神皇正統記 / 巻六 第九十五代 後醍醐天皇
第九十五代、第四十九世、後醍醐天皇。諱は尊治、後宇多第二の御子。御母談天門院、藤原忠子、内大臣師継の女、実は入道参議忠継女なり。御祖父亀山の上皇やしなひ申給き。弘安に、時うつりて亀山・後宇多世をしろしめさずなりにしを、たび〳〵関東に仰給しかば、天命の理かたじけなくおそれ思ければにや、俄に立太子の沙汰ありしに、亀山はこの君をすゑ奉らんとおぼしめして、八幡宮に告文ををさめ給しかど、一の御子さしたるゆゑなくてすてられがたき御ことなりければ、後二条ぞゐ給へりし。されど後宇多の御心ざしもあさからず。御元服ありて村上の例により、太宰帥にて節会などに出させ給き。後に中務卿を兼せさせ給。後二条世をはやくしまし〳〵て、父の上皇なげかせ給し中にも、よろづこの君にぞ委附し申させ給ける。やがて儲君のさだめありしに、後二条の一のみこ邦良親王ゐ給べきかときこえしに、おぼしめすゆゑありとて、此親王を太子にたて給。「かの一のみこをさなくましませば、御子の儀にて伝へさせ給べし。
書き下し
第九十五代、第四十九世、後醍醐天皇。諱は尊治、後宇多第二の御子。御母談天門院、藤原忠子、内大臣師継の女、実は入道参議忠継女なり。御祖父亀山の上皇やしなひ申給き。弘安に、時うつりて亀山・後宇多世をしろしめさずなりにしを、たびたび関東に仰給しかば、天命の理かたじけなくおそれ思ければにや、俄に立太子の沙汰ありしに、亀山はこの君をすゑ奉らんとおぼしめして、八幡宮に告文ををさめ給しかど、一の御子さしたるゆゑなくてすてられがたき御ことなりければ、後二条ぞゐ給へりし。されど後宇多の御心ざしもあさからず。御元服ありて村上の例により、太宰帥にて節会などに出させ給き。後に中務卿を兼せさせ給。後二条世をはやくしましまして、父の上皇なげかせ給し中にも、よろづこの君にぞ委附し申させ給ける。やがて儲君のさだめありしに、後二条の一のみこ邦良親王ゐ給べきかときこえしに、おぼしめすゆゑありとて、此親王を太子にたて給。「かの一のみこをさなくましませば、御子の儀にて伝へさせ給べし。
現代語訳
第九十五代、第四十九世、後醍醐天皇。諱は尊治(たかはる)、後宇多院の第二皇子である。母は談天門院、藤原忠子で、内大臣(五辻)師継の娘とされるが、実は入道参議忠継の娘である。祖父の亀山上皇がお育て申しあげた。弘安の頃に時勢が移って、亀山院・後宇多院が世をお治めにならなくなったのを、たびたび関東に申し入れられたので、(関東も)天命の道理を恐れ多く思ったからであろうか、急に立太子の議が起こった。そのとき亀山院はこの君を立て申そうとお思いになって、石清水八幡宮に告文を納められたが、第一皇子(邦治親王)をさしたる理由もなく退けることはできないということで、後二条院が東宮にお立ちになった。けれども後宇多院のこの君へのお心ざしも浅くはなかった。元服されると村上天皇の例にならい、大宰帥として節会などに出られた。のちに中務卿を兼ねられた。後二条院が早く世を去られ、父の上皇が嘆かれたなかでも、万事をこの君にお任せ申しあげた。やがて皇太子を定めることになり、後二条院の第一皇子である邦良親王がお立ちになるかと噂されたが、(後宇多院は)考えるところがあるとして、この親王(尊治親王)を皇太子に立てられた。「あの第一皇子(邦良親王)は幼くいらっしゃるので、(尊治親王が)わが子の扱いとして位を伝えられるように。
解説
関連する章句
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『神皇正統記』巻六 第九十五代 後醍醐天皇戊午の年即位、己未の夏四月に改元。々応と号す。はじめつかたは後宇多院の御まつりことなりしを、中二とせばかりありてぞゆづり申させ給し。それよりふるきがごとくに記録所をおかれて、夙におき、夜はにおほとのごもりて、民のうれへをきかせ給。天下こぞりてこれをあふぎ奉る。公家のふるき御政にかへるべき世にこそとたかきもいやしきも、かねてうたひ侍き。かゝりしほどに後宇多院かくれさせ給て、いつしか東宮の御方にさぶらふ人々そはそはにきこえしが、関東に使節をつかはされ天位をあらそふまでの御中らひになりにき。あづまにも東宮の御ことをひき立申輩ありて、御いきどほりのはじめとなりぬ。元亨甲子の九月のすゑつかた、やうやう事あらはれにしかども、うけたまはりおこなふ中にいふかひなき事いできにしかど、大方はことなくてやみぬ。其後ほどなく東宮かくれ給。神慮にもかなはず、祖皇の御いましめにもたがはせ給けりとぞおぼえし。今こそ此天皇うたがひなき継体の正統にさだまらせ給ひぬれ。
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『神皇正統記』巻六 第九十五代 後醍醐天皇かねて時をもさとらしめ給けるにや、まへの夜より親王をば左大臣の亭へうつし奉られて、三種の神器を伝へ申さる。後の号をば、仰のまゝにて後醍醐天皇と申。天下を治給こと二十一年。五十二歳おましましき。昔仲哀天皇熊襲をせめさせ給し行宮にて神さりましましき。されど神功皇后程なく三韓をたひらげ、諸皇子の乱をしづめられて、胎中天皇の御代にさだまりき。この君聖運ましまししかば、百七十余年中たえにし一統の天下をしらせ給て、御目の前にて日嗣をさだめさせ給ぬ。功もなく徳もなきぬす人世におごりて、四とせ余がほど宸襟をなやまし、御世をすぐさせ給ぬれば、御怨念の末むなしく侍りなんや。今の御門また天照太神よりこのかたの正統をうけましましぬれば、この御光にあらそひたてまつる者やはあるべき。中々かくてしづまるべき時の運とぞおぼえ侍る。
