなるためしにぞ侍べき。儲の君にさだまらせ給て、例なきひなの御すまひもいかゞとおぼえしに、皇太神のとゞめ申させ給けるなるべし。後に芳野へいらせましまして、御目の前にて天位をつがせ給しかば、いとゞおもひあはせられてたふとく侍るかな。又常陸国はもとより心ざす方なれば、御志ある輩あひはからひて義兵こはくなりぬ。奥州・野州の守も次の年の春かさねて下向して、おのおの国につきはべりにき。さても旧都には、戊寅の年の冬改元して暦応とぞ云ける。芳野の宮にはもとの延元の号なれば、国々もおもひおもひの号なり。もろこしには、かゝるためしおほけれど、此国には例なし。されど四とせにもなりぬるにや。大日本嶋根はもとよりの皇都也。内侍所・神璽も芳野におはしませば、いづくか都にあらざるべき。さても八月の十日あまり六日にや、秋霧にをかされさせ給てかくれましましぬとぞきこえし。
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『神皇正統記』巻六 第九十五代 後醍醐天皇もとのごとく存位の儀にてぞましましける。内侍所もうつらせ給、神璽も御身にしたがへ給けり。まことに奇特のことにこそ侍しか。芳野のみゆきにさきだちて、義兵をおこす輩もはべりき。臨幸の後には国々にも御心ざしあるたぐひあまたきこえしかど、つぎの年もくれぬ。又の年戊寅の春二月、鎮守大将軍顕家卿又親王をさきだて申、かさねてうちのぼる。海道の国々ことごとくたひらぎぬ。伊勢・伊賀をへて大和に入、奈良の京になんつきにける。それより所々の合戦あまたゝび互に勝負侍りしに、同五月和泉国にてのたゝかひに、時やいたらざりけん、忠孝の道こゝにきはまりはべりにき。苔の下にうづもれぬものとてはたゞいたづらに名をのみぞとゞめてし、心うき世にもはべるかな。官軍猶こゝろをはげまして、男山に陣をとりて、しばらく合戦ありしかど、朝敵忍て社壇をやきはらひしより、ことならずして引しりぞく。北国にありし義貞もたびたびめされしかど、のぼりあへず。させることなくてむなしくさへなりぬときこえしかば、云ふばかりなし。
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『神皇正統記』巻六 第九十五代 後醍醐天皇第九十五代、第四十九世、後醍醐天皇。諱は尊治、後宇多第二の御子。御母談天門院、藤原忠子、内大臣師継の女、実は入道参議忠継女なり。御祖父亀山の上皇やしなひ申給き。弘安に、時うつりて亀山・後宇多世をしろしめさずなりにしを、たびたび関東に仰給しかば、天命の理かたじけなくおそれ思ければにや、俄に立太子の沙汰ありしに、亀山はこの君をすゑ奉らんとおぼしめして、八幡宮に告文ををさめ給しかど、一の御子さしたるゆゑなくてすてられがたき御ことなりければ、後二条ぞゐ給へりし。されど後宇多の御心ざしもあさからず。御元服ありて村上の例により、太宰帥にて節会などに出させ給き。後に中務卿を兼せさせ給。後二条世をはやくしましまして、父の上皇なげかせ給し中にも、よろづこの君にぞ委附し申させ給ける。やがて儲君のさだめありしに、後二条の一のみこ邦良親王ゐ給べきかときこえしに、おぼしめすゆゑありとて、此親王を太子にたて給。「かの一のみこをさなくましませば、御子の儀にて伝へさせ給べし。
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『神皇正統記』巻六 第九十五代 後醍醐天皇もし邦良親王早世の御ことあらば、この御すゑ継体たるべし。」とぞしるしおかせましましける。彼親王鶴膝の御病ありて、あやふくおぼしめしけるゆゑなるべし。後宇多の御門こそゆゝしき稽古の君にましましゝに、その御跡をばよくつぎ申させ給へり。あまさへもろもろの道をこのみしらせ給こと、ありがたき程の御ことなりけんかし。仏法にも御心ざしふかくて、むねと真言をならはせ給。はじめは法皇にうけましましけるが、後に前大僧正禅助に許可までうけ給けるとぞ。天子潅頂の例は唐朝にもみえはべり。本朝にも清和の御門、禁中にて慈覚大師に潅頂をおこなはる。主上をはじめ奉りて忠仁公などもうけられたる、これは結縁潅頂とぞ申める。此度はまことの授職とおぼしめしゝにや。されど猶許可にさだまりにきとぞ。それならず、又諸流をもうけさせ給。又諸宗をもすてたまはず。本朝異朝禅門の僧徒までも内にめしてとぶらはせ給き。すべて和漢の道にかねあきらかなる御ことは中比よりの代々にはこえさせましましけるにや。
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『神皇正統記』巻六 第九十五代 後醍醐天皇符契をあはすることもなかりしに、筑紫の国々・陸奥・出羽のおくまでも同月にぞしづまりにける。六七千里のあひだ、一時におこりあひにし、時のいたり運の極ぬるはかゝることにこそと不思議にも侍しもの哉。君はかくともしらせ給はず、摂津国西の宮と云所にてぞきかせましましける。六月四日東寺にいらせ給ふ。都にある人々まゐりあつまりしかば、威儀をとゝのへて本の宮に還幸し給。いつしか賞罰のさだめありしに、両院・新帝をばなだめ申給て、都にすませましましける。されど新帝は偽主の儀にて正位にはもちゐられず。改元して正慶と云しをも本のごとく元弘と号せられ、官位昇進せし輩もみな元弘元年八月よりさきのまゝにてぞありし。
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