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神皇正統記 / 巻六 第九十五代 後醍醐天皇

もとのごとく存位の儀にてぞまし〳〵ける。内侍所もうつらせ給、神璽も御身にしたがへ給けり。まことに奇特のことにこそ侍しか。芳野のみゆきにさきだちて、義兵をおこす輩もはべりき。臨幸の後には国々にも御心ざしあるたぐひあまたきこえしかど、つぎの年もくれぬ。又の年戊寅の春二月、鎮守大将軍顕家卿又親王をさきだて申、かさねてうちのぼる。海道の国々こと〴〵くたひらぎぬ。伊勢・伊賀をへて大和に入、奈良の京になんつきにける。それより所々の合戦あまたゝび互に勝負侍りしに、同五月和泉国にてのたゝかひに、時やいたらざりけん、忠孝の道こゝにきはまりはべりにき。苔の下にうづもれぬものとてはたゞいたづらに名をのみぞとゞめてし、心うき世にもはべるかな。官軍猶こゝろをはげまして、男山に陣をとりて、しばらく合戦ありしかど、朝敵忍て社壇をやきはらひしより、ことならずして引しりぞく。北国にありし義貞もたび〳〵めされしかど、のぼりあへず。させることなくてむなしくさへなりぬときこえしかば、云ふばかりなし。

書き下し

もとのごとく存位の儀にてぞましましける。内侍所もうつらせ給、神璽も御身にしたがへ給けり。まことに奇特のことにこそ侍しか。芳野のみゆきにさきだちて、義兵をおこす輩もはべりき。臨幸の後には国々にも御心ざしあるたぐひあまたきこえしかど、つぎの年もくれぬ。又の年戊寅の春二月、鎮守大将軍顕家卿又親王をさきだて申、かさねてうちのぼる。海道の国々ことごとくたひらぎぬ。伊勢・伊賀をへて大和に入、奈良の京になんつきにける。それより所々の合戦あまたゝび互に勝負侍りしに、同五月和泉国にてのたゝかひに、時やいたらざりけん、忠孝の道こゝにきはまりはべりにき。苔の下にうづもれぬものとてはたゞいたづらに名をのみぞとゞめてし、心うき世にもはべるかな。官軍猶こゝろをはげまして、男山に陣をとりて、しばらく合戦ありしかど、朝敵忍て社壇をやきはらひしより、ことならずして引しりぞく。北国にありし義貞もたびたびめされしかど、のぼりあへず。させることなくてむなしくさへなりぬときこえしかば、云ふばかりなし。

現代語訳

(吉野では)もとのとおり在位の扱いでおられた。内侍所(神鏡)もお移りになり、神璽も御身に従えておられた。まことに不思議なほど尊いことであった。吉野への行幸に先立って義兵を起こす者たちもいた。臨幸の後には、国々にも志ある者たちが大勢いると聞こえたが、次の年も暮れた。その次の年、戊寅(一三三八年)の春二月、鎮守大将軍顕家卿はまた親王を先立て申して、重ねて攻め上った。東海道の国々はことごとく平らいだ。伊勢・伊賀を経て大和に入り、奈良の京に着いた。それから所々での合戦が何度もあり、互いに勝ち負けがあったが、同年五月、和泉国での戦いで、時が至らなかったのであろうか、(顕家の)忠孝の道はここに極まったのであった。苔の下に埋もれずに残るものとしては、ただむなしく名だけをとどめてしまった。つらい世であることよ。官軍はなお心を励まして男山に陣をとり、しばらく合戦があったが、朝敵がひそかに社殿を焼き払ってからは、事成らずして引き退いた。北国にいた義貞もたびたび召されたが、上ってくることができなかった。これということもなく、むなしく亡くなってしまったと聞こえたので、言いようもない。

解説

吉野の朝廷の正統性と、北畠顕家の戦死を記す段である。親房はまず、吉野で天皇が在位のままであり、内侍所の鏡も神璽も天皇のもとにあったことを強調する。三種の神器の所在こそが正統の証だという、この書全体を通じた主張の要がここにある。後半は顕家の再度の西上である。東海道を平らげ、伊勢・伊賀を経て奈良に入り、各地で戦ったが、和泉での戦いで討死した。親房はここで一度だけ、父としての悲しみを文に漏らす。「忠孝の道こゝにきはまりはべりにき」「苔の下にうづもれぬものとてはたゞいたづらに名をのみぞとゞめてし、心うき世にもはべるかな」。君への忠と父への孝がともに極まったという言葉は、称賛であると同時に嘆きでもある。二十一歳の息子の死を、親房はこれ以上書かない。

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