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『神皇正統記』巻六 第九十五代 後醍醐天皇もし邦良親王早世の御ことあらば、この御すゑ継体たるべし。」とぞしるしおかせましましける。彼親王鶴膝の御病ありて、あやふくおぼしめしけるゆゑなるべし。後宇多の御門こそゆゝしき稽古の君にましましゝに、その御跡をばよくつぎ申させ給へり。あまさへもろもろの道をこのみしらせ給こと、ありがたき程の御ことなりけんかし。仏法にも御心ざしふかくて、むねと真言をならはせ給。はじめは法皇にうけましましけるが、後に前大僧正禅助に許可までうけ給けるとぞ。天子潅頂の例は唐朝にもみえはべり。本朝にも清和の御門、禁中にて慈覚大師に潅頂をおこなはる。主上をはじめ奉りて忠仁公などもうけられたる、これは結縁潅頂とぞ申める。此度はまことの授職とおぼしめしゝにや。されど猶許可にさだまりにきとぞ。それならず、又諸流をもうけさせ給。又諸宗をもすてたまはず。本朝異朝禅門の僧徒までも内にめしてとぶらはせ給き。すべて和漢の道にかねあきらかなる御ことは中比よりの代々にはこえさせましましけるにや。
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『神皇正統記』巻六 第九十六代 後村上天皇第九十六代、第五十世の天皇。諱は義良、後醍醐の天皇第七御子。御母准三宮、藤原の廉子。この君はらまれさせ給はんとて、日をいだくとなん夢に見申させ給けるとぞ。さればあまたの御子の中にたゞなるまじき御ことゝぞかねてよりきこえさせ給し。元弘癸酉の年、あづまの陸奥・出羽のかためにておもむかせ給。甲戌の夏、立親王、丙子の春、都にのぼらせましまして、内裏にて御元服。加冠左のおとゞなり。すなはち三品に叙し、陸奥の太守に任ぜさせ給。おなじき戊寅の年春、又のぼらせ給て、芳野宮にましまししが、秋七月伊勢にこえさせ給。かさねて東征ありしかど、猶伊勢にかへりまし、己卯の年三月又芳野へいらせ給。秋八月中の五日ゆづりをうけて、天日嗣をつたへおまします。
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『神皇正統記』巻六 第九十五代 後醍醐天皇勧賞によりて同母の御兄四品成良のみこをこえ給。顕家卿はわざと賞をば申うけざりけるとぞ。義貞朝臣は筑紫へくだりしが、播磨国に朝敵の党類ありとて、まづこれを対治すべしとて、日をおくりし程に五月にもなりぬ。高氏等西国の凶徒をあひかたらひてかさねてせめのぼる。官軍利なくして都に帰参せしほどに、同二十七日に又山門に臨幸し給。八月にいたるまで度々合戦ありしかど、官軍いとすゝまず。仍て都には元弘偽主の御弟に、三の御子豊仁と申けるを位につけ奉る。十月十日の比にや、主上都に出させ給、いとあさましかりしことなれど、又行すゑをおぼしめす道ありしにこそ。東宮は北国に行啓あり。左衛門督実世の卿以下の人々、左中将義貞朝臣をはじめてさるべき兵もあまたつかうまつりけり。主上は尊号の儀にてましましき。御心をやすめ奉らんためにや、成良親王を東宮にすゑたてまつる。同十二月にしのびて都を出ましまして、河内国に正成といひしが一族等をめしぐして芳野にいらせ給ぬ。行宮をつくりてわたらせ給。
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『神皇正統記』巻六 第九十五代 後醍醐天皇同風のまぎれに、東をさして常陸国なる内の海につきたる船はべりき。方々にたゞよひし中に、この二のふねおなじ風にて東西にふきわけゝる、末の世にはめづらかなるためしにぞ侍べき。儲の君にさだまらせ給て、例なきひなの御すまひもいかゞとおぼえしに、皇太神のとゞめ申させ給けるなるべし。後に芳野へいらせましまして、御目の前にて天位をつがせ給しかば、いとゞおもひあはせられてたふとく侍るかな。又常陸国はもとより心ざす方なれば、御志ある輩あひはからひて義兵こはくなりぬ。奥州・野州の守も次の年の春かさねて下向して、おのおの国につきはべりにき。さても旧都には、戊寅の年の冬改元して暦応とぞ云ける。芳野の宮にはもとの延元の号なれば、国々もおもひおもひの号なり。もろこしには、かゝるためしおほけれど、此国には例なし。されど四とせにもなりぬるにや。大日本嶋根はもとよりの皇都也。内侍所・神璽も芳野におはしませば、いづくか都にあらざるべき。さても八月の十日あまり六日にや、秋霧にをかされさせ給てかくれましましぬとぞきこえし。
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