神皇正統記 / 巻六 第九十六代 後村上天皇
第九十六代、第五十世の天皇。諱は義良、後醍醐の天皇第七御子。御母准三宮、藤原の廉子。この君はらまれさせ給はんとて、日をいだくとなん夢に見申させ給けるとぞ。さればあまたの御子の中にたゞなるまじき御ことゝぞかねてよりきこえさせ給し。元弘癸酉の年、あづまの陸奥・出羽のかためにておもむかせ給。甲戌の夏、立親王、丙子の春、都にのぼらせまし〳〵て、内裏にて御元服。加冠左のおとゞなり。すなはち三品に叙し、陸奥の太守に任ぜさせ給。おなじき戊寅の年春、又のぼらせ給て、芳野宮にまし〳〵しが、秋七月伊勢にこえさせ給。かさねて東征ありしかど、猶伊勢にかへりまし、己卯の年三月又芳野へいらせ給。秋八月中の五日ゆづりをうけて、天日嗣をつたへおまします。
書き下し
第九十六代、第五十世の天皇。諱は義良、後醍醐の天皇第七御子。御母准三宮、藤原の廉子。この君はらまれさせ給はんとて、日をいだくとなん夢に見申させ給けるとぞ。さればあまたの御子の中にたゞなるまじき御ことゝぞかねてよりきこえさせ給し。元弘癸酉の年、あづまの陸奥・出羽のかためにておもむかせ給。甲戌の夏、立親王、丙子の春、都にのぼらせましまして、内裏にて御元服。加冠左のおとゞなり。すなはち三品に叙し、陸奥の太守に任ぜさせ給。おなじき戊寅の年春、又のぼらせ給て、芳野宮にましまししが、秋七月伊勢にこえさせ給。かさねて東征ありしかど、猶伊勢にかへりまし、己卯の年三月又芳野へいらせ給。秋八月中の五日ゆづりをうけて、天日嗣をつたへおまします。
現代語訳
第九十六代、第五十世の天皇。諱は義良(のりよし)、後醍醐天皇の第七皇子である。母は准三宮、藤原廉子。この君がお宿りになるとき、(母が)日を抱く夢をご覧になったという。だから多くの皇子の中でも、ただならぬお方であろうと、かねてから噂されていた。元弘癸酉の年(一三三三年)、東国の陸奥・出羽の守りとしてお赴きになった。甲戌の年の夏に親王宣下があり、丙子の年の春、都に上られて、内裏で元服された。加冠の役は左大臣であった。すぐに三品に叙され、陸奥太守に任じられた。同じく戊寅の年の春、また上られて吉野の宮におられたが、秋七月に伊勢にお越しになった。重ねて東征なさったけれども、なお伊勢にお帰りになり、己卯の年(一三三九年)三月にまた吉野へお入りになった。秋八月十五日、譲りを受けて、天つ日嗣をお伝えになった。
解説
関連する章句
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『神皇正統記』巻四 第六十二代 村上天皇第六十二代、第三十四世、村上天皇。諱は成明、醍醐十四の子、朱雀同母の御弟也。丙午年即位、丁未に改元。兄弟相譲せ玉ひしかば、まめやかなる禅譲の礼儀ありき。此天皇賢明の御ほまれ先皇のあとを継申させ給ければ、天下安寧なることも延喜・延長の昔にことならず。文筆諸芸を好給こともかはりまさゞりけり。よろづのためしには延喜・天暦の二代とぞ申侍る。もろこしのかしこき明王も二、三代とつたはるはまれなりき。周にぞ文・武・成・康、漢には文・景なんどぞありがたきことに申ける。光孝かたはらよりえらばれ立給しに、うちつゞき明主の伝り給し、我国の中興すべきゆゑにこそ侍けめ。又継体もたゞこの一流にのみぞさだまりぬる。すゑつかた天徳年中にや、はじめて内裏に炎上ありて内侍所も焼にしが、神鏡は灰の中よりいだし奉らる。「円規損ずることなくして分明にあらはれ出給。見奉る人、驚感せずと云ことなし。」とぞ御記にみえ侍る。
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『神皇正統記』巻六 第九十五代 後醍醐天皇同風のまぎれに、東をさして常陸国なる内の海につきたる船はべりき。方々にたゞよひし中に、この二のふねおなじ風にて東西にふきわけゝる、末の世にはめづらかなるためしにぞ侍べき。儲の君にさだまらせ給て、例なきひなの御すまひもいかゞとおぼえしに、皇太神のとゞめ申させ給けるなるべし。後に芳野へいらせましまして、御目の前にて天位をつがせ給しかば、いとゞおもひあはせられてたふとく侍るかな。又常陸国はもとより心ざす方なれば、御志ある輩あひはからひて義兵こはくなりぬ。奥州・野州の守も次の年の春かさねて下向して、おのおの国につきはべりにき。さても旧都には、戊寅の年の冬改元して暦応とぞ云ける。芳野の宮にはもとの延元の号なれば、国々もおもひおもひの号なり。もろこしには、かゝるためしおほけれど、此国には例なし。されど四とせにもなりぬるにや。大日本嶋根はもとよりの皇都也。内侍所・神璽も芳野におはしませば、いづくか都にあらざるべき。さても八月の十日あまり六日にや、秋霧にをかされさせ給てかくれましましぬとぞきこえし。
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