神皇正統記 / 巻六 第九十五代 後醍醐天皇
もし邦良親王早世の御ことあらば、この御すゑ継体たるべし。」とぞしるしおかせましましける。彼親王鶴膝の御病ありて、あやふくおぼしめしけるゆゑなるべし。後宇多の御門こそゆゝしき稽古の君にましましゝに、その御跡をばよくつぎ申させ給へり。あまさへもろ〳〵の道をこのみしらせ給こと、ありがたき程の御ことなりけんかし。仏法にも御心ざしふかくて、むねと真言をならはせ給。はじめは法皇にうけましましけるが、後に前大僧正禅助に許可までうけ給けるとぞ。天子潅頂の例は唐朝にもみえはべり。本朝にも清和の御門、禁中にて慈覚大師に潅頂をおこなはる。主上をはじめ奉りて忠仁公などもうけられたる、これは結縁潅頂とぞ申める。此度はまことの授職とおぼしめしゝにや。されど猶許可にさだまりにきとぞ。それならず、又諸流をもうけさせ給。又諸宗をもすてたまはず。本朝異朝禅門の僧徒までも内にめしてとぶらはせ給き。すべて和漢の道にかねあきらかなる御ことは中比よりの代々にはこえさせまし〳〵けるにや。
書き下し
もし邦良親王早世の御ことあらば、この御すゑ継体たるべし。」とぞしるしおかせましましける。彼親王鶴膝の御病ありて、あやふくおぼしめしけるゆゑなるべし。後宇多の御門こそゆゝしき稽古の君にましましゝに、その御跡をばよくつぎ申させ給へり。あまさへもろもろの道をこのみしらせ給こと、ありがたき程の御ことなりけんかし。仏法にも御心ざしふかくて、むねと真言をならはせ給。はじめは法皇にうけましましけるが、後に前大僧正禅助に許可までうけ給けるとぞ。天子潅頂の例は唐朝にもみえはべり。本朝にも清和の御門、禁中にて慈覚大師に潅頂をおこなはる。主上をはじめ奉りて忠仁公などもうけられたる、これは結縁潅頂とぞ申める。此度はまことの授職とおぼしめしゝにや。されど猶許可にさだまりにきとぞ。それならず、又諸流をもうけさせ給。又諸宗をもすてたまはず。本朝異朝禅門の僧徒までも内にめしてとぶらはせ給き。すべて和漢の道にかねあきらかなる御ことは中比よりの代々にはこえさせましましけるにや。
現代語訳
もし邦良親王が早世されることがあれば、この君の御子孫が皇統を継ぐべきである」と書き記しておかれた。あの親王(邦良親王)には鶴膝の病(膝が腫れて細る病)があって、危ぶまれていたからであろう。後宇多院こそ大した学問の君であられたが、(後醍醐天皇は)その御跡をよくお継ぎになった。そのうえ諸々の道を好んで通じておられたことは、めったにないほどのことであったろう。仏法にも深く志され、主として真言を学ばれた。はじめは法皇(後宇多院)から受けておられたが、のちに前大僧正禅助から許可(伝法の許し)まで受けられたという。天子が灌頂を受ける例は唐朝にも見える。わが国でも清和天皇が宮中で慈覚大師(円仁)に灌頂を行わせられた。天皇をはじめとして忠仁公(藤原良房)なども受けられたが、これは結縁灌頂というものだという。このたびはまことの授職(伝法灌頂)とお考えになったのであろうか。しかしやはり許可に定まったという。それだけでなく、また諸流の法も受けられた。また諸宗も捨てられなかった。わが国や異国の禅門の僧たちまで宮中に召して、教えをお尋ねになった。およそ和漢の道にあわせて通じておられることでは、中頃以来の代々の天皇にまさっておられたのではないか。
解説
関連する章句
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『神皇正統記』巻六 第九十五代 後醍醐天皇第九十五代、第四十九世、後醍醐天皇。諱は尊治、後宇多第二の御子。御母談天門院、藤原忠子、内大臣師継の女、実は入道参議忠継女なり。御祖父亀山の上皇やしなひ申給き。弘安に、時うつりて亀山・後宇多世をしろしめさずなりにしを、たびたび関東に仰給しかば、天命の理かたじけなくおそれ思ければにや、俄に立太子の沙汰ありしに、亀山はこの君をすゑ奉らんとおぼしめして、八幡宮に告文ををさめ給しかど、一の御子さしたるゆゑなくてすてられがたき御ことなりければ、後二条ぞゐ給へりし。されど後宇多の御心ざしもあさからず。御元服ありて村上の例により、太宰帥にて節会などに出させ給き。後に中務卿を兼せさせ給。後二条世をはやくしましまして、父の上皇なげかせ給し中にも、よろづこの君にぞ委附し申させ給ける。やがて儲君のさだめありしに、後二条の一のみこ邦良親王ゐ給べきかときこえしに、おぼしめすゆゑありとて、此親王を太子にたて給。「かの一のみこをさなくましませば、御子の儀にて伝へさせ給べし。
