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神皇正統記 / 巻六 第九十五代 後醍醐天皇

戊午の年即位、己未の夏四月に改元。々応と号す。はじめつかたは後宇多院の御まつりことなりしを、中二とせばかりありてぞゆづり申させ給し。それよりふるきがごとくに記録所をおかれて、夙におき、夜はにおほとのごもりて、民のうれへをきかせ給。天下こぞりてこれをあふぎ奉る。公家のふるき御政にかへるべき世にこそとたかきもいやしきも、かねてうたひ侍き。かゝりしほどに後宇多院かくれさせ給て、いつしか東宮の御方にさぶらふ人々そは〳〵にきこえしが、関東に使節をつかはされ天位をあらそふまでの御中らひになりにき。あづまにも東宮の御ことをひき立申輩ありて、御いきどほりのはじめとなりぬ。元亨甲子の九月のすゑつかた、やう〳〵事あらはれにしかども、うけたまはりおこなふ中にいふかひなき事いできにしかど、大方はことなくてやみぬ。其後ほどなく東宮かくれ給。神慮にもかなはず、祖皇の御いましめにもたがはせ給けりとぞおぼえし。今こそ此天皇うたがひなき継体の正統にさだまらせ給ひぬれ。

書き下し

戊午の年即位、己未の夏四月に改元。々応と号す。はじめつかたは後宇多院の御まつりことなりしを、中二とせばかりありてぞゆづり申させ給し。それよりふるきがごとくに記録所をおかれて、夙におき、夜はにおほとのごもりて、民のうれへをきかせ給。天下こぞりてこれをあふぎ奉る。公家のふるき御政にかへるべき世にこそとたかきもいやしきも、かねてうたひ侍き。かゝりしほどに後宇多院かくれさせ給て、いつしか東宮の御方にさぶらふ人々そはそはにきこえしが、関東に使節をつかはされ天位をあらそふまでの御中らひになりにき。あづまにも東宮の御ことをひき立申輩ありて、御いきどほりのはじめとなりぬ。元亨甲子の九月のすゑつかた、やうやう事あらはれにしかども、うけたまはりおこなふ中にいふかひなき事いできにしかど、大方はことなくてやみぬ。其後ほどなく東宮かくれ給。神慮にもかなはず、祖皇の御いましめにもたがはせ給けりとぞおぼえし。今こそ此天皇うたがひなき継体の正統にさだまらせ給ひぬれ。

現代語訳

戊午の年(一三一八年)に即位し、己未の年の夏四月に改元した。元応と号した。はじめのうちは後宇多院の院政であったが、二年ほどして政務をお譲り申しあげた。それからは昔のように記録所を置かれ、朝早く起き、夜更けにお休みになって、民の訴えをお聞きになった。天下こぞってこれを仰ぎ申しあげた。公家の昔の政治に返る世になるにちがいないと、身分の高い者も低い者も、かねて口にしていた。そうしているうちに後宇多院がお亡くなりになり、いつのまにか東宮(邦良親王)の側に仕える人々が落ち着かない様子だと聞こえていたが、関東に使節を遣わして皇位を争うほどの間柄になってしまった。東国にも東宮の方を引き立て申しあげる者たちがいて、(天皇の)お憤りの始まりとなった。元亨甲子(一三二四年)の九月の末頃、しだいに事が露見したが、命を受けて処置する者の中にふがいないことが起こった。けれどもおおかたは何事もなく収まった。その後ほどなく東宮がお亡くなりになった。(東宮の側は)神慮にもかなわず、祖父の上皇の御戒めにも背かれたのだと思われた。今こそこの天皇が、疑いのない皇統の正統に定まられたのである。

解説

後醍醐天皇の親政の始まりと、東宮邦良親王との対立を記す段である。院政が終わると、天皇は記録所を置き、朝早くから夜更けまで民の訴えを聞いた。人々は「公家のふるき御政」に戻る世が来ると期待した、と親房は書く。延喜・天暦の治を理想とする公家の期待が、ここで一度高まったのである。一方で、東宮の側近が鎌倉に使いを送って皇位を争い、鎌倉にも東宮を推す者がいた。元亨甲子の年の出来事、のちに正中の変と呼ばれる一件は「うけたまはりおこなふ中にいふかひなき事いできにしかど」と、ごく控えめに触れるだけである。そして東宮が亡くなったことを、祖父の遺言に背いた結果とみなし、ここで後醍醐天皇が「うたがひなき継体の正統」に定まったとする。前段の条件付きの継承が、ここで確定に変わるという筋立てである。

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