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『神皇正統記』巻六 第九十五代 後醍醐天皇戊午の年即位、己未の夏四月に改元。々応と号す。はじめつかたは後宇多院の御まつりことなりしを、中二とせばかりありてぞゆづり申させ給し。それよりふるきがごとくに記録所をおかれて、夙におき、夜はにおほとのごもりて、民のうれへをきかせ給。天下こぞりてこれをあふぎ奉る。公家のふるき御政にかへるべき世にこそとたかきもいやしきも、かねてうたひ侍き。かゝりしほどに後宇多院かくれさせ給て、いつしか東宮の御方にさぶらふ人々そはそはにきこえしが、関東に使節をつかはされ天位をあらそふまでの御中らひになりにき。あづまにも東宮の御ことをひき立申輩ありて、御いきどほりのはじめとなりぬ。元亨甲子の九月のすゑつかた、やうやう事あらはれにしかども、うけたまはりおこなふ中にいふかひなき事いできにしかど、大方はことなくてやみぬ。其後ほどなく東宮かくれ給。神慮にもかなはず、祖皇の御いましめにもたがはせ給けりとぞおぼえし。今こそ此天皇うたがひなき継体の正統にさだまらせ給ひぬれ。
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『神皇正統記』巻五 第九十代 後宇多院寛平はことにひろくまなばせ給ければにや、周易の深き道をも愛成と云博士にうけさせ給き。延喜の御こと左右にあたはず。菅氏輔佐したてまつられき。其後も紀納言・善相公等の名儒ありしかば、文道のさかりなりしことも上古におよべりき。此御誡につきて「天子の御学問さまでなくとも」と申人のはべる、あさましきことなり。何事も文の上にてよく料簡あるべきをや。此君は在位にても政事をしらせ給はず、又院にて十余年閑居し給へりしかば、稽古にあきらかに、諸道をしらせ給なるべし。御出家の後もねむごろにおこなはせましましき。上皇の出家せさせ給ことは、聖武・孝謙・平城・清和・宇多・朱雀・円融・花山・後三条・白河・鳥羽・崇徳・後白河・後鳥羽・後嵯峨・深草・亀山にまします。醍醐・一条は御病おもくなりてぞせさせ給し。かやうにあまたきこえさせ給しかど、戒律を具足し、始終かくることなく密宗をきはめて大阿闍梨をさへせさせ給しこといとありがたき御こと也。この御すゑに一統の運をひらかるゝ、有徳の余薫とぞおもひ給る。元亨のすゑ甲子の六月に五十八歳にてかくれましましき。
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『神皇正統記』巻六 第九十五代 後醍醐天皇かねて時をもさとらしめ給けるにや、まへの夜より親王をば左大臣の亭へうつし奉られて、三種の神器を伝へ申さる。後の号をば、仰のまゝにて後醍醐天皇と申。天下を治給こと二十一年。五十二歳おましましき。昔仲哀天皇熊襲をせめさせ給し行宮にて神さりましましき。されど神功皇后程なく三韓をたひらげ、諸皇子の乱をしづめられて、胎中天皇の御代にさだまりき。この君聖運ましまししかば、百七十余年中たえにし一統の天下をしらせ給て、御目の前にて日嗣をさだめさせ給ぬ。功もなく徳もなきぬす人世におごりて、四とせ余がほど宸襟をなやまし、御世をすぐさせ給ぬれば、御怨念の末むなしく侍りなんや。今の御門また天照太神よりこのかたの正統をうけましましぬれば、この御光にあらそひたてまつる者やはあるべき。中々かくてしづまるべき時の運とぞおぼえ侍る。
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